金城テルさんを偲ぶ

11月17日、金城テルさんが亡くなられた。95歳だった。

那覇市を被告とした那覇孔子廟違憲訴訟の原告代表で、祖国復帰運動などで活躍した保守系の女性活動家だった。

那覇市の松山公園に造られた孔子廟は、当時の翁長雄志那覇市長(後に県知事)の久米崇聖会(沖縄でもっとも影響力ある同族団体)に対する「忖度」ではないか、という疑いから始まった孔子廟訴訟。そもそもの言い出しっぺはぼくだったが、那覇市を相手取った住民訴訟(地代を無料にしたのは那覇市の違憲行為)を提起したのは金城テルさんだった。最高裁で、那覇市の行為が憲法上の政教分離に反していることが確認され、テルさん勝訴、那覇市敗訴という結果を得て、テルさんはとても喜んでおられた。「最後は正しい者が勝つんです」というテルさんの言葉が強く印象に残っている。

沖縄では左右両派から愛されている瀬長亀次郎(沖縄人民党党首/那覇市長・参院議員などを歴任)にも厳しかった。ぼくの知るかぎり、カメジローに厳しかったのはテルさんぐらいだ。

「あの人のやってたことは八百長。ひと束10円で売っていたソーメンを5円で売る、と宣伝してみんながカメジローさんのところに集まってきたんだけど、なんのことはない、分量も半分だった。まるで信頼できない人でした」

奄美大島笠利町(現在の奄美市)佐仁生まれ。昭和23年に沖縄に嫁いだ。幼稚園を経営するかたわら、保守系活動家として活躍した。

沖縄のダメなところを真正面から指摘する直言居士ならぬ直言大姉だった。

奄美に住む15歳のとき、長崎の軍需工場で働きたいという思いを抱きながら、家族に反対されて、やむなく看護学校に通った。1943年5月26日、大阪=那覇間を航行中の貨客船・嘉義丸が奄美沖で米潜水艦の魚雷で撃沈されたとき(犠牲者321人。その大半が沖縄県出身)、看護学生として浜に流れ着いた死傷者の救助に当たったことは鮮烈な記憶として残っていたという。戦争に悲劇を知りながら、いや、知っていたからこそ、祖国復帰運動により真剣に取り組んだのだと思う。

いつもお洒落でキュートで朗らかだった。本をお送りすると長々とした礼状が届いた。沖縄には珍しい義理堅い方だった。

今頃あの世で、「翁長雄志さんはホントにどうしようもないお方でした」と、彼女が私淑していた政治家の稲嶺一郎さん※に愚痴をこぼしているにちがいない。

心からご冥福を祈りたい。

※沖縄県選出の元衆院議員。稲嶺惠一元沖縄県知事の実父。琉球石油の創業者としても知られる。

2018年4月18日、福岡高裁那覇支部前にて。高裁段階での勝訴を受けて喜ぶ金城テルさん。右は篠原。

批評.COM  篠原章
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