佐藤優さんの沖縄論は先が見えない (1)

1.5月26日付の琉球新報「ウチナー評論226」

本土の沖縄に対する「構造的差別」を問題とする代表的な論者が、知念ウシさんと佐藤優さんだ。知念ウシさんは本土のマスコミの人気は高いが、ぼくの知る限り大 手メディアでの連載はない。佐藤さんは大小取り混ぜて実にさまざまなメディアで、それこそ毎日のように発信している。もちろん、ぼくはそのすべてを把握しているわけではないし、「佐藤優」という書き手にとくに大きな関心があるわけでもない。ただ、佐藤優さんは、琉球新報に「ウチナー評論」というコラムを連載していて、「沖縄の問題を基地問題のみに収斂させるべきではない」と考えている論者たちをたびたび批判している。だから、大久保潤さん(日本経済新聞)やぼくが寄稿した『新潮45』の沖縄復帰特集「沖縄の不都合な真実」に対する批判も、いつかそのコラムで展開するだろうと予測はしていた。

琉球新報(2012年5月26日)

琉球新報(2012年5月26日)ウチナー評論

案の定、『新潮45』が店頭に並んで1週間ほど経った5月26日付の「ウチナー評論」で、佐藤優さんは大久保さんの寄稿した<基地反対の名護市が「返還に反対」する基地>と題する論考を批判した。<構造的差別の新言説〜「支那通」と同じ視座>と題されたそのコラムは以下の通りだ。

在沖縄米軍基地の削減を唱える言説の中に、沖縄に対する構造的視座をそのまま持ち込む論者がいる。『新潮45』6月号に掲載された日本経済新聞の大久保潤社会部次長の論考「基地反対の名護市が『返還に反対』する基地 米軍が返すというキャンプ・ハンセンの土地を名護市は受け取らない。その知られざる理由とは」がその一例だ。一見、カネが入ってくるので、沖縄は基地を手放せないという、月並みな言説のように見えるがそうではない。

大久保氏は、2005年3月から08年2月まで日経新聞の那覇支局長をつとめた。沖縄に関する情報や知識はそれなりにある。しかし、決定的に欠けているのは、沖縄人を同胞と見なす感情であるように筆者は考える。この論考で、大久保氏はこう述べる。

<沖縄では、理想に逆行することが起きている。基地の返還に反対し、美しい海岸線を埋め立て、子ども非行に関心が薄く、女性へのDV(ドメスティックバイオレンス)が日本一多く、小中学校の6人に1人が就学援助を受けながらも学力は日本一低く、北部や離島の過疎化に向き合わず、母子家庭や生活保護世帯の貧困を放 置し続けている。

官頼みになる沖縄側には「こんな沖縄に誰がした」という気持ちがあるだろう。それにはあえて反論しない。沖縄の基地と振興策の継続を黙認してきた責任は我々本土側の人間、とりわけマスコミには重くあるだろう。だからこそ、沖縄の基地を減らし、同時に特別な配慮も終わりにして、正常な関係を築くべきだと強く思うのだ。>

大久保氏は沖縄に対する差別が構造化された歴史的経緯は一切不問にして、現象の一部を抽出し、それをプリズムで拡大している。さらに大久保氏は、<(県は)多すぎる予算を使い切れずに困っている。こんなバカげた話があるだろうか。被害者は納税者全員だ。この被害をなくすためにも、沖縄の基地は減らさなければならない>と強調する。

太平洋戦争前、戦中の帝国陸軍に「支那通」と呼ばれる軍人がいた。中国語を解し、中国に関する情報や知識は持っている。中国要人と人脈も持っている。しかし、「支那通」は、中国を支配、操作する対象としか考えないので、暗殺や破壊などの謀略を平気で行った。「支那通」と同じ視座から沖縄を見る「沖縄通」が外務官僚、防衛官僚、記者にいる。大久保氏も「沖縄通」の1人だと筆者は認識している。沖縄の力で、近未来に米軍基地が削減されることが「沖縄通」にはわかる。それを口実に、沖縄に対する予算支出を絞り、構造的差別をつづけることを一部の「沖縄通」が考えているのだろう。東京で構造的差別の新言説が生まれつつあることを示すものだ。

2.「支那通」ってなんだ?

佐藤優さん、大久保さんの文章を引用するためのタイピング、けっこうたいへんだっただろうけど(ぼくもさらにタイピングするので余計に大変だった)、まったく説得力ないなあ。

<「支那通」ってなんスカ?>と思わずいいたくなった。まるでピンと来ない。映画『SHANGHAI』(2010年)に出てくる渡辺謙のような、日本軍の諜報担当将校のことか? 大日本帝国のためには「暗殺や破壊」もいとわない、不死身の悪役。だが、渡辺謙が演ずるのでカッコよくもある。ちょっと哀れな存在でもある。戦時下だから、そういう汚れ役も当然いたにちがいないとは思うが、リアルなイメージは浮かばない。渡辺謙と大久保潤が重なって見える人がいるとすれば、それはかなりの誇大妄想だ。「まずは支那通について一冊本を書いてから、大久保さんを批判してください」と佐藤優さんにお願いしたくなってしまう。知念ウシさんもそうだが、構造的差別論者の方々は、そうした過去の亡霊をひっぱりだしてきては、現代沖縄の切実な問題をうったえる論者を批判する傾向が強い。いってみれば悪意ある衒学趣味だ。

大久保さんは基地削減に賛成だ」という点に佐藤優さんが気づいたところまではいい。正しい解釈だ。だが、佐藤優さんは、意識的にか無意識的にかは知らないが、補助金で肥大化した「公」が、「公」自身を守るために基地反対運動を温存するような「構造」を問題視する大久保さんの主張をねじ曲げて理解している。まわりくどいいい方をすると、「構造的基地反対運動批判論」だ。公自身が生き延びるために、沖縄に内在するさまざまな経済的・社会的問題を放置している。こうした問題は、経済的格差、家族関係、教育、医療などあらゆる分野に広がっている。普天間基地移設などでもめている場合じゃない。移設の段取りは粛々と進めればいいだけの話である。もっと深刻なのは、歪んでしまった沖縄の経済・社会の正常化だと大久保さんは主張しているのだ。大久保さんの目線は、これまで社会の底辺に取り残されてきた人たちや、不要で不確かな財政支出に伴う税負担を強いられている国民全体に向けられているのであって、「予算支出を絞る」といった霞ヶ関・永田町的な政治的思惑に向けられているわけではけっしてない。佐藤優さん、しっかり読んでくださいよ。読めばわかるんだから。

佐藤優さんはおそらく慌てたのだろう。「沖縄は補助金まみれ」と批判する過去の論者は、基地反対運動を「カネほしさの裏返し」と印象づけるために、論を展開することが多かった。彼らは「基地削減」といわなかった。ところが大久保さんは基地削減を前面に出し、「被害者は納税者全体」とまでいっている。佐藤さんはびっくりして、これを「構造的差別」の新言説と位置づけて考えるほかなかったのだ。

大久保さんの主張は「新言説」といえば「新言説」だが、沖縄の経済や社会への深い洞察力をもとに書かれた『幻想の島・沖縄』(日本経済新聞出版社・2009年)ですでに公表された沖縄観の延長線上にある。ついでにいえば、同じ『新潮45』誌上に掲載されたぼくの論考<補助金要求の名人たちが作る「公務員の帝国」>も、一見するとたんなる「補助金まみれ」の批判に見えるが、沖縄に内在する厄介な「階級社会」の実態を暴露したものだ。「沖縄問題は基地問題」という単眼的な「視座」では、沖縄も日本も救えないところに来ている、というのが大久保さんとぼくとに共通の認識である。

逆説的だが、「補助金を減らさない限り、不幸の連鎖はつづく」と言い切ってもいい。階級社会・格差社会となっている沖縄を正常化し、補助金を削減する努力を重ねることが、基地を減らし、沖縄社会一般の不幸を減らすことに通ずるのである。基地の削減だけでは、人びとの不幸はけっして減ることはない。「本土と沖縄とのあいだの構造的差別と対立の構図」とか「沖縄の基地負担は本土による構造的差別の歴史的帰結」などという虚妄に引きずられていると、人びとはますます不幸になり、地域自立の問題も、安保の問題も手つかずに終わる。

佐藤優さんは、大久保さんやぼくのそうした主張にはきちんと目を向けない。慌てたあげくに、「支那通」という、一般の人たちにとってきわめて像の結びにくいことばまで持ち出して、大久保さんを「暗殺者」扱いしている。そもそも「支那」ということばは、佐藤優さんの勤務先だった外務省の通達で 使用禁止になっていることばじゃないのか。「支那」は差別語だ。中国に対する歴史的呼称とはいえ、エクスキューズなく佐藤優さんはこの差別語を使い、琉球新報はそれをノーチェックで見出しにしている。東京の新聞社が同じことをやったら非難囂々である。ひょっとしたら、琉球新報は「支那」ということばをふだんから平気で見出しにしているのだろうか。「日中戦争」といわずに、「支那事変」といっているのであろうか。個人的にはぼくは「支那」ということばの使用を否定したくないが、差別語に敏感であるべき公器たる新聞が、説明責任も果たさないまま軽々とこのことばを使ってもいいのか?

(佐藤優さんの沖縄論は先が見えない (2)につづく)

 

 
 

批評.COM  篠原章
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