玉城デニーは古文書「屋良建議書」で沖縄の未来を切り開けるのか?

突然浮上した「屋良建議書」

沖縄復帰直前の1971年11月に屋良朝苗主席が発出した「屋良建議書(復帰措置に関する建議書」)を参考に、復帰50年を記念して玉城デニー知事が公表するあらたなる建議書または宣言の構想を練るという(琉球新報2022年2月28日記事による)。

屋良建議書は、復帰(返還協定の批准および沖縄関連諸法の策定)に当たっての沖縄県民の要求を主席サイドでとりまとめたものとして知られる。屋良主席は、沖縄返還協定や沖縄復帰関連法案を審議していた国会の沖縄返還特別委員会(沖縄及び北方問題に関する特別委員会)にこれを提出するため11月17日に上京したが、羽田に到着した時刻にはすでに特別委は採決(強行採決)に入り、政府と国会で建議書は検討されずに終わったといういわくがある。

建議書は、翌日佐藤栄作首相、福田赳夫外相(当時の沖縄担当は外相だった)、山中貞則総理府総務長官(後に初代沖縄開発庁長官に就任)などに手渡されたが、国会の本会議で直接審議されることはなかった。ただし、福田外相は口頭で「要求実現に努力する」と屋良主席に伝えている。

屋良建議書に対して、「沖縄では憲法に匹敵するもの」という評価もある。だが、琉球政府立法院で審議されたものではなく、公選で選ばれた屋良主席が中心になって作成した「陳情書「請願書」」の一種であり、手続きを経て議会に提出された陳情とも異なるため、何らかの法的拘束力があるものではない。

とはいえ、公選主席の責任で作成したものである以上、県民の声を代表する意見であるとの見方はできる。復帰に対する期待と不安が渦巻いていた当時の沖縄の状況を思えば、屋良建議書に県民の気持ちが表れていたと見るのは不自然ではない。その建議書を「失礼にも政府が門前払いした」というのが、沖縄県では一般的な評価で、「沖縄の民意を踏みにじる蛮行だった」といわれている。

建議書作成の背景

が、「建議書は踏みにじられた」には疑問がある。当時の国会にはすでに沖縄選出の議員がいた。衆院は、西銘順治(自由民主党)、国場幸昌(自民民主党)、瀬長亀次郎(沖縄人民党)、上原康助(日本社会党)、安里積千代(沖縄社会大衆党)の5人、参院は、稲嶺一郎(自由民主党)、喜屋武真栄(革新系無所属)の2人である。

衆院議事録を見るかぎり、沖縄及び北方問題特別委員会(委員長・船田中/西銘順治が理事)では、個別具体的な問題も含め与野党議員の質疑は行われている。しかしながら、野党議員の審議時間の大半は返還協定における米軍または米軍基地に関するもの(とりわけ核持ち込み)に費やされ、政府答弁とのすれ違いが目立った。政府は米国及び米軍を当事者とした協定(国際条約)のため、「相手があることなので明言できない」といった曖昧な答弁が目立ったことは事実だが、すれ違いの多くは安保観またはイデオロギーの相違にもとづくもので、その溝は埋まらなかった。また、「米軍基地即時全面撤去及び自衛隊移駐反対」という野党議員の主張を受け入れれば、沖縄の復帰は先送りせざるを得ない状況になったはずだ。

国会審議の膠着を知った琉球政府側は、政府に対して「県民の意思として」返還協定の修正を迫ろうと建議書を作成した。

建議書は「1.はじめに」「2.基本的要求」「3.具体的要求」から成っているが、「1.はじめに」「2.基本的要求」の多くは、野党側と同じ「米軍基地即時全面撤去及び自衛隊移駐反対」という主張を中心に米軍基地関連の問題に費やされており、「3.具体的要求」に至って初めて沖縄振興策について詳述されている。振興策に関する要求の大半は、公務員・教員の身分・給与の保証や既得権の維持・拡大を求めるものだ。

建議書に意義はあったのか?

沖縄県民の多くが基地問題に大きな関心を寄せていた当時の状況を勘案すれば、基地問題に多くの紙数が裂かれるのはやむをえないとしても、「米軍基地即時全面撤去及び自衛隊移駐反対」という主張を受け入れるよう求められれば、政府は拒絶せざるをえない。日米同盟の否定につながりかねないからだ。さらに、沖縄返還協定そのものの再考を迫られ、返還を先送りせざるをえなくなる。当時の左派陣営は、「沖縄返還協定粉砕」をスローガンに掲げており、穏健な屋良朝苗主席もこうした主張に共感していた。主席自ら執筆したという「はじめに」にも、「米軍基地即時全面撤去及び自衛隊移駐反対」という主張が繰り返されていた。

事前に建議書の内容を察知した外務省は、政府にその内容を伝え、政府は自民党と相談した結果、屋良主席と建議書が到着する前に採決することを決めたと推測できる。これを暴挙と断罪することも可能だが、建議書に法的拘束力があるわけではなく、日米同盟に反対する野党や左派陣営の主張が繰り返されているだけなので、建議書が国会に届いたとしても、国会審議も政府と野党のすれ違いが繰り返され、実質的な進展はまず望めなかっただろう。

復帰から50年を経ても、米軍基地問題をめぐる議論や与野党間の対立には大きな進展が見られないように思えるが、実際には日本共産党を除く野党は、日米同盟を認めている。日米同盟に反対する立場が野党の主流だった時代に作成された建議書に、現在における政治的リアリティを求めることはできない。

実は、建議書に盛りこまれた「米軍基地即時全面撤去・自衛隊移駐反対」以外の大半の要求は実現されてきた。多くは沖縄振興に関わる要求である。ただし、建議書の要求が正しいことだったかどうかについては大いに疑問がある。当初復帰後5年〜10年のあいだの激変緩和策として要求されていた振興策(他県とは異なる特例措置)は延長に延長を重ね、結果的に半世紀50年も続いてしまった。このことが、逆に沖縄経済の足枷となってきたのではないか、というのがぼくの考え方である。不幸なことに建議書に端を発した補助金経済がすっかり定着してしまったのである。

沖縄の未来に建議書は不要

基地問題も未解決の問題だが、基地問題が未解決なのは、米軍基地の増減または米軍基地の移設が米軍のあり方と日米同盟のあり方に依存しており、沖縄県民の民意と乖離しているということ、ほぼ同じことだが沖縄の地政学上の重要性に関する評価について国あるいは米軍と沖縄県の間に隔たりがあるということ(安保観の相違)、事実上沖縄の基地負担の代償と化している振興策を縮小したくないという人々が沖縄において多数派であるということ(基地の縮小は振興策の廃止ないし削減に通ずるという無意識の県民意識)などによる。もっとも、全面撤去にはほど遠いが、沖縄の米軍基地が縮小されていることは紛れもない事実である。

繰り返しになるが、この問題について今の段階ではっきりいえることは、「米軍基地即時全面撤去・自衛隊移駐反対」という屋良建議書の要求はリアリティを欠いているということだ。

玉城知事が今になって古文書のような屋良建議書を持ちだした理由は不明だが、この建議書に展開された主張をなぞっても何も生まれないのは明らかである。生まれるのは後退と悔悟だけだ。識者に尋ねるのはいいが、おそらく「屋良建議書を握りつぶした政府の暴挙」という亡霊のような記憶が甦り、前途を呪うだけに終わる。

知事に望むのは、子どもたちの未来を見据え、前を向いて歩くことだ。過去の怨念・恩讐に捕らわれたら、沖縄はさらなる悲劇に晒されることになるだろう。

批評.COM  篠原章
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