知念ウシさんの沖縄民族主義は危険だ

<沖縄の本土復帰40年>
知念ウシさんの沖縄民族主義は危険だ

 

1.沖縄人は豚ですか?

5月10日の朝日新聞には驚いた。
「沖縄人は豚ですか?」
一面に掲載された「日米琉40年(上)」という特別取材記事の見出しである。

朝日新聞(2012年5月10日)

朝日新聞(2012年5月10日)

てっきり、ウチナーンチュ(沖縄人)がウチナーンチュであるがゆえに「豚」呼ばわりされる、という差別的な事件が起きたんだ、と思った。が、読んでみたら全然違う。嘉手納出身の女性が主宰する劇団の「わーわー」(わー=豚)という芝居の話である。

その芝居では、本土の人間(日本人)が「人間」、ウチナーンチュが「豚」に喩えられ、本土の沖縄に対する差別意識を問題にしているという。普天間基地の県内移設を訴える政治家を見て、主宰者は「そうか。私たちは『人間』じゃないんだ」と感じてこの芝居をつくったという。ご丁寧にも、大阪の雑踏に立ってこちらを睨みつける女性の写真がカラーで掲載されている。こんな自虐的な芝居を演じなければならないほど、「ウチナーンチュは追いつめられている」といいたいのだろうが、さすがにこの見出しと記事構成はないでしょう。沖縄という出自の差別が現在でも大手を振って罷りとおっていると勘違いさせる。「あの人は大阪出身だからどケチだ」とか「あの人は東京出身だから気取ってる」といったレベルの“差別”ならあるだろうが、沖縄出身だからといって「この豚野郎!」なんて怒鳴る人はまずいない。担当の上遠野郷、野崎健太両記者は、記事として目立たせることを企図したのかもしれないが、これじゃ「悪意」すら感じる人も出てくる可能性がある。沖縄と日本が決定的に対立しているような印象を与えるからだ。

普天間基地移設問題をめぐって、沖縄のメディアでは 「構造的差別」ということばがしばしば使われている。最近では、「構造的」がとれて、たんに「差別」といわれることも多い。要するに基地を沖縄に押しつけて平気なヤマトーンチュ(本土の人間)は差別主義者だということだ。政治家だけじゃない。沖縄以外の国民すべてが差別主義者とされているのだ。

2.知念ウシさんにみんなで謝ろう

「公平じゃない」と強調したくて、あえて「差別」という強い印象を残すことばを使っているが、さすがに「差別」はきつい表現だ。そんなに酷いことをしたんだろうか。「構造的」ということばがくっついていてもまだまだ十分きつい。こうまでいわれると謝るほかないという気分になる。

記事中で知念ウシさんがいっている。

沖縄の言葉でライターを意味する「むぬかちゃー」の知念ウシさん(45)は10年ほど前から、基地を「本土に持ち帰れ」と主張してきた。「日米安保や基地が必要なのは日本人でしょ。私たちではない。もう沖縄に甘えるな」 地元の新聞や雑誌に引っ張りだこだ。差別ということばが沖縄で一般的に語られるようになったのは政権交代後。鳩山由紀夫元首相が普天間飛行場の「県外移設」を約束しながら、あっさり撤回した頃からだ。知念さんは言う。「鳩山首相は多くの人の心の中にあったものを政策にしたが、日本人は彼を支えなかった。誰が沖縄に基地を押しつけているのかが見えたのです」「差別がある以上、差別する側とされる側を分けざるを得ません。覚悟を決めたところが話し合いの出発点です」

なるほど。差別する側(われわれですよね)が「差別」していると認め、基地を引き取る覚悟を決めればいいんだな。

「拝啓 知念ウシ様 申しわけございませんでした。私たち日本人がわるうございました。私たちこそ『豚』のような薄汚い存在でした。沖縄の方々を今の今まで平気で差別してきました。今後は沖縄の基地をこちらで引き取りますので、なにとぞお許しください。敬具」

これがベストアンサーか。おいらたちが悪かった。豚は日本人だった。知念ウシさんにみんなで懺悔の手紙を書こうじゃないか。

が、待てよ。これでことは成就するのか。「解決した」あるいは「解決に向かった」ということになるのか。

3.沖縄人と日本人という対立の構図

記事中の知念ウシさんのことばをそのまま信じれば、 沖縄人と日本人は民族が異なることになっている。「沖縄民族」と「日本民族」は別のものだという認識だ。民族学的にいえば、異なる歴史も歩んだが、「沖縄民族」も「日本民族」も同根だ。まったく別のものと考えるのは難しい。遡れば、中国の諸民族だって朝鮮民族だって、ひょっとしたら南方の民族だって、われわれの血のなかのどこかに入り込んでいるかもしれないから、こんなことを議論していてもしょうがないが、民族学的には少なくともかけ離れたものではない。民族学的な「乖離」を最大限重視しても「兄弟」みたいなものだ。言語学的には、オランダ語とドイツ語・英語ぐらいの差異はあるかもしれないが、ウチナーグチ(沖縄語)とヤマトゥグチ(日本語)は大きく重なり合っている。知念ウシさんのこだわる肩書きである「むぬかちゃー」だって「物=むぬ」と「書く人=かちゃー」の合成語、つまり「物書き」だ。日本語からじゅうぶん類推できることばではないか。そもそも知念ウシさんが使っているウチナーグチは、薩摩支配時代に形成されたもので、幕府の「異化政策」(琉球を異国・異文化だと見せかける政策)の賜物ともいえる側面も持っている。植民地支配の名残ともいえるウチナーグチだ。それ以前の琉球語は日本語にもっと寄り添うことばだった。「方言」の定義もそんなに簡単ではないが、いずれにせよ知念ウシさんの使っているウチナーグチも、日本語という幹にぶらさがるいくつかの枝葉のうちのひとつであり、まったく異なる言語同士ではない。

民族(血筋)や言語は関係ない、歴史的空間・歴史的経緯が民族を形成するといいたいのかもしれない。知念ウシさんは「三代沖縄に住めば沖縄人の仲間に入れてもいい」といってると聴いた。噂だから本当かどうかはわからないが、これは重要な課題だ。三代続いた薩摩出身(ヤマト出身)やアメリカ出身の住民は沖縄民族になるのか。三代以上続いている家の孫がヤマトから嫁やムコをもらった場合、その子どもたちは沖縄民族と認めてもらえるのか。これらは血筋や言語の話ではなく、歴史的空間・歴史的経緯の話だ。どこで「民族」の線引きをするのかは意外に難しい。そもそも琉球王朝が侵略して支配した宮古・八重山はどういう扱いになるのだろう。同じようにかつて琉球王朝が侵略して支配した奄美群島(鹿児島県)はどういう立場になるのか。沖縄人とか沖縄民族という括りを厳密に考えようとすると問題山積だ。

鳩山さんの政策を実現できなかった「日本人」が悪いという。「日本人」の心のなかに差別意識がなくてもそのこと自体が差別だという。沖縄に基地負担を押しつけ、基地負担を「公平」に引き受けようとしない 「日本人」の姿勢を問題にしている。百歩譲って知念ウシさんのいう「日本人」と「沖縄人」という対立の構図が成立するとしても、残念ながら沖縄人は沖縄県民であり、日本国民である。その事実は否定のしようがない。沖縄という地域の基地負担が過剰だという事実もまちがいない。さらに、沖縄県民の属する日本という国に独自の安全保障政策が確立されていないという決定的な事実もこれに付け加える必要があるだろう。基地問題の根幹は、沖縄という地域に過剰な負担を強いてきた歴史的経緯と日本という国の安全保障政策のあり方にある。

4.米軍基地をなくすための条件

沖縄が酷い目にあったことは知っている。「日本人」 のなかには沖縄に対する贖罪意識も強い。動かせるものなら米軍基地を動かしたい。なくせるものなら米軍基地をなくしたい。が、沖縄の属する日本という国は敗戦国だった。終戦後、昭和天皇や時の政府が沖縄を切り離したとか問題にする議論もあるが、敗戦国である日本に沖縄を取り返す力はなかった。マッカーサーとその部下や後継者たちが米政府の意向も汲みながら一連の意思決定を行い、その後はマイナーチェンジを重ねながら最初の決定が追認されるかたちになった。アメリカという巨大な戦勝国に対抗できるわけがない。そして、安全保障上日本はアメリカの実質的な属国になった。憲法もアメリカから与えられた。アメリカと訣別する覚悟を持たない限り、安全保障上、完全な独立国になることはありえない。アメリカから与えられた「民主主義」と明治以降の日本の近代化の伝統が合体して、現在の日本という国の諸制度が生まれ、その制度の下で日本はアメリカの「属国」として生きることを選んだ。異議を唱える勢力もあったが、アメリカ中心の資本主義が肥大化するなかで、彼らは多数派とはならなかった。良かろうが悪かろうが、これが「戦後民主主義」の現実である。アメリカの傘の下で日本は「非戦」を選択し、「経済」に生きた。

実際の基地問題は、アメリカという国の懐具合や世界戦略の都合、もっと具体的にいえば米軍の都合、海兵隊の都合に拠るところが大きい。米国からの独立・自立を決めない限り、つまり現行の日米同盟の下では、日本が基地の移動を単独で決めるのはできない相談だ。「最低でも県外移設」という鳩山さんの発案に基づいて沖縄以外の地域が基地負担を引き受ける決断をしたとしても、アメリカ(米軍・海兵隊)がノーといえばそれで終わりである。この状況から脱却するためには、日本が安全保障上の独立国になるほかない。それは自衛隊を日本軍に変えるか(→憲法改正)、非戦を徹底するかのどちらかである。その過程で日米同盟も一から見直される。「もうアメリカさんに守ってもらう必要はありません」となるか「有事の際は協力してくださいね」となるかはわからない。いずれの場合も、時間は少なからずかかる。ぼく自身は「非戦」を選びたいが、最終的には日本国民が民主主義的な手続きにしたがって決めることだ。だが、その議論は一向に始まる気配がない。

知念ウシさんはそのことを問題にしているのだろうか。だとすれば、「沖縄人vs日本人」という対立の構図は不要だ。日本に国籍のある沖縄住民として「腹をくくった安全保障論議を」と大声でいえばいい。 これは「日本国民」としての主体的な主張になるから、本土の住民も主体的に参画することが可能だ。「基地撤去」を進めるための現実的な土台を提供する議論にもなる。安保を考える覚悟を決めることが大事なのであって、「差別」を前提に話し合うことが大事なのではない。

5.知念ウシさんの真意はどこにあるだろう?

だが、知念ウシさんはそうはいわない。「日米安保や基地が必要なのは日本人でしょ。私たちではない」という彼女のコメントは、日本国民であることも拒絶している。民族はもちろん、国家も異なるということだ。

う〜む。困ったな。知念ウシさんは日本という国家に属していることも否定している。「日本人」のぼくだって「日米安保が必要だ」と思っているわけではないが、日本における民主主義の手続きにおいては、これまで日米安保が拒否されたことはなかった。あくまでも「多数決」の世界での話だが、決まったことは決まったことだ。悪法も法なり。日米安保に異議を唱えることはできても、安保という空間的な「公共財」を拒否することは事実上できない。米軍基地が気に入らないからといって、基地を維持するための「思いやり予算」に相当する納税を拒否すれば、罰せられる。日米同盟破棄のための議論を沸騰させるほかない。民主主義には民主主義で対抗するほかないのである。もちろん、日米同盟から逃れる方法はある。海外に移住すればよい。日本という国籍も捨てればよい。だが、たいていの場合、移住した先も何らかの同盟関係や安保体制に組み込まれている。そもそも海外で仕事があるかどうかもわからないし、国籍も取得できないかもしれない。不確定要因が多すぎるから、フツーは簡単には海外移住できない。

くどくどいおう。ぼくは天皇制に疑問を持っている。だからといって、天皇をなき者にしたいと思ったことは一度もない。天皇制は民主的に決まったことではないが、日本の歴史に組み込まれ、進駐軍によっても温存されてきたという経緯がある。天皇制が気に入らなければ、これも民主的な手続きに則って改廃を検討するほかない。

もっといえば、ぼくは日本という国家を主体的に選択して生まれてきたのではない。日本に生まれたのはまったくの偶然にすぎない。この国がいやだと思うことはしょっちゅうだ。壊したいと思う政策も制度も山ほどある。だが、政府機関に爆弾を仕掛けようとは思わない。面倒でも、政策や制度を民主的な手続きに従って変えること以外の選択肢はない。政策や制度がイヤだからといって、それを忌避することも全否定することもできない。まして、「俺は日本に生まれたが、日本人じゃないので日本の制度や法律の適用は受けない」と宣言して、個人的に「独立」することもできっこない。一人では「国家」としては生きられない。

知念ウシさんは、日本国籍も拒んでいるととれる発言をしているのだから、「日本は沖縄を植民地化した、それは許しがたく認めがたいことだ」という主張をもっているにちがいない。でなければ、ウシなんていう マゾヒスティックな名乗りを選んだりはしない。ウシという名は、女性が牛馬のような労働力だった王朝時代に由来する。ということは、自らを貶めるような名乗りをあえて使うことで、「被抑圧者」の象徴になろうとしているのだろう(ただし、女性に対する抑圧は薩摩やヤマトの支配に起因するものではなく、琉球の 社会それ自体に起因している)。知念ウシさんは「被抑圧者の代表」として「反植民地運動」を進めようとしているのかもしれない。

知念ウシさんの志は「賞賛に値する」かもしれない が、そうだとすれば、「基地を引き取れ」というのでは志は伝わりにくい。反植民地運動なら、独立運動しかありえない。ところが、ご本人は「独立はまだこれから先の話」とどこかでコメントしていたし、今回の記事でも独立とはいっていない。いったいどういうことなのかますますわからなくなってきた。

6.排他的な沖縄民族主義は排他的な日本民族主義を刺激する

沖縄に基地をつくったのはアメリカである。現在でも、沖縄の米軍基地はアジア太平洋における米軍戦略の下に置かれている。日本は、「日米同盟を基軸とした外交・安全保障」をうたっているが、要するに米軍の戦略に乗っかっていて、それが最善だと思っている。歴史的には、それもアメリカに選ばされたものだ。基地の撤退を要求するなら、反日米同盟を掲げて、東京・横田基地や神奈川・厚木基地(日米共用)周辺の住民とも連帯しながら反米運動を展開すればよいのだが、知念ウシさんの主張は「反日」のみで「反米」がない。横田や厚木で騒音被害に苦しんでいる人のことなんかまったく頭にない。だから知念ウシさんが提唱するのは反植民地運動・独立運動のはずなのだが、そういう論点ははっきり見えてこない。ただただ日本本土への「怨」を掲げているだけなのだ。これはもう排他的で感情的な「沖縄民族主義」であるとしか考えられない。

沖縄が“抑圧”されてきたことは事実である。だが、 沖縄も含めた広義の日本史を見たとき、抑圧されてきた民は沖縄に限らない。それこそ日本中に抑圧された人びとがいた。沖縄の“反日主義者”はしばしば薩摩の琉球侵攻と琉球処分をもちだして、日本による沖縄の植民地化を批判する。

薩摩の琉球侵攻は植民地戦争の性格を有しているが、 それは400年以上も前の1609年のことだ。アメリカ独立戦争のはるか以前の話である。北米大陸ではまだ先住民が活躍していた。北海道の主役はアイヌだった。そういう時代の話である。400年前の侵略に落とし前をつけろというのはやはり無理がある。おまけに1609年は江戸時代初期というより戦国時代末期だ。武田家は滅ぼされ、まもなく豊臣家も滅ぼされようという段階である。政治的にも経済的にも独立性の強かった日本の各地域は、やがて幕藩体制という 中央集権体制に組みこまれる。戦国時代には各地で無数の命が失われ、国土も荒廃した。その時代の延長で琉球侵攻は起こったが、王朝は存続し、中国との関係もつづいた。それは薩摩と幕府の政策だったが、王朝の側にもメリットがあった。琉球は薩摩の属国となったが、緩やかな支配の下で王朝はその後も270年間つづいた。

1868年、明治維新が起こり、新政府軍と旧幕臣軍との戦争である戊辰戦争を経て、1871年には廃藩置県が行われた。廃藩置県とは、明治政府による中央集権制確立のプロセスで行われた藩の解体である。これによって、武士階級はこれまでのような俸禄をもらえなくなり、多くは没落した。その一部は不平士族となって西南戦争のような内戦も引き起こした。西南戦争では、政府軍・西郷軍あわせて約1万3200名の兵士の命が失われた。戊辰戦争でもほぼ同等の犠牲者がいたというから、中央集権制を確立するプロセスで失われた命は2万6千名以上にのぼったことになる。

琉球処分は廃藩置県の沖縄版で、王政の終焉を意味していた。清に亡命した者はいたが、本土のような流血の事態はなかった。王朝と士族にとっては忌まわしい体験だったろうが、俸禄制度はほぼ手つかずでなんと1903年まで存続した。有名な人頭税もその時点までつづけられたということを意味する。明治政府は士族による反乱をおそれて旧体制を温存したのだ。これが沖縄の経済的遅れの「起源」ともなったが、士族は本土とは比べものにならないほど優遇された。士族は優遇され民はその後も搾り取られたのである。琉球処分は植民地化だったといわれるが、その主張は琉球が1609年の時点ですでに薩摩の属国となっていたことを無視している。王政が廃されたという意味で、琉球処分はむしろ近代化のスタートラインだった。が、士族の優遇によって、「中途半端に終わった廃藩置県」でもあった。それが経済的遅れを引き起こしたという意味では不幸な出来事だったが、沖縄民族主義者のように、琉球処分自体を沖縄に対する差別的大事件と評価するのは完全にまちがっている。流血がなかっただけでも幸いである。

沖縄民族主義的な主張を展開する知識人たちは、しばしば歴史的事実を正しく見ようとしない。「差別」という観点から、歪んだ見方さえ平然と行われている。沖縄戦は過酷だった。米軍統治も横暴だった。歴史上、沖縄が「捨て石」のように扱われたという見方はたしかに否定できない。だが、事実を誇張したり、事実をねじ曲げたりする姿勢はやはり問題だ。日本史や世界史と対照しながら、沖縄の歴史をもう一度正面から見つめるべきだ。「差別」という目で歴史をみる態度は人間への裏切りになる。

が、こんなことをいっても、知念ウシさんのような沖縄民族主義者にはなかなか聞き入れてもらえないだろう。その主張は、贔屓目に見ても“排他的”で“差別的”だからだ。「沖縄人は差別されている」ということが、「日本人」を排除・差別していることに気づいているのだろうか。「沖縄人」が自ら被差別民だと強調することによって、日本人のなかにある排他的な 「日本民族主義者」も刺激してしまっている。すでにネット上には、排他的で感情的な日本民族主義者のコメントがあふれつつある。こうした事態は実に危険だ。

7.“沖縄民族主義”を煽るマスコミ

先に取り上げた朝日新聞の記事には、知念ウシさんは 「引っ張りだこ」だと書いてあった。現に地元はもちろん、本土のマスコミ各社も知念ウシのコメントをとろうと躍起になっている。本日5月15日、復帰の日も、朝日新聞を始めとするメディアは知念ウシ「オンパレード」だ。知念ウシさんがあちこちで嬉しそうにしゃべっている。

正直にいおう。知念ウシさんの主張はたしかに新鮮でラディカルに見えるが、素朴で感情的な「反日主義」にすぎない。多くの反基地論者がそうであるように、基地負担の現状や沖縄の歴史すら正確に捉えていない。沖縄の人たちの一部も、そしてマスコミも知念ウシさんの主張に引っ張られすぎている。恐ろしいことに彼女の主張が注目されればされるほど、本土の民族主義は昂ぶってくる。本土の民族主義が昂ぶってくれば、沖縄の民族主義はいっそう強硬になる。まさに悪循環だ。沖縄民族主義VS日本民族主義なんていう構図ほど醜いものはない。沖縄問題に何の進展ももたらさないどころか、沖縄の人びとにとっても本土の人びとにとっても、有害でしかない。

沖縄の本土復帰40年を祝福できない気持ちは痛いほどわかる。いろいろあっただろう。だが、相変わらず沖縄問題の冷静な検証はほとんど行われていない。復帰40年の冷静な検証が行われないまま、感情の塊が先走っている。もうやめよう。愚行の繰り返しは見たくもない。「沖縄人」でも「日本人」でもない。われわれは共に一介の人間である。

朝日新聞(2012年5月15日)

朝日新聞(2012年5月15日)

あわせてどうぞ

知念ウシさんの沖縄民族主義は危険だ
知念ウシさんと高橋哲哉さんの対談を批判する(1)
知念ウシさんと高橋哲哉さんの対談を批判する(2)
池澤夏樹さんは知念ウシさんに負けたのか
知念ウシ・高橋哲哉VS山添中学校生徒

批評.COM  篠原章
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket