横浜のドン・藤木幸夫氏の「カジノ反対」とその真意
山下埠頭を使った横浜市のIR構想(カジノ構想)に猛反対の立場を鮮明にした「ミナトのドン」、横浜港運協会会長・藤木幸夫氏(藤木企業会長・89才)の記者会見動画(8月23日)。
1時間37分もあるので、忙しい方々のためにポイントをまとめると、
- 以前はカジノ推進派だったが、いろいろ調べた結果ギャンブル依存症の問題は深刻だとわかった。横浜市民をギャンブル依存症にすることはできない。
- カジノを含むIRを設置した近年の前例をみると、ことごとく失敗している(とくに米国は酷い状況)。ギャンブル依存による地域社会の崩壊、治安の悪化など見過ごせない。
- 私たちが提案する国際展示場、F1誘致、ディズニークルーズなどを含むMICE構想(ハーバーリゾート構想)だけで十分な収益があがる。カジノを入れる必要はまったくない。
- ところが現段階では、こうしたカジノ抜きのリゾート構想は提案として扱われない状況だ。「ハードパワー」の圧力を強く感じる(「ハードパワー」とは官邸のこと)。
- 「ハードパワー」が林文子横浜市長の姿勢を180度転換させた。これは異論封殺だ。戦前の翼賛体制と何も変わらない。林市長は頑張ったが、ハードパワーに圧殺されたということだ。
- 菅官房長官とは懇意にしているが、(かつて横浜市民の味方だった)菅は今や安倍の腰巾着、安倍はトランプの腰巾着、トランプはシェルドン・アデルソンが率いるラスベガス・サンズ(カジノ事業会社)の操り人形。要するにサンズを横浜に参入させるために菅、安倍がトランプ=アデルソンを忖度して動いていると認識している。官房長官は私(藤木)の顔に泥を塗って、サンズを取ったのである。
- このミナトで働く人は、賄いのおばちゃんから我々に至るまですべて等しく「港湾人」である。港湾人は一枚岩になってサンズの進出に徹底抗戦する。
- IRの設置場所となっている山下埠頭の97%は横浜市有地と国有地だが、だからといって港湾人は山下埠頭の「明け渡し」に応ずるつもりはない。この埠頭を築き、事業を展開し、守ってきたのは我々港湾人だ。役所が守ってきたわけではない。サンズという一企業のために山下埠頭を明け渡せという要求に公益性などない。不当な要求だ。
- だからといって市民運動や特定の政党と肩を組む気はサラサラない。そちらはそちらでやっていただきたい。私たちはあくまで港湾人としてミナトに賭場を開くことを拒否するということだ。
- トランプとサンズが「横浜がほしい」といったら、安倍と菅が腰砕けになった。カジノを欲しがっている地域は他に沢山ある。どうしてもカジノをやりたいなら勝手におやりなさい。が、横浜には絶対造らせない。
といったところか。
藤木幸夫氏の「カジノ反対」は、「俺がカジノをやるならOKだが、米国企業のサンズなどには絶対やらせない」という意思表明だと思っていたが、どうもそうではなさそうだ。カジノ経営には高度なノウハウが必要だが、藤木氏は自らの見聞と研究の結果、「自分たちにはできない」と結論を下したということだろう。が、カジノ抜きのリゾート構想・MICE構想ならすぐにでも実現できる。サンズなど参入させてたまるか、というのが藤木氏の会見の趣旨である。
ベルリンの壁が崩壊する前、ぼくは西ベルリンからわざわざ東ベルリンに入り、東独政府直営のカジノで遊んだことがある。当時、カジノといえば、世界的に見てもマカオ、モナコ、ラスベガス、アトランティックシティーぐらいしかなかった。東ベルリンは外貨を稼ぐためにカジノを経営していたのである。ぼくにはギャンブルを嗜好する体質が備わっていないので、ルーレットに100ドル掛けて300ドルまで増やしたところで引き上げた。マカオ、ラスベガスでもカジノにいったが、2〜300ドル負けて退散した。ギャンブル嗜好がないからそれで済んでいるが、そうでない人のことまでわからない。カジノについてはそのレベルの認識しかない。
パチンコすらろくに知らない。手打ち式のパチンコが主流だった時代のパチンコもおもしろかったが、レバー式になり、フィーバーがあたりまえの時代になるとすっかり興ざめしてしまった。10年ほど前、とある地方都市に仕事で趣き、時間つぶしのためにパチンコをやったが、隣席の大負けしている中年女性から「お金貸してください。何でもするから」という申し出に背筋が寒くなり、それ以来パチンコ台には触れていない。ぼくには博徒の血が流れる藤木氏ほどの経験も見識もないから、藤木氏が「ギャンブル依存症は深刻だ」といえば、やっぱりそうなのかなと思う。
藤木氏の父・幸太郎氏は博徒だった。幸太郎氏の自伝によれば、荷揚げの人夫などミナトの労働者が夜な夜な花札に興じて、折角稼いだカネを博徒に吸い上げられる悲惨な姿を見て、「よしおれが博徒になって賭場を仕切り、不幸な連中をすくい上げてやる」と決意したという。本当にそのような美談だったのかどうかわからないが、強欲な荷主や外から入ってくるヤクザを横浜から追いだし、労働者の待遇を改善したのは藤木幸太郎氏の功績である。だからこそ子息・幸夫氏の今がある。なお、下の写真は藤木幸太郎氏の自伝漫画『ロマン・ロード』(青林工芸舎・1992年)である。作画はなんと永島慎二だ。参考までに記すと、幸夫氏の著作『新・波止場通信―世の中万事ネアカでなければ 』(エフエムヨコハマ音楽出版・2010年)、『ミナトのせがれ―The digest of my life』(神奈川新聞社・2007年)にも、父・幸太郎氏について、『ロマン・ロード』と同様の記述がある。
幸夫氏が創業したFM横浜はありがたい存在だった。FM横浜が開局する以前、ぼくにとって「ラジオで音楽」といえばFEN(米軍極東放送)だった。ウルフマン・ジャックなどDJの役割はトークにはなく、レコード盤を回すことにあった。トークだらけの日本のラジオはつまらなかった。トークもほとんどなくひたすらロックやブラック・ミュージックを流しっぱなしにするFM横浜の出現は画期的だった。
そういう経緯もあるから、藤木氏が本気ならぼくは藤木氏を支持するが、不安もある。「少なくとも自分の目の黒いうちは横浜にカジノを造らせない」という藤木氏の固い決意は読み取れたが、高齢の藤木氏が戦線を離脱したら、そこで終わってしまうのではないか。「港湾人」は藤木氏抜きでも闘えるだろうか。横浜市民ではないが、横浜の行く末が気になって仕方がない。
関連記事あります→ 横浜、山下町あたりの記事 を見てみる