先週の木曜日(2001年9月5日)に登川誠仁のライヴ(青山CAY)があった。大学の同僚の、沖縄好きN教授からの誘いである。チケットを取ってくれたの はN教授の友人で少女漫画誌の編集長を務めるSさんの奥様だ。佐藤夫妻は沖縄帰り、羽田から直行で青山まで馳せ参じたという。当の登川師匠もS夫妻と同じ便だったらしい。開演前の行列のなかで、初対面のぼくまでお土産のシークァーサーを頂戴した。仄かに漂う沖縄の香りを、ユニクロ製980円の鞄にしまい込むと、なんだか準備が整った気がした。
ステージにはまず知名定男がたった。ネーネーズのプロ デューサとしても、民謡歌手として有名だが、12歳の時に大阪から密航して、台風直下の辺戸岬(沖縄最北端)に上陸したという。登川誠仁の最初の内弟子になり、六畳一間、夫婦二人・内弟子一人・メジロ一羽の「お笑い同居生活」を三年間送ったというエピソードがいい。
知名定男の店「島唄」には、92年から93年にかけてしばしば通った。コザの東側、太平洋に面した泡瀬に店があった頃だ。狭い店でちっぽけなステージがあった。店主の知名定男はいつも酔っぱらっていた。だから三線を持ってステージに立っても、ヨッパライの手慰みにすぎなかった。音盤を聞けば、知名定男以上の男性シンガーはいないと確信させるほど威厳と哀愁に満ちていた。が、「島唄」での期待はいつも裏切られた。当時生まれたばかりのネーネーズも、ホステスと歌者を兼ねていて、客の泡盛をつくっては歌い、歌っては客のビールを注ぎといった体たらくで、このままじゃ沖縄民謡の将来はないと悲観した。沖縄民謡は酒場の音楽だった。
ところがこの日は違った。久々に濃厚だった。師弟共演は、ゆったりした緊張感に助けられて、もたれあうかあわないかというギリギリのところで、客を「おきなわ」へと引っ張り込む。さすがだと感心した。選曲は期待どおりではなかったが、そんなことはどうでもいいと思わせるほど、充実した時間が流れた。登川誠仁は病み上がりだったが、一番弟子を脇に控えさせながら、青山の空気を一気にウチナーの空気に変えてしまうような、底知れぬ迫力があった。
「こんな歌、あんたらやまとぅにはどうせわからないからしょうもない」「八重山の歌だから私にもちょっともわからんが、歌ってみる」「ただ眠気をこらえるのに苦労するような歌だったねえ」歌に対するスタンスがいい。登川誠仁は一生懸命に聴くなと言っている。たかが「歌」じゃないかと言う。まったくもってその通り。たかが「歌」、というこのスタンスが、沖縄民謡を救ってきたのだ。林助もその点全く同じだ。これこそ沖縄民謡の神髄である。ぼくは元気を取り戻した。