女性楽団員比率「日本一」の琉球交響楽団が奏でる普久原メロディー(前編)

普久原恒勇の交響曲「響」

11月1日、沖縄在住の作曲家・普久原恒勇(ふくはら・つねお)さんが亡くなった。誕生日は1932(昭和7)年11月14日だから享年90歳。嘉手苅林昌、照屋林助、登川誠仁などの先達はすでに鬼籍に入っているから、戦後沖縄の民謡やポップスを築いてきた(現存する)最後の偉人だった。代表作に、「芭蕉布」「ゆうなの花」「ヘイ!二才達」「肝がなさ節」「娘ジントーヨー」「島々清しゃ」交響曲「響」などがある。

普久原恒勇さんとは、1990年から93年にかけて頻繁にお目にかかっていた。林助さんのお伴でお宅を訪ねることが多かった。あるとき、恒勇さんの交響詩風のアルバム『響(とよむ)』(1981年)を頂いた。「ぜひ聴いてね」と照れくさそうに手渡してくださったが、これは恒勇さんの自信作だろうと感じた。だが、正直いうと当時はよくわからなかった。普久原恒勇といえば、民謡や沖縄ポップスの作曲家だと思っていたから、交響詩風の作品はそぐわない気がした。

2011年夏、ぼくは16〜17世紀の王朝時代に編纂された歌謡集『おもろさうし』を通読した。「とよむ」という言葉がひかり輝いていた。恒勇さんが得た着想が『おもろさうし』にあることは知っていたが、「とよむ」は「きこゑ大きみ(聞得大君)」とセットになった雅語に近い言葉で、戦や航海に際して祈りをあげる大君の神的な威力を形容するものだった。恒勇さんの琉球(沖縄)の歴史への思いが込められた作品が『響』だとわかった。正しいタイトルは「民族音楽・詞曲 響」である。クラシックの楽器は使われていない。「交響詩」とも書かれていない。恒勇さんは西洋音楽に一線を引きつつ、交響詩や交響曲と沖縄の音楽が同列に扱われるプロセスを模索していたのだと思う。

2014〜15年のことだったか。伊是名島を旅したとき、民宿のおかみが「恒勇さんが来ているみたいだよ」と教えてくれた。恒勇さんは、しばしば伊是名島を訪れると聴いていたので意外ではなかった。史曲『尚円』(1995年)を作曲して以来、尚円生誕の地といわれる伊是名島が着想のための場所になったのだろう。折角の機会だから、『響』についてのぼくの感想を直接伝えようと、恒勇さんの姿を探した。残念なことに、恒勇さんはもう沖縄本島に戻ってしまっていた。

その後、恒勇さんと会う機会には恵まれなかった。その代わり、縁あって子息であるローリー(普久原朝教)のライヴにはけっこう頻繁に通った。ローリーがお父上の「芭蕉布」をロック風にカヴァーしているのを知った。心地よい「芭蕉布」だった。恒勇さんは「芭蕉布」で一時代を築いた。ローリーもThe Waltzを率いて沖縄のロック・シーンを大きく盛り上げた。そのローリーも来年還暦を迎える。

普久原恒勇

若かりし頃の恒勇さん(discogsより)

ローリーロールバンド

ローリー(THE WALTZ)

沖縄市民会館で聴く「琉球交響楽団×普久原メロディー」

12月18日に、沖縄市民会館で『琉球交響楽団×普久原メロディー 千年音楽』を聴いた。

沖縄市民会館(大ホール)は山下達郎さんのお気に入りのホールだが(今年の達郎ツアーは新築された那覇文化芸術劇場なはーと)、やはりいつ行ってもその佇まいに感激する。取り壊しが予定される那覇市民会館(1970年完成)については、取り壊し反対運動が起きるほど熱烈な「ファン」がたくさんいるようだが、沖縄市民会館(1981年完成)のほうが音響ははるかにいい。音楽を聴く者の立場からすれば、那覇市民会館の解体はあまり気にならないが、今後沖縄市民会館の建て替えとや解体が決まったりしたら、反対運動を応援するかもしれない。それほどこの会館で聴く音はいい。

今回のイベント『千年音楽』は、普久原恒勇さん最後の企画だったようだ。タイトルは、島倉竜治・真境名安興の『沖縄一千年史』(1923年)に因んだものなのだろうか。同じことかも知れないが、「千年紀」といったほどの意味なのだろうか。いずれにせよ、“普久原メロディーは不滅である”との自負のようなものが感じられる。残念ながら企画の実現を見ずして亡くなってしまったが(享年90歳)、コンサート自体はとても斬新なものだった。「追悼企画」というより、沖縄音楽の可能性を問う企画だったと思うし、その企画意図は十分伝わってきた。


〈つづく〉

批評.COM  篠原章
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