URC:ムーヴメントとしてのフォークを実践した インディペンデント・レーベル(WEB版)

2003年に発表した論考「URC:ムーヴメントとしてのフォークを実践した インディペンデント・レーベル」をUPします。14年前に書いた原稿ですが『レコード・コレクターズ2003年4月号』特集=URC~日本のフォークの誇るべき原点(2003年3月15日発売)に掲載され、広く引用頂き、問い合わせを頂きました。本記事はそのオリジナル稿の文末に若干の追記を加えたものです。無断転載はご遠慮ください。

 

60年代フォーク

第二次世界大戦後の日本では、ほとんどのポップ・カルチャーが、アメリカなど欧米からの「輸入品」として紹介されてきた。ひとたび紹介されたポップ・カルチャーは、最新のモードとしてもてはやされ、素朴かつ無分別に模倣される。もちろん模倣に終わるものもあったが、日本固有の要素と対立や融合を繰り返しながら、独自のカルチャーとして確立された事例も珍しくなかった。フォークも例外ではない。試行錯誤の後、本家・アメリカとは異なる個性的な軌跡を描いたと考えていいだろう。

移入文化としてのフォークは、まず60年代初めにアメリカから日本に持ち込まれた。田舎臭かったフォークを都市のポップ・カルチャーに革新したピーター・ポール&マリーやブラザーズ・フォアなどに触発されて、日本でもキャンパス・フォークやカレッジ・フォークと呼ばれるモダン・フォークが生まれた。マイク真木や森山良子がこの時期を代表するアーティストである。

モダン・フォーク発祥の地・アメリカでは、60年代後半になると、ベトナム戦争を主因とする経済的・社会的なほころびが目立ち始めた。若者たちのあいだで既存の価値体系を否定する動きが広がった。大規模な反戦・反体制デモが日常化し、新たなカウンター・カルチャーが次々に出現した。モダン・フォークも変質し、反戦の思いをこめたプロテスト・ソングが好んで歌われるようになった。

アメリカのこうした反戦・反体制運動の高まりに呼応するように、70年の日米安全保障条約改定を控えた60年代後半の日本でも、新左翼系学生を中心とした政治闘争が激しさを加えていった。

このような状況下、日本でも政治的・社会的なメッセージをこめたオリジナルの日本語フォークが次々に生まれた。こうした和製プロテスト・ソングを自作自演するシンガーには、関西を拠点とするケースが多かったので、しばしば“関西フォーク”とも呼ばれた。

労働組合と音楽鑑賞団体「労音」

関西フォークのパイオニアは高石友也だった。高石は、国際フェスティバル協会というイベント企画会社から独立した秦政明(30年生まれ)が経営する“アート・プロモーション”の主催する「第2回フォーク・フォーク・フォーク」(66年10月)というコンサートに飛び入り出演し、その個性的な歌で秦に衝撃を与えた。

秦は、高石を自宅に居候させながら、労働組合が主催するイベントや左翼系の音楽鑑賞団体「労音」(勤労者音楽協議会)などに出演させた。66年12月にはデビュー・シングル「かごの鳥ブルース」をビクターからリリースし、ほどなく人気を博するようになった。

67年夏、秦は高石事務所(70年1月以降は「音楽舎」に名称変更)を設立してマネジメント業務を本格化すると同時に、数々のイベントやコンサートを企画し、様々なアーティストを発掘する。

アンダーグランド音楽会とアート音楽出版

高石に見いだされて「受験生ブルース」などの作品を生みだした中川五郎、高石事務所が主催する最初の大きなコンサートだった“アンダーグランド音楽会”(68年3月)に飛び入り出演し、瞬く間に“フォークの神様”となった岡林信康、同じくアンダーグランド音楽会に出演していた五つの赤い風船、東京からやってきていたジャックスなどがやがて高石事務所に所属するようになった。

「帰って来たヨッパライ」の大ヒット(67年12月発売)を放った京都の大学生フォーク・グループ「フォークル」ことザ・フォーク・クルセダーズ(北山修・加藤和彦・端田宣彦)も、秦政明とは67年頃からの付き合いがあり高石事務所に所属していた。彼らは、当時評判だったアングラ演劇(アンダーグラウンド演劇)にあやかって“アングラフォーク”と呼ばれた。“アングラ”という呼称であれば、高石、フォークル、中川、岡林だけでなく、東京勢で高石事務所に所属するようになったジャックスや遠藤賢司も一括できるため、「関西フォーク」ではなく「アングラフォーク」という呼称を用いることも多かった。68年1月、フォークルの活動に合わせて東京・表参道の東京セントラル・アパート(明治通りと表参道の交差点にあった有名なセントラル・アパートとは別物)にも事務所を置き、版権管理の音楽出版社・アート音楽出版も設立された。

高石や岡林の歌は政治性が強かったため、労音のステージやべ平連など市民運動の主催する政治集会では好んで合唱されたが、メジャー・レコード会社は、彼らの作品の本格的な商品化については慎重だった。「レコ倫」と呼ばれるレコード会社の自主規制基準に抵触するケースが多かったからである。ビクターや東芝などメジャーからリリースされる作品もあったが、発表される楽曲にはかなりの制約があった。

「アングラ・レコード・クラブ」の発足

そこで、高石事務所では69年2月に「アングラ・レコード・クラブ」(URC)という会員制組織を発足させた。会員には、関西フォーク系のアーティストのLP1枚とシングル2枚が隔月で配布されることになっていた。会費は1回につき二千円、5回分一万円を前納した会員には別途ボーナス・レコード1枚が送られる予定だった。

URCの当初の告知によれば、福田一郎(音楽評論家)、谷川俊太郎(詩人)、中村とうよう(音楽評論家)、三橋一夫(音楽評論家)、片桐ユズル(詩人)、小野十三郎(詩人)、鶴見俊輔(思想家)らが「監修者」に名を連ねており、ディレクターには高石友也、北山修、加藤和彦、早川義夫が予定されていた。監修者は名ばかりであったが、ディレクターは、URCの活動に何らかのかたちで貢献している。

69年2月の第一回配布は、シングルがミューテーション・ファクトリーの「イムジン河」(B面「リムジンガン」)とトリン・コーン・ソンの「坊やおおきくならないで」(B面「もしも平和になったら」)、アルバムが『高田渡/五つの赤い風船』(A面が高田渡、B面が五つの赤い風船)だった。

当初会員数千人を想定していたが、申し込み希望者は後を絶たず、会員数を二千人に変更した。が、その後も申し込みが増えつづけたため、69年10月の第五回配布をもって会員制組織を解散し、アート音楽出版との提携の下、会社組織としてのURCレコードを発足させることになった。取り次ぎを通さず、全国約一三〇箇所のレコード店・楽器店と特約店契約を結び、市販に踏み切ったのである。

会員制組織の解散は69年10月だったが、市販はそれに先立つ8月に始められた。URCレコードの記念すべき最初の新譜アルバムは、岡林信康『私を断罪せよ』(『ニューミュージック・マガジン』誌主宰第一回日本のロック賞受賞)と五つの赤い風船『おとぎばなし』の2点、同時に東京フォークゲリラの活動を収録した『“新宿一九六九年六月”』というコンパクト盤も発売された。

高石事務所は、URC設立以前からコンサートやイベントの企画に力を入れていたが、そのなかのひとつが67年7月から開催されていた “フォーク・キャンプ”であった。69年8月にはびわ湖バレーでその第4回が開催されたが、そのときの模様を録音したのが『第4回フォーク・キャンプ・コンサート』である。URCに所属する主だったアーティストが結集した一大イベントで、当時のフォーク・シーンを知るには絶好のライヴ盤である。

69年にはこの他の市販品として、シンプルでブルージーな日本語フォークを歌わせたら右に出る者のなかった高田渡『汽車が田舎を通るそのとき』、ジャックスのリーダーだった早川義夫の『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』などが発表されている。

非市販のアルバムでは、小室等をリーダーとする六文銭がURCに残した唯一のスタジオ録音である『六文銭/中川五郎』(A面が六文銭、B面が中川五郎)、ジャックスにサポートされた休みの国のライヴ録音『休みの国/岡林信康リサイタル』(A面)、同アルバムのB面に収録の岡林リサイタルのライヴ録音、さらに各国のプロテスト・ソングを集めた『世界のプロテストソング』などに注目したい。

この年に出たシングルには、岡林信康「くそくらえ節/がいこつの唄」(非市販)、高田渡の「大ダイジェスト版 三億円強奪事件の唄/三億円強奪事件の唄(実況)」「転身/電車問題」(非市販)などオリジナル・アルバム未収録の作品が多い。

69年には、レコード制作以外の面でもURCらしさを発揮する“事業”があった。『フォークリポート』の創刊である。同誌はURCの広報誌という位置づけではあったが、広報という枠を超えて運動体としてのフォークとその周辺カルチャーを広く紹介する啓蒙的な性格の強い雑誌だった(73年4月まで発行)。

70年になると、URCもレコード会社らしい体裁が整ってくる。この年のURCを代表するアルバムといえば、日本語ロックを確立したといわれる“はっぴいえんど”のファースト『はっぴいえんど』(通称「ゆでめん」)である。彼らは当時URCのディレクターだった小倉エージ(現音楽評論家)との縁でURCと契約したにすぎない。その意味でURCとの契約はたんなる偶然だったが、結果としてフォーク勢ばかりのこのレーベルに新風をもたらすことになった。

「ゆでめん」に衝撃を受けたURC所属のミュージシャンたちは、自分たちのレコーディングやステージの際に、はっぴいえんどのメンバーを挙って起用した。これによって、素朴なアコースティック系サウンドが主流だったURC所属ミュージシャンの表現の幅は一気に広がった。はっぴいえんどがいなければ、URCのサウンドはもっと地味なものに終わったに違いない。

カリスマ的反戦シンガーというパブリック・イメージの重圧に耐えきれず、69年9月に一時失踪してしまった岡林信康が再起をはかった作品『見るまえ跳べ』(ディレクター・早川義夫)もはっぴいえんどがバックを務めたことで知られる。はっぴいえんどはこの年、岡林のステージもサポートしている。

遠藤賢司のファースト『nyago』も70年のリリース。少々荒削りながら翌年リリースの名盤『満足できるかな』(第三回日本のロック賞受賞・ポリドール)への前哨戦という意味で、この作品にも注目しておきたい。

シングルでは、金延幸子が在籍した“愚”が残した唯一の録音「あかりが消えたら/マリアンヌ」、後に夕焼け楽団を率いて活躍する久保田誠(麻琴)のデビュー・シングル「昭和元禄ほげほげ節/アナポッカリマックロケ」などが注目盤である。

71年は岡林信康のアルバムが3点もあった。はっぴいえんどがバックを務めたライヴ盤『岡林信康コンサート』(2枚組)、はっぴいえんどに代わって柳田ヒログループがサポートした『俺らいちぬけた』、その柳田ヒログループをバックに配したライヴ盤『岡林信康自作自演コンサート 狂い咲き』(3枚組)の3タイトル。URC最大のスター・岡林の人気はこの年ピークを迎えたが、翌年以降急速に凋落していく。あまり注目されていないが、柳田ヒロ(キーボード)、戸叶京助(ドラムス)、高中正義(ベース)という陣容の柳田ヒログループの明るく切れ味のよいサウンドは一聴の価値ありだ。

URC(音楽舎)が深くコミットしたことで知られるイベントに“全日本フォーク・ジャンボリー”がある。この年、フォーク・ジャンボリーは3回目を数えたが、過去2回のような「ムーヴメントとしてのフォーク」といったような政治的性格は薄れ、野外イベント的な性格が強まっていた。この状況に不満を抱く一部の聴衆がステージを占拠し、結局、ジャンボリーは、岡林の出演するエンディングを待たずして中止に追い込まれてしまう。一方でこのジャンボリーは、加川良や三上寛といったポスト岡林の時代を担うシンガーたちの台頭も印象づけるイベントであった。

はっぴいえんどの最高傑作『風街ろまん』が発表されたのも71年のこと。サイケデリックの残り香があった前作と違ってフォーク・ロック指向が強かったが、URC系フォーク・シンガーとの交流がはっぴいえんどに何らかの影響を与えたことはほぼ間違いないだろう。

シングルでは、ディランIIによるボブ・ディラン“I Shall Be Released”のカバー作「男らしいってわかるかい」が注目される。B面に収録された「プカプカ」(西岡恭蔵作)とともにザ・ディランIIの代表作となった。

72年は、URCにとってもっとも充実した一年となった。日本のボブ・ディランとも呼ばれた友部正人の『大阪にやってきた』、ブルージーなシンガーとして頭角を現したシバの『青い空の日』、前年のフォーク・ジャンボリーでいきなり人気者の仲間入りを果たした“怨歌歌手”三上寛の『ひらく夢などあるじゃなし』、先に触れたザ・ディランIIの『きのうの思い出に別れをつけるんだもの』、「悩み多き者よ」などで哲学者風シンガーとして支持を集めていた斎藤哲夫の『君は英雄なんかじゃない』、演劇性の強い作品で知られる野沢享司の『白昼夢』など、次の時代を担うシンガーたちのデビュー・アルバムが相次いでリリースされた。

現在のポップとの関連で、72年最大の収穫は、元“愚”の金延幸子のファースト・ソロ『み空』である。細野晴臣、大滝詠一などがサポートしたこのアルバムは、今も多くの人たちに聴き継がれている。

シングルでは、この年に始まった伝説のフォーク系イベント“春一番コンサート”における友部正人のライヴを収録した「もう春だね/乾杯」と加川良のアルバム未収録曲「ポケットの中の明日/その朝」が目立つ程度である。

73年はURCにとって転機の年となった。というより、この時点でURCは死に体となったのである。それまで所属していた大半のアーティストが、メジャー各社に移ってしまったからだ。

71年、URCに近いキングのディレクターで、フォーク・ジャンボリーのライヴ盤などを手がけていた三浦光紀のディレクションで小室等や高田渡がキングからアルバムを発表していたが、72年に三浦は、キング傘下にベルウッド・レコードを設立した。あがた森魚の「赤色エレジー」を皮切りに、URC系アーティストの作品を次々に発表し、いわゆる “ニューミュージック”時代を先導することになった。はっぴいえんど、西岡恭蔵、武蔵野タンポポ団、高田渡、六文銭、小室等、ディランIIなどがベルウッドの主要なラインナップである。また、岡林信康、斎藤哲夫、友部正人、シバはCBSソニーに、三上寛はビクターに移籍するなどして、URCにはリリースすべきアーティストがほとんどいなくなってしまった。

これと同時にURCのアーティストたちはURCの音楽出版部門だった音楽舎から、同社の高木照元が72年11月に設立したプロダクション“如月ミュージック・ファミリー” (74年2月に活動停止)に事務所まで移している。

彼らはURC・音楽舎に反旗を翻したわけではなく、むしろURC・音楽舎を仕切っていた秦政明の意向で移籍したという。ムーヴメントとしてのフォークや発禁歌としてのフォークに関心のあった秦政明は、ポップ化するフォークやロックにほとんど興味はなかったという。URC・音楽舎の使命はこの73年に事実上尽きたといっていい。

結果として73年は、ザ・ディランII『second』)や友部正人『にんじん』が目立つ程度となった。シングルのリリースはなかった。

74年に入るとURCは実質的に活動を停止する。オリジナル・アルバムはなぎらけんいちの二作目『街の風になって』と山下洋輔をフィーチャーした三上寛の『BANG!』のみであった。

74年12月より、吉田拓郎、泉谷しげる、古井戸などを発掘したことで知られるエレック・レコードに在庫管理と販売を委託し、細々と制作を継続するが、エレックが倒産する76年6月までに発表された新譜は、再結成された五つの赤い風船の『五つの赤い風船’75』と古手のシンガー・ひがしのひとしの『マクシム』など4点、シングルに至っては五つの赤い風船’75の1点のみという状態だった。

エレック倒産後の76年10月から東宝レコードに販売を委託することになって旧譜も再発された。アルバムの新譜は76年11月から77年4月までに、札幌で活躍していたスカイドッグ・ブルース・バンドなど5点がリリースされた。この間秦政明は、レコ倫加盟の東宝レコードでは出せなかった作品を新たにUDCというレーベルを興してリリースしている。その数は、77年8月まででアルバム3点、シングル2点となっている。

東宝レコードも倒産し、80年1月より、URCのカタログはSMSからリリースされることになるが、SMSはそれに先立つ78年に、秦政明の協力を得て、URCの未発表音源を中心に編集した「幻のフォークライブ傑作集」として25タイトルのライヴ盤を発表している。このシリーズは貴重な音盤の宝庫だが、詳細については別の機会に譲りたい。

89年、SFC音楽出版がURC・音楽舎の諸権利を買い取り、URCのか各タイトル並びに編集盤をCD化して、キティレコードを発売元に次々リリースした(合計50タイトル/監修は高護・黒沢進・篠原章)。

92年になるとこの権利はフジパシフィック音楽出版/シンコー・ミュージックに譲渡され、東芝を発売元としてリリースされた。

02年4月にはプライム・ディレクションが販売権を取得し、同年8月よりエイベックスを発売元にURC各タイトルをリリースしている。併せて未発表音源を編集した“新譜” (ザ・フォーク・クルセダーズ『フォークル・フェアウェル・コンサート』)も発表されている。リリースは今も進行中で、さらなる秘蔵音源が日の目を見る予定となっている。

(参考文献:黒沢進編著『日本フォーク紀』シンコー・ミュージック・1992年)

2017年追記

URCの長く複雑な歴史については、上のオリジナル稿に書いた通りだが、その後2008年にポニーキャニオンが販売権を取得してからは、過去の音源を意欲的に再発売している。2008年12月から16タイトルのCDを発売したのを皮切りに、2014年には、はっぴいえんどの『はっぴいえんど』『風街ろまん』のアルバム2タイトルを『はっぴいえんどマスターピース』として発売。これは、ロンドンのスタジオMETROPOLISにおけるハーフスピード・カッティングのアナログ盤、デジタルリマスターCD、96kHz 24bit ハイレゾ音源ダウンロードカードに加えて、はっぴいえんど資料集、松本隆作詞ノートレプリカが専用収納ケースに収められた豪華版であった。

2015年に発売された『URCゴールデンベスト』では、小倉エージさんの監修の下、篠原も収録曲の選者として協力させていただいている。

今年2017年は、12タイトルから成るURCアナログ復刻シリーズが発売される。半世紀近く前の作品があらためてLPとカセットで発売されるという、ちょっとした「快挙」である。このシリーズを通じて、デジタル世代にも、ぜひ「アナログ・サウンド」の魅力を堪能してもらいたい。

(2017年9月追記)

『レコード・コレクターズ』に他にもいろいろ寄稿しています→ 一覧

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