山下達郎批判を隠れ蓑にする大手メディアの姑息な頬被り

嵐が去るのを待つ大手メディア

正直にいうと、ジャニーズ事務所が潰れ、所属するタレントや歌手たちが、宙に浮いてしまってもまったく困らない。SMAPに始まる(それ以前まで遡ればフォーリーブスの北公次の「反乱」に始まる)ジャニーズ事務所の一連の騒動は、ぼくにとってほとんど些事にすぎない。

いちばん大きな問題は、今回の一件を頬被りし続けてきたメディアの側にあるというぼくの立場(『ジャーナリズムの批判をいなした山下達郎—ジャニー喜多川の「性加害」をめぐって』2023年7月9日付)はいささかも変わらない。ネット・メディアの「山下達郎の敗北」とか「松尾潔の勝利」とかいったニュアンスの(個人的対立に注目した)報道にばかり接すると、結局は「ジャニーズ事務所など芸能界の体質的な問題は放置した方が得策」というNHKや朝日新聞など大手メディアの「忖度」の判断が透けて見えてくる。彼らは「松尾VS山下」の対立を隠れ蓑に、ジャニーズ事務所をめぐる「嵐」が通り過ぎるのをじっと待っているのだ。大手メディアは、お茶を濁す程度にしか報道していないが、それは追及の矛先が「問題を放置してきたマスコミ、ジャーナリズム」に向かう事態を怖れているのだ。

ジャニーズ事務所もスマイルカンパニーもたんなる中小企業・零細企業なのであって、それ以上でもそれ以下でもないが、大企業である大手メディア(広告代理店も含む)は、ジャニー喜多川の存命中も逝去後も、彼の性癖に対する疑問を黙殺しながら、ジャニーズ事務所を利用し尽くしてきたし、いまも利用し続けている。山下達郎はジャニー喜多川の業績を冷静に評価したが、大手メディアから発せられる情報には、「ジャニー喜多川の成し遂げてきたことに対する評価」もなければ、「ジャニー喜多川の個人的性癖に対する糾弾」すら含まれていない。ジャニー喜多川の「性加害」は芸能界の体質の一端を表しているが、大手メディアが積極的にこの問題を報道しないのは、「芸能界の性加害など昔からある伝統のようなものだから、人身売買の疑いさえあった舞妓の伝統と同様、触れずにおいたほうが得策」(芸能界に対する忖度)だし、「おまけに、同性の同性に対する性加害だしね」(LGBTQに対する忖度)という曖昧模糊とした姿勢が根っ子にあるからだ。紙面構成や番組構成を通じて、一方で「ジャニー喜多川の業績」を評価しつつ、他方で彼の「性加害」といわれるものの実態を究明することはいくらでもできるはずだし、実際、彼らにはその能力も備わっているが、「カネの匂い」を感知する「不要な能力」が異常に高いがために、この問題に触れることはタブーになったままである。

「シュガーベイブ」の山下達郎

ところで、ぼく自身とミュージシャン・山下達郎との関わりは深く、しかも長い。ただ、それは「一介のファン」としての関わりである。

細野晴臣、大滝詠一、松本隆、鈴木茂がはっぴいえんどのメンバーだったという意味でもっとも大切なのと同様、山下達郎はシュガーベイブのメンバーでありリーダーだったという意味で、ぼくにとってその存在は大切であり続けており、細野晴臣や大滝詠一が松本隆を介して松田聖子プロジェクトで歌謡界に関わったこと、山下達郎が「硝子の少年」の大ヒットをきっかけにジャニーズ事務所の発信する音楽に関わったことは、偶発的な「流れ」であって、けっして「めでたい出来事」ではなかった。ぼくにとっての山下達郎は、あくまで「シュガーベイブの山下達郎」だ。それほどまでに山下達郎とシュガーベイブの登場は衝撃的だった。

シュガーベイブは、世評的にはきわめてマイナーなバンドだが(まるで売れなかったという意味)、このバンドを知ったことでぼくは音楽への道を断念した(その前のはっぴいえんどの登場は「音楽の道に進む」とぼくに決意させた)。個人史的にはシュガーベイブは、それほどまでに重要な存在である。だから、山下達郎を客観的に評価することは端から放棄している(実際、批評を書いたことはほとんどない)。「不正行為」が問題とされて大学をクビになり、東京拘置所に10日間身柄を拘束されたとき、日曜午後の「山下達郎 サンデーソングブック」が所内のスピーカーから流れてきて(10日間で2回聴いた)、ぼくはそれだけでどん底から救われる思いだった。したがって、「一介のファンであり続けたい」という思いは今も強く、10年ほど前に達郎氏から「連絡をくれればチケットは手配するよ」という申し出があったにもかかわらず、今もイープラスの「当選待ち」という、「一介のファンとしての姿勢」を保っている。

メディアの機能不全

だからこそ、山下達郎のジャニーズ問題には積極的に関わりたいとは思わないし、ジャニーズ問題がどのように推移しようとも、その推移にほとんど関心は持てないが、メディア(とくに大手メディア)の動向には敏感になっている。率直に言えば、ジャニーズ絡みで「山下達郎批判」が行われれば、ついつい反応したくなってしまう。大手メディア同様、嵐が過ぎ去るのを待つのも1つの手だと思うが、それにはとてつもない忍耐力が必要だ。今回の一件では、ファンとして沈黙を守るつもりでいたが、いてもたってもいられなくなって、先に触れた『ジャーナリズムの批判をいなした山下達郎—ジャニー喜多川の「性加害」をめぐって』(2023年7月9日付)を書いた。「いい気なもん」のメディアやジャーナリズムを批判したくなったからだ。

「山下達郎批判を隠れ蓑にするな。そもそもお前たち(大手メディア)がいけないんだろう」というのがぼくの批判の主旨だ。北公次の告白以降、ジャニー喜多川についてさまざまな問題が指摘され、告発され、噂されてきた。だが、大手メディアがこれをまともに取り上げることはなかった。大手メディアは頬被りしたのである。未成年の性加害に著しく厳しい英国のBBCがこの問題を取り上げ、松尾潔が契約打ち切りを機に達郎批判に踏み切るまで、まともなジャーナリストや音楽人は、誰一人としてジャニー喜多川を「性加害者」とは認めたがらなかった。北公次が赤裸々な告発(告白)本『光GENJIへ—元フォーリーブス北公次の禁断の半生記 』(データハウス・1988年)を出版したときも、ほとんどのメディアは黙殺した。ジャニーズ事務所から圧力があったというより、ジャニーズ事務所に「忖度」したのである。ふだんから正義を振りかざしている大手メディアは、少なくともジャニーズ事務所に関しては、この時すっかり「機能不全」の状態に陥っていたのである。

もし、1988年のこの段階で、大手メディアが北公次の言い分に真摯に耳を傾け、ジャニー喜多川に対して余計な気遣いをしなければ、今回のような問題は起こらなかったろう。現在活躍するジャニーズ事務所出身の大物タレントの多くは、同じような苦い経験をしないで済んだもしれない。

もっとも、北公次以外に「性被害」を認めている「大物タレント」はいない。ジャニー喜多川に対する感謝の気持ちが、被害者意識を上回っているのか、唾棄すべきトラウマとして思い出したくもないのか、自分自身の現在のパブリックイメージに対する配慮なのかはわからない。現段階で皆がジャニー喜多川からの性加害を認めたら、芸能界はひっくり返るような大騒ぎになるだろうが、当時の騒動なら規模は小さかったはずだ。

茶の間の正義

今回の一件によって、芸能界の旧態依然たる構造は放置され、個人的な係争の範囲を逸脱しない「話題沸騰」に終始してしまうかと思うと、「そうか、そういうことだったんだ!」との忸怩たる思いは拭いきれない。この期に及んでも「芸能界の大物タレント」や「裏方の大物たち」が一切発言しないことは、もっとも恩恵を受けてきた者たちが、その力を温存しようとする、あるいはその力を削がれないことで終わればいいと願っていることの証であり、その肝の部分に触れようとしないメディアの粗雑極まりない対応を「忖度」と呼ばずして何を「忖度」と呼べばいいのだろうか。他人の「忖度」を問題にする前に、自分たちの「忖度」を反省すべきだ。

ジャニー喜多川を告発したタレント・元タレントの大半は、このまま日の目を見ることもないだろう。「セカンド・レイプ」のような話に終わってしまう可能性もある。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。かつて評論家の山本七平が「茶の間の正義」と喝破したメディアの本質はまるで変わっていないのである。

 

批評.COM  篠原章
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