国籍は利権か?−−−「日本国籍喪失(剥奪)」の問題を考える

国籍法第11条は違憲か?

ABEMA NEWSアベプラ②で「二重国籍ってなぜダメ?剥奪された元日本人と考える」なる番組をやっていた(7月20日/アーカイブ配信は期間限定。11分ぐらいから二重国籍問題)。
議論の的となったのは国籍法第11条である。

第11条 日本国民は、自己の志望によつて外国の国籍を取得したときは、日本の国籍を失う。

具体的には、「二重国籍の禁止」という政府の方針にもとづく「国籍の自動喪失」という措置は人権を制約するもので、個人の人権(国籍選択の自由)を侵害しているという「国籍剥奪違憲訴訟」の原告側主張が対象となったディスカッションだった。

メディアのなかには「国籍法第11条は、国際的に活躍する日本人の足を引っ張るもの」と報道する番組や記事もあり、現に存在する92万人(推計値)の多重国籍の日本人を放置しながら(多くは出生の時点で二重国籍になった人たち)、「何らかのかたちで多重国籍という事実が発覚した日本人からのみ日本国籍を剥奪するのは不公平であり、時代遅れである」という考え方が「多重国籍容認派」の立場である。

番組には、国籍剥奪違憲訴訟の当事者のひとりでもある近藤ユリさん(アリゾナ州弁護士)が多重国籍容認派の代表として出演、これに反論する立場の論者として八幡和郎さんが出演していた。二重国籍を認めることは「権利は二人分、義務は一人分」となり、正義を損なうというのが八幡さんの主張である。

他に、日本国籍を取得済の米国出身タレントのパックンと制度アナリストの宇佐美典也さんも出演していたが、重国籍を認める「不都合」と認めない「不都合」の議論が噛み合っているとはいいがたい、いわば煮え切らない議論だったことは否めない。

番組進行の手際の良し悪しもあるが、近藤ユリさんの「国籍法第11条を知りつつ、周りが二重国籍を認められているから、自分の個人的な事情で米国籍を取得してもあまり問題はないだろという(甘い)見込みで米国籍を取得したが、日本に帰国したら日本国籍を喪失している、と入管から指摘されてびっくり!そこで政府を相手取り訴訟を起こした」という主張は、国籍剥奪訴訟の当事者とは思えない穴だらけの主張に思えた。

「権利は二人分、義務は一人分」か?

他方、八幡さんの「権利は二人分、義務は一人分」という主張にも無理があると感じた。「自己都合で(自分の欲求を満たすために)他国の国籍を取得した」ことがきっかけで日本国籍を喪失した事情までははっきりしているが、それが「義務は一人分」という事態に直結しているかどうかは不明だ。近藤さんの「社会保障負担については二人分の義務は果たしている」という主張に対する反論となっているかどうかはよくわからない。

八幡さんも「重国籍の否認」に徹底的に拘っているわけではなく、日本に住む孫との面会や親の介護などやむをえない個人的な事情を斟酌した例外条項を、今後制度化する可能性は示唆している。国籍法を根本から変えることなく、面会や介護のための永住権や滞在許可カテゴリーを新設するなどの制度的変更に留まるだろうが、その手の制度改革や制度解釈でいくらでも近藤さんの主張に対応できるとは思う。

「国籍剥奪違憲訴訟」の原告では、スイスでの公共事業入札の都合でスイス国籍を取得し、結果的に日本国籍を喪失した野川等さんが有名だが、これもビジネスが絡んだ国籍喪失のケースであり、近藤さんの国籍喪失のケースと大きくは変わらない。野川さんは駐スイス日本大使館の特定の人物の「意地悪」が発端であると主張しているが、一般には、こうした個人的な事情から現行国籍法の改正を求めても、裁判所はそこまでの必要性を判断(国籍法第11条は違憲との判断)することはないと思う。個人的な手続きは繁雑となるが、その都度国籍変更の届け出をすればそれで済むことのようにも思える。

「国籍は利権」か否か

個人的には、「複数のパスポートを持つ人生」に対する憧れはあるものの、国際的なAI化、IT化の波は留まることを知らない時代に入りつつあるので、「居住年数と現住所がその人の国籍」に一致するよう求められる制度が一般化するのではないかと予想している。

八幡さんの主張とは少々異なるものの、個人の生活上の都合で取得した国籍を温存したまま日本国籍を回復しようとすると、「負担と権利」などさまざまな面で無理が生じてくる。「その矛盾を解消するために多重国籍の承認が必要である」「政府は個人の国籍選択の権利を認めるべきである」「個人は複数のパスポートを保持する権利を有する」といった主張は、「無節操な社会への憧れ」を増幅するだけで、「金さえ出せば何でもOK」という社会を「善」とする「歪んだ正義」を生みだしかねないとは思う。日本政府の対応の是非や推移はともかく、「多重国籍を認める」ということは、「国籍やパスポートが〈利権〉になるような社会を貴方は認められますか?」という問いに帰結するような話なのである。この問題を、「異文化尊重」の問題と混同して語るほうがむしろどうかしているのではないかと思う。

なお、「国と国とが戦争状態になったとき」を想定して、「多重国籍は認めるべきではない」との多重国籍反対論もある。米軍のように、永住権さえあれば軍隊に入隊できる組織もあり、国籍の有無が入隊の必要条件ではない国もある。ロシアVSウクライナ戦争の例を待つまでもなく、傭兵部隊が軍の一角を構成するケースもある。イギリス陸軍のグルカ旅団(多くはネパール国籍)がその好例で、軍隊・軍事組織と国籍とは切り離して考えたほうがいい、ともいえる。また、国家公務員の場合(外務省を除く)、多重国籍であっても日本国籍さえあれば採用されるし、外国の場合もほぼ同様である。

以下で掲げた書籍『二重国籍と日本』(ちくま新書)は、二重国籍問題を包括的に論じた新書だが、無論、ここで指摘したような「国籍は利権?」といったような視点はない。そこを割り引いて読んでも、有益な書籍だとはいえる。

 

批評.COM  篠原章
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