『新潮45』は廃刊すべきか?—「差別するな」の合唱では前に進まない

『新潮45』廃刊まで求める言論の歪み

『新潮45』2018年10月号の特別企画『そんなにおかしいか「杉田水脈」論文』に対する批判はエスカレートし、「『新潮45』廃刊」を求める識者まで現れている。さすがに廃刊まで求める声には驚きを禁じえなかった。もっとも議論を呼んだのは、同企画掲載の小川榮太郞の論考『政治は「生きづらさ」という主観を救えない』だが、この論考に対して正面から批判を加えるよりも先に、掲載した『新潮45』編集部と新潮社の責任を追及し、廃刊を求めるという短絡は、言論の自由の自己否定に近い行為だ。

小川の論考に欠陥があったことは事実である。この点については、すでに本サイト掲載の拙稿『そんなにおかしいか「杉田水脈」論文』(『新潮45』2018年10月号)を論評する』において詳しく触れたのでここでは割愛するが、「LGBTを差別するな」なるスローガンの下、論者や掲載誌を一気に潰しにかかろうという姿勢では、差別の実態を覆い隠すだけに終わりかねない。小川の論考を批判し、反駁があればさらに批判するというプロセスを経て初めて、LGBTをめぐる議論は前に進むことができる。差別解消のための一助となることができる。「潰せ」のかけ声に「生産性」を見いだすことなどできない。

既存の社会的通念の代弁者としての小川榮太郞

小川はわが国に根づいているLGBTに対するひとつの有力な社会的通念を代弁したが、そうした通念からもさらに逸脱するような言葉を使うという失態を犯した(前出『そんなにおかしいか「杉田水脈」論文』(『新潮45』2018年10月号)を論評する』を参照)。ただし、小川の示した社会的通念が「間違っている」としても、それが現実に我々の前に立ちはだかっている以上、「そんなものは存在しない」と切り捨てるだけでは何の成果も得られない。

今年86歳になる我が母はかなりリベラルだ。安倍政権も自民党も毛嫌いしている。選挙になれば共産党に投票する。だが、そんな母も「LGBT」を理解しようとはしない。「男女婚」以外の結婚形態は許されないと考えている。家族観もきわめて古典的だ。「LGBT」がこの世界の秩序を壊すのではないかと畏れている。LGBTに対する母のようなスタンスが、この日本において少数派だとは思えない。LGBTを理解する人たちの数に優っているかもしれない。だが、そのスタンスを口にすれば、必ずといっていいほど「差別」と糾弾され、そのスタンスは「なかったこと」にされる。母のようなLGBT観は封殺され、ただただくすぶりつづける。

人権や反差別を錦の御旗に掲げ、このような言論に一気に圧力をかけて潰してしまえば、この世界は思うようになる、素晴らしいところになると考えるのは間違いだ。くすぶっているものもさらけ出して「侃侃諤諤」をやらない限り、くすぶりは火種になり、やがて業火を招く。LGBTに対する社会的認知は、特定の言論を封殺・抹殺することによって得られるのではなく、「対立しながら理解する」「理解しながら対立する」といった時間のかかる作業を経て初めて得られるものだ。

LGBTの社会的地位改善をめぐる問題点

LGBTに対して差別的な効果を持つ制度はある。差別が生みだしている社会的構造もある。が、多くの制度や社会構造は、その時代に支配的な社会的通念の模写であり、たとえばLGBTの人たちが「理想の制度」を掲げたとしても、社会的通念が追いついていかなければ容易には実現できない。社会の深層にある「差別意識」(あるいは「被差別意識」)は簡単には取り除けるものではない。ラディカルな「革命」(たとえば明治維新や戦後改革)が起これば、社会的通念は根底から覆る可能性はあるが、そうでないかぎり、いったん根づいた社会的通念は数年どころか数十年かけないと変えることができない。制度や構造が変わらなければ、その間、多くの人びとが犠牲になる。苦しみにもがく人もいる。不幸なことだが、人びとの差別意識を変えるためのラディカルな運動は、対立と分断を生むだけでなくあらたな差別も生みだしかねない。

社会的通念は、あるマージナルなポイントに達しないと本格的な「制度化」は実現しないと思う。しかも制度化の際には、予想以上に多様な角度からの考察と検証が必要だ。たとえば、LGBT運動に関わる一部の人たちは、配偶者控除をLGBTに適用せよという。その主張は理解できる。配偶者を男女で想定している現行所得税法や地方税法などを変えるには、配偶者の定義を変える必要が生ずる。「文言を変えるだけ」とはいかず、法体系上のさまざまな整合性を考慮しなければならない。相続や金融機関との取引に関わる諸制度の変更も必要になる。もっと根源的には、婚姻法自体の改正も求められることになる(従って憲法改正も視野に入る)。

そうした制度上・手続き上の問題に加えて、そもそも配偶者控除そのものが、国際的に主流となっている個人主義的課税体系とは相いれないという問題も生じてくる。ここ30年ほどにわたり、配偶者控除の廃止がたびたび議論されている。欧米では日本のような「家族」(主として夫婦)重視の課税体系は今や珍しく、個人を単位とする課税体系が主流だ。男女の権利が均等化することによって、家族単位の課税では対応できなくなっているからである。日本の場合、労働市場における男女間の格差はまだ大きく、女性が社会的に劣位におかれている場面も多々ある。「男女均等」とはとてもいえない状態だ。「配偶者控除」は日本におけるそうした現状を反映して、「廃止」が叫ばれながらも一向に廃止されない。男女の雇用機会、男女の賃金格差、男女のその他労働条件の格差、社会保障上の男女の取扱いの格差など、多くの格差とともに配偶者控除は遺物のように残されたままだ。政府もたんに手をこまねいているわけではなく、男女間格差をなくし、配偶者控除など関連する諸制度を改革しようとしているが、なかなか改善しない。

今ここでLGBTに配偶者控除を認めるということになると、配偶者控除廃止・個人課税重視の方向性に逆行することになるばかりか、「働く者」にとってより不利な税制が生まれてしまう可能性もある。解消されていない労働市場における「男女格差」がネガティブに働けば、労働市場全体が一段と歪められてしまうかもしれない。

こうしたポイントまで考量した上で、「配偶者控除」の適用を考えないと、個人にとっても社会にとっても不利益がもたらされると思うが、要求する側はそこまで考えてはいない。配偶者控除という税制上の優遇措置を、「なぜLGBTは受けられないのか」「これは差別だ」という議論ばかりが目立っている。

前述のように、ラディカルあるいはドラスティックに社会を変えようとする人びとのなかには、制度の現状や歴史的経緯をあまり踏まえないで、自分たちの利害と対立する制度や制度に関わる主張を「差別」と呼んで厳しく糾弾する傾向がある。彼らが「敵」と見なすものは、彼らにとって旧時代の社会的通念であり、社会的規範であることが多いが、旧時代の社会的通念や社会的規範は、新しい社会的通念が生まれてもなお残存してしまう。旧時代の社会的通念と新しい社会的通念を入れ替えるためには、旧時代の社会認識を「差別」と呼んで排除すればよいと考えている人たちも少なくない。しかしながら、差別の糾弾や旧時代的な社会的通念に対する非難を通じて、社会的通念を変えようという運動には限界がある。なぜなら既存の社会的通念認識は、我々の想像以上に、この社会に深い根を張っているからである。相手の言論を排除することで「最適な制度の確立」という目標が達成できると考えるのはあまりにも拙速だと思う。男女格差の問題も克服できていない現状を見ると、LGBTの制度的地位を確立するためには、まだまだ時間がかかるだろう。

ただし、根本的な制度見直しの議論に入る前に、現在国会で議論されているLGBT法案は早々に成立させる必要がある。LGBT法案は、現状と現状から類推される学校、職場、役所などでのLGBTに対する不当な扱いを止めさせるという点に主眼が置かれ、税制などにおけるLGBTの取扱いについては踏み込んでいないが、深刻ないじめや差別的取扱いを少しでも減らすために、与野党協議の上、できるだけ早く法案を成立させるべきだ。最終的には、憲法など基本的な法律のなかで、男女という「性」のかたちを見直す議論を進めるほかないだろう。こうした議論を通じて、政治が性に関与するスタンスもはっきり決めておく必要がある。

差別は克服できるか

誰かが「差別」と感ずる言論には、言論によってしか対峙できない。現状は、「言論対言論」ではなく「運動対言論」に堕している。今回のような「事件」が起こると、新聞やテレビでの扱いは、一方的に「差別」を主張する側に肩入れする傾向がある。差別というのはそもそも重層的・多層的なものであり、かつ歴史的な産物である。「差別はことごとくいけない」という言論ですら歴史の1ページにすぎない。一方的で過剰な「差別するな」という主張は、差別を取り除くための制度すら壊すことがある。自分たちにとって「差別的」な言論さえ取り除けば社会は変わるという姿勢は、社会も、歴史も、人間も、ずいぶん甘く見ていると考えざるをえない。

それどころか、こうした反差別運動には差別運動を増長させる傾向さえある。たとえば在特会は、言論そのものではなくラディカルな運動体だ。そこには政治的言語に名を借りた、意図的で歪んだ差別主義がはびこっている。いわゆる「しばき隊」が彼らに対して実力行動に出たことは理解できるが、「暴力には暴力を」に近い彼らのアプローチは在特会を増長させたというきらいがある。

小川榮太郞の今回の論考は、保守的なLGBT観の代弁者としての、あるいは保守的な社会的通念を守る立場を逸脱したと思う。その点は大いに批判されていい。だが、LGBT問題に対するある種の問題提起として、つまり既存の社会的通念を再考するひとつのきっかけとして、彼の主張に具体的に反駁する必要がある。ところが、現状は「差別」という言葉が先行し、一部を除いてまだ冷静な議論には入れない状態だ。憎悪とそれに対する反発の連鎖が続いても意味はない。

「人間は皆平等である」というのは理念としては真理であり、現実としては欺瞞である。この地球上から差別をなくすことはできない。なぜ差別がなくならないのかという問いかけは、人類の歴史全体に向けられなければならない。我々は皆、差別の加害者であり、被害者でもある。私自身は「制度上の公平が保障されること」が何よりも大切だと思う。これも容易ではないが、社会認識(市民の意識)に対応しながら、できるかぎり多くの場面で法の下の平等が達成されることを目指すほかない。それでも差別はなくならないが、法的平等性と一定の所得分配を伴った経済的機会均等が確保されれば、この世界の「不幸」はかなりの程度減じられることになろう。その意味での規律はやはり必要だが、「ひとりひとりの心の中の差別感情」や「被差別感情」を取り除くことを規律の目標としたら、世界は逆に混乱に陥ってしまう懸念もある。

いずれにせよ、議論はまだ始まったばかりだ。特定の言論や社会的通念を排除するのではなく、改善のための具体的な議論を積み重ねていく必要性を痛切に感じる。今回の一件をきっかけに議論が深まることを心から望む。

批評.COM  篠原章
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