「暴力革命」を疑われる日本共産党 — その時代遅れの言語能力

日本共産党は暴力革命集団か?

公安調査庁は、「(日本共産党は)革命の形態が平和的になるか非平和的になるかは敵の出方によるとする『いわゆる敵の出方論』を採用し、暴力革命の可能性を否定することなく現在に至っている」との見解を公表している。この見解はもう長いこと同庁のWebや報告書に記載されてきたものだが、今年は八代英輝弁護士のワイドショーにおける少々誤解した発言もあり、総選挙を控えた共産党がかなり神経質になっている。加藤官房長官が公安調査庁の見解を支持したことで、ますます問題化しているようだ。

はっきりいって現在の日本共産党は武装革命部隊を擁していないから、暴力革命を起こす能力はない。だが、公安が心配しているのは、北朝鮮や中国から戦闘集団を手引きする可能性があるか否か、悪質なハッキングやテロを引き起こす能力があるか否かという点だ。暴力革命にちょっぴり憧れのある不破哲三元議長がいまだに発言力を持っているのも気になるのだろう。

綱領に見る言語の陳腐化

正直いって暴力革命云々の議論自体にはあまり興味がないが、久々に共産党の綱領をじっくり読んでみたら、古色蒼然たる言葉がいまだに使われていることで不安を煽られてしまった。というか半ば鬱状態になった。しかも、過去の運動について、コジツケとも思える「正当化」が行われている。こんな歴史観や経済観を保ち続けている政党を信頼せよというのがどだい無理な話なのだが、共産党は誇大妄想と思えるほどやる気満々である。

共産党がダメだなと思うのは、いまだに「統一戦線」という言葉を使っているところだ。戦線というからには戦場があるとの前提である。戦場とは「反動的党派」との戦いの場のことを指しているらしい。

共産党の綱領によれば、統一戦線とは「労働者、勤労市民、農漁民、中小企業 家、知識人、女性、青年、学生など、独立、民主主義、平和、生活向上 を求めるすべての人びとを結集した」組織となる。

反動的党派とは何かといえば、「独立、民主主義、平和、生活向上 を求めない人々」ということになる。そんな人って日本にいったいどのくらいいるのだろうか?

統一戦線vs反動的党派」という戦いの構図がウソっぽいから、国民のせいぜい5%程度の支持しか共産党に集まらない。共産党の「言語」は明らかに退化・陳腐化しているのだ。そこをあらためない限り、今後も公安からは暴力革命を疑われ、国民からも怪しい政党だと思われてしまうだろう。

「虐げられた人々や労働者の味方」という理念はわかる。行き場のない人々に手を差し伸べる精神は大切だ。だが、「資本家vs労働者」とシンプルに括るやり方は必ずしも実態に即していない。

 

「資本」と「労働」の現実を知っているのか?

そもそも共産党は、21世紀における資本と労働のあり方をどこまで理解しているのだろうか。19〜20世紀的な「搾取」はもちろん今も発生しているが、それだけが労働市場の問題ではない。

たとえば、アベノミクスの一環として行われた「労働時間を減らす」「正規雇用を増やす」という働き方改革。実はこれはたんなる数字合わせゲームにすぎず、資本主義の調節弁として有効に働いていた「非正規労働者」の役割まで否定してしまった。共産党が主張した「正規雇用を増やせ」「時間あたりの賃金を引き上げろ」も「働き方改革」を結果的に応援するような考え方で、有能な非正規労働者の所得獲得機会を奪い取ってしまった

非正規雇用の場合、働きたい者がより多く働ける雇用関係が本来あるべき姿で、本人が望まない長時間労働やサービス残業などで無理矢理働かせる企業がある場合、これを淘汰する方向で改革すべきなのに、「正規雇用や時給の引き上げは善なり」という働き方改革神話を作るのに共産党も手を貸したことになる。これは「労働の多様性」の話なのであって、搾取・非搾取とは別次元の話だが、「資本家vs労働者」という構図に拘るあまり、共産党は「有能な非正規労働者」を斬り捨ててしまったのである。強者が弱者に、弱者が強者にかんたんに転じうるこの社会で、陳腐化した思想を押しつけるようなやり方では、これ以上の広がりは望めないだろう。

議会にこれだけ共産党が進出している先進国はほかにないのだから、共産党は過去の革命運動や労働運動の栄光と幻影を捨て、一からやり直したらどうだろうか

批評.COM  篠原章
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