ジャーナリズムの批判をいなした山下達郎—ジャニー喜多川の「性加害」をめぐって

ジャニー喜多川の「性加害」あるいはジャニーズ・メンバーの「性被害」について、山下達郎の『サンデー・ソングブック』(東京FM/7月9日14時〜15時)での発言が注目されていたが、予想通りというか、達郎らしいというか、ジャーナリズムの追及をいなしたかたちになった。

この問題については、
(1)松尾潔の契約解除の経緯
(2)性被害に対する山下達郎の現状認識(達郎はジャニーズ事務所に「忖度」しているという批判に対する回答)
(3)ジャニー喜多川に対する山下達郎の評価
などが焦点になっていたが、

(1)については松尾潔との契約は、スマイル・カンパニーがお金を受け取る立場の顧問契約だったことが明らかにされた。(2)については、「性加害は許されることではない」という見解を述べながら、自分は噂としてしか聞いていないので、真相については第三者委員会等の調査結果を待ちたい、というに留めた。(3)については、ジャニー喜多川の仕事をを高く評価する一方、今後もジャニーズ事務所が素晴らしい才能の宝庫であってほしいという「願い」を述べた。「自分が最も大切にしているのはご縁とご恩」という趣旨のことも話している。

山下達郎らしい賢い「回答」だったと思う。

日刊ゲンダイ』で松尾は、「弱者の味方である音楽をつくる立場の山下達郎」の「逸脱」を批判したが、自らのこうした批判(あるいは意見)に答えていないことに対して失望を表明するだろう。

だが、性被害者からの訴えはあるが、ジャニー喜多川が亡くなっている以上、真相は今のところ「藪の中」である。「第三者委員会」がまともに機能するかどうかは不明だが、客観的な証拠が提示されれば、性加害・性被害は多かれ少なかれ明らかになると思う。松尾潔が「性被害者」に同情する気持ちはわかるが、彼の発言は少々拙速で、契約解除についても、弁護士をまじえて双方が合意しているのだから、「一方的に首を斬られた」という印象を与えるような言質も好ましくはない。

それ以上に、「音楽は弱者の味方であるべき」という松尾発言の裏には、「弱者は誰なのか」「被害者は誰なのか」という実証的な問題意識があまり見当たらない。「被害を訴え出た者は弱者」というストレートな正義感に満ちている。それはそれで責められるべきことだとは思わないが、その正義感に対して「懐疑」を示す立場もありうると思う。

ジャニー喜多川が亡くなってから「問題」が噴出しているように見えるが、ジャニーの生前には頬被りしていたメディアが、BBC報道をきっかけに「正義漢」ぶってもほとんど説得力はない。

いずれにせよ、これは松尾潔や山下達郎個人の問題というより、ジャーナリズム全体の問題だと思う。「被害者の発見」が関係ない人たちまで巻き込んで、ある種の敵対的な、犯人捜し的な風潮を生みだす。もう勘弁してくれというのが正直な気持ちだが、みなはどう考えるのだろう?

【追記】

発言をひと通り終えてオンエアされた曲は「潮騒」。涙が出そうになった。

 

批評.COM  篠原章
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