佐藤優さんの沖縄論は先が見えない (2)

(佐藤優さんの沖縄論は先が見えない (1) からつづき)

3.先の見えない佐藤優さんの沖縄論

 佐藤優さんは生真面目な勉強家である。クリスチャンとしての信仰も人一倍強い。他者に対する批判力も鋭い。だが、こと沖縄論に関しては、感性的で曖昧だ。少なくとも「構造的差別」を強調するうちは、佐藤優さんの沖縄論を評価するのはむずかしい。

 大久保さん批判に即していえば、 「大 久保氏は沖縄に対する差別が構造化された歴史的経緯は一切不問にして」という箇所が彼の構造的差別論に関する唯一の内容説明である。差別の歴史的経緯が現 代において構造化されている、といいたいのだろう。その「歴史的経緯」については、たとえば佐藤優さんの著書『沖縄・久米島から日本国家を読み解く』(小 学館・2009年)に詳しく書かれている。

  この 本はおもしろい。伊波普猷の弟子である仲原善忠の研究に即して、佐藤優さんの実母の出身地である久米島の歴史を調べ、そこで得られた視点をもとに、沖縄に 支配的な政治的観念(国家観)を導きだしている。佐藤優さんは「天命」ということばでその国家観を説明している。要するに呪術的な直感を表すことばである 「天命」が、沖縄という小国の国際社会における生き残り術として機能してきたというのだ。中国への帰属を天命と受け容れて中国の朝貢国・冊封国となり、日 本への従属を天命と受け容れて日本の附庸国となり、米軍による統治を天命と受け容れて米国の植民国となり、といった具合に、沖縄はその時代その時代の「天 命」を鋭く察知して外交的に対応してきたというのである。カラユ(唐世)、ウチナーユ(沖縄世)、ヤマトゥユ(大和世)、アメリカーユ(アメリカ世)とい う通俗的な支配区分の言い換えともとれる。

  佐藤 優さんはさらに踏み込んで、1972年の復帰は、日本の再統治を天命と受け容れた復帰運動の帰結であり、ここ数年の「沖縄対日本」という対立の構図は、 「日本の支配」を天命と感じない人びとが増えてきた証であるともいう。「日本」は「沖縄」を歴史的な異国として認める一方で、これまでの日本の側からの (人種)差別的な対応を改め、沖縄の人びとを障害なく日本という国家のなかに統合できるような「外交努力」を積み重ねていかなければならない、という結論 が示されている。

  「天 命」か。なんという曖昧なことばだろうか。たしかに中国史のなかでも「天命」ということばが「民意」と同義に使われている例もある。「天命」によってしか 説明できない時代もあるのかもしれない。だが、明治維新という近代・集権化の時代を経て、1945年以降にもたらされた民主主義という理想に四苦八苦しな がら、多くの犠牲を払って時代の変化に対応してきた沖縄の人びと(そして本土の人びと)の姿はそこにはない。軍国主義時代の厳しい体験だけが切り取られた うえに、それこそ「プリズム」で拡大され、「構造的差別」という聖域を与えられている。

  本書 については稿をあらためて分析したいが、明晰な佐藤優さんらしからぬ凡著である。ひとことでいえば、穴だらけだ。それはたんに「天命」ということばが曖昧 なせいだけではない。なによりも気になるのは、「日本という国家」の存在が、疑いようもない絶対的な存在として前提されているという点である。佐藤さんの 本のなかには、「日本」があり、「中国」があり、「アメリカ」があり、「ロシア」(ソ連)があり、それらの大国につねに揺さぶられる存在としての小国「沖 縄」がある。国家間の外交や戦いのなかで、運命のめまぐるしい変転のさなかにある沖縄は「天命」を待って生き延びようとする。「希有壮大な小国の物語」と いえば聞こえはいいが、それはあくまで日本国家という有機体に小国・沖縄が統合される物語にすぎない。 体裁はどうあれ、日本という国家が沖縄という国家を吸収するための、いちばん抵抗の少ないプロセスを描いた「植民」の物語である。「植民」を「連邦国家」 と言い換えれば、少しは美しく聞こえるかもしれないが、強力な沖縄統合論という内実に変わりはない。しかも、佐藤優さんの特徴は、そうした政治的理想の提 示と実践が、一部の「政治的エリート」によって行われると考えているところだ。

  佐藤 優さんの沖縄統合論がまちがっている、といっているのではない。「エリートによる統治」という考え方にも今はいちゃもんをつけずにおこう。疑問に思うの は、大久保さんを沖縄をコントロールする思想の持ち主だと批判しておきながら、佐藤優さん自身も、「統合」という政治的・外交的目標を大過なく実現するた めの方策について自説を展開している、という点だ。佐藤優さんが「自分は沖縄の側に立っている」とどんなに強調しても空々しく聞こえてしまう。そこには、 大久保さんの思いの彼方にある「人間」の姿は見えず、国家統合というイメージしか残らない。誤解を恐れずにいえば、「元外務官僚の一構想」の範囲内に収 まってしまうような物語なのだ。

 佐藤優さんは、「バカ なことをいうな。自分は沖縄人 を同胞と見なす感情を欠いた大久保さんとは大違いだ!」と反論するだろう。だが、『沖縄・久米島から日本国家を読み解く』からはっきり見えてくる「同胞」 は、佐藤優さんの実母だけだ。佐藤優さんのこの本に、人間に対するまなざしがあるとすれば、母親を見つめる眼だけである。母親の出身地である久米島に対す るアイデンティティと、埼玉で生まれ育った日本人としてのアイデンティティのあいだで引き裂かれたくなかった佐藤優さんは、巧みで強力な統合論を主張する ことによって、「佐藤優という存在」をなんとしても保全したかったのではないか。要するに、佐藤さんの議論は、きわめて個人的なアイデンティティの問題、 あるいは母胎回帰への願望から出発した、元外務官僚の国家統合構想ではなかろうか。そういう意味で、佐藤優さんの主張は、根本的にねじれたものなのであ る。

 佐藤優さんは、これまで基地負担・基地被害の実態を まともに取り上げたことはない。全県的な負担を自明のこととして、「構造的差別」をいいつづける。大久保さんの主張を「沖縄に対する予算支出を絞り、構造 的差別をつづける」ものだと決めつけるが、予算支出を絞ることがなぜ構造的差別につながるのかも説明しない。この一文だけでは「お金を出さないことは差別 だ」とさえ読める。「お金さえ出せば差別はなくなる」ならこんなに簡単な話はない。その一方で、基地返還後の沖縄の姿について、佐藤優さんはこれまでほと んど語っていない。沖縄の社会や経済のあり方についての分析やビジョンを欠いたまま、「構造的差別の継続」だけに警告を発している。今後の沖縄の社会や経 済のあり方なんて、国家統合が最大の課題である元外交官の問題意識にとってどうでもいいことなのかもしれないが、構造的差別ばかり唱えても誰も救われな い。

 佐藤優さんの沖縄論は先が見えない。国家統合それ自 体のビジョンは見えるが、そこには沖縄の人びとの暮らしや夢は含まれていない。何度も繰り返すが、知念ウシさんと同じように、過去の亡霊を呼び出すことだ けが、彼の最大の関心事になっている。それによって排他的な沖縄民族主義を誘導し、その民族主義の高揚を待って、政治的エリート主導の日本民族主義のなか に沖縄を取り込もうとしている。佐藤優さん自身のアイデンティティはそれによって保全できるかもしれないが、沖縄の人たちの夢はいつまでたっても紡がれな い。佐藤優さんはそこまで考えた上で「構造的差別」を本気で唱えているのだろうか?

  ちなみに佐藤優さんの沖縄論を知るには、彼の著作を いちいちあたる必要はない。大城立裕さんの講談社文庫版『小説 琉球処分』(全2巻・2010年)の下巻巻末にある「解説」を読めば十分である。わかりに くいが構造的差別論もそこに出てくる。注意しなければならないのは、1972年初出の大城さんのこの大著は、構造的差別論の出発点ではないということだ。 そうではなくて、 大城さんの小説は「近代化に乗り遅れた」琉球王朝の高官たちと、「近代化こそ我が使命」と考える下級士族・平民出身の明治政府の役人たちとの戦いの記録と して書かれている。もっと簡単にいえば、情けない王朝高官の姿と使命感に燃える明治政府能吏の姿が印象に残る小説だ。

  小説執筆の時点の大城立裕さんの念頭には、そもそも 構造的差別なんてことばはない。にもかかわらず大城立裕さんは、2010年発行のこの講談社文庫版を出版するにあたって、「物語の背景」という一文を巻頭 に寄せ、「日本の武力によってねじふせられた平和国家・琉球」という印象を与えるような工夫を凝らしている。「武器のない平和国家・沖縄(琉球)」などと いう見方は、19世紀初めのベィジル・ホールによる誤解に端を発していて、歴史家のあいだでは否定されている。その誤解を真実であるかのように書き添える 大城立裕さんにはどんな思惑があるのだろうか。こんなことを書けば、自らの小説の意義を否定するだけだ。沖縄を代表する小説家が、歴史を歪めているとすれ ば、それは沖縄文化の破壊にもつながりかねない。

 佐藤優さんの論といい、大城立裕さんの論といい、そこに知識人としての責任ある論理と姿勢を感じ取ることはむずかしい。まったくもって残念なことだ。

批評.COM  篠原章
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket