小山田圭吾ははめられた? — 北尾修一の検証記事を読んで
元QUICK JAPAN編集部の北尾修一が、7月31日までの限定公開記事(検証記事)のなかで、「小山田圭吾を擁護するものではない」としながらも、小山田の「虐め」を告発した「孤立無援のブログ」には、小山田を陥れる悪意があったとし、歪められた情報が世論を動かしたと主張している。リアルな視点だが、逆にQJ編集部の「脇の甘さ」も浮き彫りになったと思う。
北尾修一の検証記事は7月31日までの限定公開だが、いちおうリンクを張っておく。
いじめ紀行を再読して考えたこと 01-イントロダクション
いじめ紀行を再読して考えたこと 02-90年代には許されていた?
いじめ紀行を再読して考えたこと 03-「いじめ紀行」はなぜ生まれたのか
ただ、「孤立無援のブログ」の信頼性に疑義が出たことに、ジャーナリズムが注目しないのはおかしい。「孤立無援のブログ」に対する検証記事が、「加害者側」から出されているだけで、新聞・テレビが「孤立無援のブログ」の情報を真に受けて、検証することなくそのまま垂れ流すのはとても罪深いことだ。
北尾修一の検証によれば、小山田は虐めの傍観者であった可能性が高い。だとすれば、この国の人びとの大部分は小山田と同類である。みな虐めの傍観者だ。小山田だけを責められるのか。小山田のQJ記事はジャーナリズムの失敗だが、小山田バッシングもジャーナリズムの失敗だ。やはりジャーナリズムの責任は大きいと思う。
純粋に書き手の立場から勝手なことを言わせてもらえば、障害者のみならず、自分たちが取材対象に選んだ「お気に入りのアーティスト」の人格に重症を負わせかねない企画記事を書き、それを掲載するのは、一般的な音楽誌ならとても考えられない。「タブーに挑戦」といえば聞こえはよいが、障害者を傷つけ、アーティストを抹殺する行為である。
QJはアーティストと書き手の善意で成り立っている雑誌だった。原稿料は信じられないほど安い。それでも書き手が途絶えなかったのは、QJが肩入れするアーティストやカルチャーに育ってもらいたいという強い思いがあったからだ。読者もその情熱を評価していてくれたのだと思う。その点さえ忘れなければ防ぐことのできる一件だった。