田中康夫が長野県知事として「成し遂げた」こと

横浜市長選に名乗りを上げている田中康夫が長野県知事(在任期間2000年から2006年)だったことはよく知られている。

その経歴を簡単に振り返ると以下の通り。

1956年武蔵野市生まれ。64年長野県上田市に転居、66年には松本市に移る。県立松本深志高校を経て一橋大学法学部に入学、在学中の1980年に小説「なんとなく、クリスタル」で、文学雑誌『文藝』の文藝賞を受賞。卒業後、モービル石油に入社するも3か月で退社、以後作家活動に入る。阪神淡路大震災直後に神戸でボランティア活動を始め、神戸への愛着から神戸空港の建設に反対する市民運動に取り組む。2000年に長野県知事選に立候補し当選するが、2002年に議会から不信任決議を突きつけられてあらためて知事選挙に挑み、再選を決める。2006年に3選を目指すが落選。2007年の参院選で新党日本から出馬し、比例区で当選。2009年には新党日本から衆院選に挑み兵庫8区で当選。2012年の衆院選では落選した。2016年の参院選にはおおさか維新の会公認で出馬したが、議席は得られなかった。

そこで、彼が知事時代に「何を成し遂げたのか」が気になった。敬愛するO先輩から示唆を受け、手元の資料やネット上の情報をざっと調べてみたが、1.脱ダム宣言2.脱記者クラブ3.市町村合併への問題提起4.同和対策経費の大幅削減の四つが彼の知事としての「実績」になる可能性があることがわかった。

  1. 脱ダム宣言(ダム計画の全廃)は、彼自身の発案になる鳴り物入りの政策として有名で、自民党や土木建設業界などから猛烈な反発を受けたが、「長期間を必要とするインフラ整備計画」に対する問題提起だったと考えれば、納得はできる。「過去の経緯や現実を無視したとんでも計画」と非難するのは必ずしも正しくないだろう。ダム建設など長期にわたるインフラ整備計画は、その後の環境変化により事業が陳腐化した場合でも推進されてしまう。「10年前、20年前に立てられた整備計画の推進などもう時代に合わないのだからいっそのこと止めてしまえ」というのが田中の発想で、それ自体、インフラ整備に対する問題提起としては有効だった、というのがぼくの評価である。ただ、周りにとっては迷惑至極だったと思う。脱ダム宣言は、滋賀県や熊本県など他の自治体に対しても一定の影響力を持ちえたし、国土交通省も考慮せざるをえなかった。だが、それが科学的・技術的根拠を伴っていなければ、逆に混乱をもたらすだけで、県益・市民益にならないケースも多い。田中の場合、問題提起としては有効だったが、実際の政策が客観的・合理的な根拠をもとに進められたのかを問うてみると、なんとも心もとない。宣言としての効果はあったが、合理的な政策とはいえなかったと思う。現在、3・11の経験や頻発する豪雨災害の経験を生かした「防災意識に裏づけられた総合的な水利事業」が求められているが、田中県政の時代にはそこまで高い意識を持つ人は少なかったので、田中が中途半端だったとしてもあまり責められないとは思う。
  2. 脱記者クラブ」は、今も長野県で継続されているらしい。記者クラブが一部ジャーナリズムの特権を維持する機関であるという田中の認識は正しいが、これについても身勝手で自分本位の政策だったという批判はある。自分が気に入らないもの(長野の政治的名家・小坂家が経営する信濃毎日新聞など)を排除したにすぎない、という批判だ。やり方はともかく、姿勢としては正しかったのだから評価は必要だ。田中でなければ、そんなことはいえなかったし、やれなかった。記者クラブという情報独占体制に風穴を開けた意味は大きい。
  3. 田中は、総務省(自治省)などが推進した市町村合併には否定的だった。田中の中には中央集権体制に対するアンチテーゼが息づいていたのだろう。だが、教育、社会保障・医療福祉などに対する理念が住民のあいだで民主的に共有されていれば、自治体経営は基本的に費用と便益の比較に基づいて行われてよいと思う。効率的な自治体経営を目指す際、市町村合併は数少ない必要な手段だ。それぞれの土地の歴史や文化や風土などを尊重しながら自律を模索するする方法はいくらでもあるから、「市町村合併反対」を唱えることは必ずしも本質的ではない。ただ、田中は、長野県木曽郡山口村の岐阜県中津川市への吸収合併(越県合併)に反対しなかったから、偏狭な合併反対主義者ではなかったと思う。
  4. 田中最大の「業績」は同和対策経費の削減である。これは、田中のような剛腕がなければできない。1969年に始まった同和対策事業は、1982年に「地域改善対策特定事業」に引き継がれ、2002年まで実施されていた。国策としての同和対策事業は、「制度的な平等がしっかり守られていれば、やがて実質的な平等も実現する、そのプロセスで足りないと思われる部分を、予算に紐付けられた特定の事業によって補っていく」という考え方をもとにしており、その意味では2002年に同和対策事業を原則終了させた国の判断は正しかったと思う。激しく反発していた同和団体も、こうした国の方針を最終的に受け入れざるをえなかった。ところが、同和対策事業は終わったものの、地域改善対策事業という予算の枠組みは残されていた。部落解放同盟は、この点に着目し、「国は同和対策を止めたが、自治体は継続すべし。差別は残されているのだから地域改善対策事業費を使え」として、各自治体に働きかけ、2002年以降も実質的に同和対策事業は継続されてきた。実効性が不明の同和対策に懐疑的な田中は、部落解放同盟と直接対決したが、今も残る「差別」として解同側が田中に示したのは、若干の雇用差別と稀に起こりうる結婚差別だけだった。そのため、田中は自信を持ってほとんどの同和対策事業を中止することができた。田中と同じく部落解放同盟の活動に否定的だった共産党の支援を受けられたのも大きかったと思う。今も自治体の中には、規模を縮小しながら従来通りの同和対策事業を行っているところが多い。全廃に向けて舵を切った首長の筆頭が田中だったことは記憶しておくべきだろう。

さて、上で触れた四つの「実績」のうち、予算を伴う政策として「成し遂げた」といえるのは、同和対策事業の削減・廃止だけだと思う。他の三つは、どちらかといえば政治家としての姿勢・哲学を問うテーマで、「成し遂げた」とはいいにくい。ダムについては意見が大きく分かれるところだが、「姿勢と影響力は評価するが、具体的な政策として評価できる点は少ない」というのがぼくの結論である。

そこで、横浜市長選挙に話を進めたい。現在田中が掲げている政策は、いずれもあまり魅力がない(田中康夫の政策PDFファイル)。横浜市がすでに指針化しているものが多く、役人の作文に近い政策ばかりである。新味もなければ、争点となりうるようなものもない。実効性はともかく、長野県知事として取り組んだテーマのほうがはるかにキラキラしている。田中が本気で市長選挙に臨みたいのなら、せめて「姿勢」だけでもキラキラするものが必要だ。その点は松沢成文もほぼ同じで(松沢成文の政策)、市長選に臨むにあたっての政策は簡単に箇条書きに列挙されているだけで、中身は定かではない。同じWEBに神奈川県知事時代に彼が「成し遂げたこと」も列挙されているが、「ふーん、それで?」といいたくなるような書き方である。このままでは2人とも凡庸な候補に終わってしまう。

 

批評.COM  篠原章
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