求む!『沖縄の不都合な真実』批判

Wanted! Proper Criticism On Our Book “An Inconvenient Truth for Okinawa”

小著『沖縄の不都合な真実』が出版されて4か月経った。幸いにして好評で、現時点での刷り部数は4万6千部となっている。AMAZONでのレビューも30件に達しているが、著者2名の意図は概ね正しく捉えられていると思う。もちろん、その中には小著に批判的なレビューもある。残念ながら批判のポイントが的外れで、正直、まともに反論しようもない。

AMAZONのレビューも含めてネット上には、「もともと沖縄フリークのくせに、大学をクビになってトチ狂ってしまった篠原の沖縄に対するヘイトスピーチ」というネガティブな評価が散見されるが、小著で批判の対象としているのは沖縄や沖縄の人々ではなく、沖縄の指導者と識者、彼らに対して無批判・無条件に同調する沖縄内外のサポーターたちであり、沖縄を利用しようとする本土の政治的勢力である。「トチ狂った」という評価については「不徳の致すところ」と受けとめたいが、基地反対運動や独立運動に対する篠原の批判は、大学在職中からのものであり(たとえば『新書 沖縄読本』講談社・2011年/原稿執筆は2009〜2010年)、大学を放逐されてから「方向転換」したわけではない。

たしかに、批判者が言うところの「沖縄フリーク」として著した『ハイサイ沖縄読本』(宝島社・1993年)『沖縄ナンクル読本』(講談社・2002年)などは、「沖縄礼賛本」の性格を具えているが、大江健三郎氏や筑紫哲也氏などによって造りあげられた、「戦争の爪痕と米軍基地に苦しむ島」という沖縄観に対するアンチテーゼでもあったことは明記しておきたい。ただし、「癒しの島・沖縄」という一面的なイメージを造りあげるのに加担し、沖縄の現実を見えにくくしてしまったという意味で、篠原自身にも反省すべきところはある。その反省がなければ『沖縄の不都合な真実』を書くことはできなかった。

篠原と共著者の大久保潤がいちばん求めているのは、普天間基地の辺野古移設反対運動に積極的に関与している方々による正面からの批判である。ところが、残念なことにまだそれがない(一部の関係者には献本している)。それらしき方々からの「タイトルだけで読まなくともわかる沖縄に対するヘイトスピーチ」「詐欺師篠原の本」といったTweetはあったが、内容に対するまともな批判ではない。「読まなくともわかる…」に至ってはただただ呆れるだけである。残念ながら佐藤優氏の批判もこのレベルだ。そうした方々には「ちゃんと読んでから批判してくれよ、立ち読みでもいいから」とお願いするほかない。

『ミュージック・マガジン』4月号には松村洋氏の批判的な書評が掲載されている。松村氏は、辺野古移設反対運動に好意的な音楽評論家だ。短評なので、松村氏も十分な批判を展開できなかったのかもしれないが、その要旨は「沖縄に厳しく日本政府に甘い」というものだった。が、小著でも「政府と沖縄の指導者は共犯者」という政府批判は展開している。松村氏の指摘するように、印象として「沖縄批判」が目立つのは否定しない。が、政府批判一辺倒で、沖縄内部の矛盾や移設反対運動の欺瞞には目を瞑るような報道や論調が横行する中で、小著が明らかにした事実や小著が提起した問題は、たんなる沖縄批判を越え、日本社会の深層に触れたものだと自負している。私たちのこの「自負」に対する批判がなければ、こちらとしてはまともに反論することもできない。

「今まであんたが聴いてきた沖縄音楽は何だったんだ?」という音楽評論家・篠原に向けられた批判Tweetもあったが、本書も読まず、これまでの篠原の沖縄音楽に関する評論もろくに読んでいないと思われるこの手の批判者は、「沖縄音楽=抑圧されたものの叫び」といった陳腐な音楽観に縛られているだけだろうから、まともな議論はできそうにない。

琉球新報や沖縄タイムスが、批判的な論説を掲載する日を心待ちにしているのだが、今のところその気配もない。メディアや運動の内部にいる方々は「黙殺」すればいいと思っているのかもしれないが、願わくば、本コラムでも触れた従軍慰安婦問題に関する徐京植氏や鄭栄桓氏の朴裕河氏に対する批判のような、レベルの高い批判がほしいところである。求む!『沖縄の不都合な真実』批判。

 

マングローブ

写真は本文と関係なく、マングローブ

 

批評.COM  篠原章
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