「ステージでの泥酔」はなぜ認められないか—高田渡を通じて考える和田唱の問題提起

和田唱の勇気ある問題提起

TRICERATOPSの和田唱が、フェスの共演者が泥酔状態でステージに登場したこと、そしてそのことを許すようなロック界の風潮を批判するTweetを発信して話題になった。和田は名指ししたわけではなかったが、その後のやり取りのなかで奥田民生が謝罪したことが報道され、「犯人」(のひとり)が奥田民生であることも判明した。和田は奥田の謝罪を受けて一連のTweetを削除したという。

和田の問題提起は実に勇気ある行いだと思う。よほど腹に据えかねたことがあったのだろうが、「アーティストと酒」の関係は、やはりしっかり考えておくべきことだと思う。

「いいじゃねえか、酔っ払ってステージに出ること自体がロックらしいし」というのが、「アーティストの泥酔」を許す風潮の底流にあるが、イベントの主催に関わった経験のある者なら、そんなアナーキーで呑気なことは言っていられない。「出演中は飲むな」という話ではなく、泥酔状態で進行を妨害した行動が問題になっているのだ。そのことで、共演者やスタッフに迷惑をかけ、次回以降のフェスの開催にも影響が出る可能性ある。飲むんだったら、自分が責任を取れる範囲で飲むのが正しい行いだ。酒好きのアーティストはそのことを肝に銘ずるべきだ。ロックにアナーキーな思想を見いだすのは勝手だが、表現の場を確保するという視点からいえば、アナーキズムはむしろその破壊につながってしまうのである。

といっても、泥酔状態でステージに登場してしまう人ははっきりいってアル中である。身体的に大きな問題を抱えているということだ、アル中はアルコール摂取を自ら制御できない「病」だから、本人や家族・友人、さらに周囲のスタッフは「病」として対応策を考えなければならないだろう。そうでないと、確実にアーティスト生命を縮めてしまう。それどころかアーティスト本人の命に関わる。しかも、アル中は周囲の人間の人権や自由も奪いかねない病なのだ。

高田渡の泥酔は許されたのか

ウェブ上のコメントのなかには、泥酔してステージに上がり、そのまま居眠りすることが習慣となっていた高田渡を引き合いに出して、「高田渡なら許されたのに」という声もあった。高田がステージで寝るのは伝説と化していたから、実際に目の前でよだれを垂らしながら寝込んでしまった高田渡を見て、「伝説に触れた!」と喜んでいるアホなファンも多かった。高田の場合、自分のステージを台無しにするだけだったから「まだマシ」という考え方もあるが、高田渡の泥酔・居眠りをぼくらはけっして許していたわけではない。また、本当のファンなら「ステージ寝」をもっと心配すべきだったと思う。

高田渡が亡くなったのは56歳の時だ。「太く短い生涯」といえばカッコいいが、数多い日本のフォーク・シンガーのなかでも、文句なく最高峰に位置する高田の才能は、惜しんでも惜しみきれないほど大きかった。他のフォークシンガーの作品の多くは、「フォーク演歌」あるいは「青春歌謡」の範囲に留まるものだが、高田渡のそれは違った。人間の喜怒哀楽を「魂」のレベルで表現できる希有なシンガーであり、ソング・ライターだった。明治以降の日本の歌の歴史にも精通していた。こんなアーティストは滅多にいない。いっていれば至高のブルースマンだったのである。56歳で亡くなってしまっては困るような「宝」だったのだ。

自滅型の飲み方をしていた高田を心配した人も多かったと思うが、ファンや業界の大半は、自滅側泥酔者である高田をすっかり受け入れてしまっていた。「飲むことも芸のうち」「好きに飲ませておいたほうが高田らしい味がでる」ぐらいの感覚だったと思う。だが、それは間違った態度だった。高田にあと10年、いや5年でも長生きしてもらったほうが、日本の音楽は豊かになったはずだし、そのほうが高田にとっても良かったのではないかと思う。ぼくらは高田渡に自制して長生きしてもらうよう促すこともできたはずなのに、それができなかった。泥酔を囃したてるような風潮があり、ぼくらもその風潮に逆らわなかったことは否定できない。

那覇での泥酔ライブ事件

ぼくは高田渡に意見して嫌われてしまった経験がある。その時はたまたま沖縄にいて、高田のライブが行われることを知り、「どうせまた寝てしまうだろうな」とあまり期待せず聴きに出かけたら、予想通り2曲目を歌いながら寝込んでしまった。その日は、テレビ番組の収録もあり(後にNHKであることを知った)、主催者の野田隆司さんが困っていたので、ライナーノーツを書くなどして面識のあったぼくが仕方なくステージに上がり、「ワタルさん、起きてください」と揺り起こそうとしたが、なかなか起ようとしない。何度かステージに上がって、同じことを繰り返しているうちに視覚障害のある生徒たちが先生の引率で会場に来ていることを知った。寝始めてもう小一時間経っている。意を決したぼくは、「ワタルさん、視覚障害の子供たちがこのライブに来てるんですよ。彼らは何が起きているかもわからない。まさかこのまま帰らせるわけにはいかないでしょ」と、怒気をこめた声で話しかけると、虚ろな目をした高田は、手のひらでよだれを拭いながら、「なに?じゃ、なに歌えばいい?」という。「『生活の柄』は歌わないとダメでしょ」というと、おもむろにギターを持ち直してぼくを払いのけ、「あるき〜」と歌いはじめた。客席に戻ったぼくはすっかり脱力しながら「生活の柄」を聴いた。歌は心に沁みた。

高田渡はその後3曲ほど歌いステージを降りた。全部で5曲ほどだが、いいライブだったと思う。終演後、野田さんに話を聴くと、寝るのを心配して楽屋に酒は置かなかったという。高田渡は、隠し持ってきた酒をこっそり飲んだのである。そんな話をしていると、高田渡がやって来た。すると「おれを起こしたのはお前か!何様のつもりか」と怒鳴り始めた。さすがに我慢できなくなったぼくは、「悪いのは高田さんだ。沖縄のファンはこの機会を楽しみにやって来ている。なかには目の見えない子供たちもいた。彼らにとって、これがワタルさんの歌を聴く最初で最後の機会かもしれないんですよ。そういうことを考えたことはあるんですか?ステージの上で寝るのは金輪際止めてください!」と怒鳴り返した。高田渡は、「もう、お前の顔なんか見たくない。二度と来るな」と捨て台詞を残して楽屋に消えてしまった。いたたまれなくなってぼくもライブハウスを後にした。

「酒飲むな」を言い続けなかったという後悔

数か月後、NHKの友人からこの日に収録された番組のビデオテープが送られてきた。ぼくも写っていた。幸い終演後の口論の場面は収録されておらず、ちょっとホッとしたのを憶えている。

が、ぼくはその日以来、高田渡に会っていないし、ライブにも行かなかった。「二度と来るな」といわれたからである。数年後、高田渡は亡くなった(2005年4月16日)。後悔した。怒鳴られたからといって高田渡との関係を断ったのは不味かったと思う。その後もライブに足を運んで、しつこく「酒飲むな」と言い続けるべきだった。

何年か前、京都は三条堺町のイノダに行った。

生まれて初めてイノダに行ったのは、高校三年、1974年のことだった。高田渡「珈琲不演唱(コーヒーブルース)」(1971年)で知った憧れの店だった。当時のイノダのコーヒーは、ミルク・コーヒーがデフォルトだった。コーヒー代も安くはなかった。高田渡が思い焦がれた女の子はまだいるのか、いるとしたらそれは誰か、といったことに興味はなかったが、現役の歌い手である高田渡と歴史を共有できる喜びはあった。

だが、数年前に訪れたイノダのコーヒーは、もうミルク入りではなかった。佇まいは昔のまだだったが、ぼくの知るイノダはそこにはなかった。イノダのコーヒーはいつ変わったのだろうか。高田渡が生きていれば、そのことを語り合えたはずだが、高田渡はもういない。もうなにも共有できないのである。それは悲しいというより、腹立たしいことだ。亡くなって17年経つが、その間の歴史をぼくらは高田渡とは共有できなかった。「ステージでの泥酔・居眠り」をぼくらが持ち上げるようなことがなければ、高田渡はまだ生きていたかもしれないと思うと、後悔しても仕切れない。ステージであろうがなかろうが、過剰な飲酒は周囲がたしなめること、そしてその「周囲」にはファンも含まれるということ、このことは認識しておくべきだと思う。「ファンがアーティストの命を奪う」というのも十分ありうることなのだ。

高田渡 ごあいさつ

高田渡の最高傑作『ごあいさつ』(1971年)

批評.COM  篠原章
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