中江裕司監督『恋しくて』

koishikute

中江裕司監督作品は、これまで必ず公開前(ゼロ号試写か1号試写)で観て来たが、この最新作については試写はおろか一般公開も見逃していたので、なんだか中江さんに借りをつくってしまったような気分だった。先週DVDが手に入ったので、ようやく借りを返せることになった。ホッ。

例によって音楽映画である。が、『白百合クラブ』などの ドキュメント作品は別にして、「音楽」という素材を真正面から扱うことはなかった。これまでの中江作品では、音楽はどちらかというと「隠れた主役」であった。だから、「十九の春」(『ナビィの恋』)や「クラリネットをこわしちゃった」(『ホテル・ハイビスカス』)といった、シンプルながら普遍性のある素材選びにも共感した。奇をてらう必要はない、その“自然体”がいい。『ホテル・ハイビスカス』のパンフに寄稿した一文のなかで、ぼくはその自然体を“子どもの目線”というふうに表現した

中江さんがかなりの音楽好きであることをぼくは知っている。「歌」をめぐる論争だってしたことがある。だから中江さんが、石垣島を舞台にしたアマチュア・バンドのサクセス・ストーリーを撮っても、それは驚くに当たらなかったし、脚本も演出もおおよそ理解できた。

ファーストシーンから深々と頷いてしまった。女子高生・ 加那(山入端佳美)の部屋から撮る石垣の黎明。漆黒の闇を光が徐々に侵していく。沖縄でいちばん素敵な時間である。石垣の黎明はまた格別である。その素晴らしさをぼくはよく知っている。石垣の黎明を、それも部屋のなかから撮ることなんて、中江さんぐらいしか思いつかないにちがいない。

同じように感嘆するシーンがいくつかあった。たとえば、高校の屋上にタバコを吸いながら寝そべるセイリョウ(石田法嗣)。雲の影の変化(へんげ)がコンクリートの屋上に映し出され、早送りで黄昏へと光の色が変 わっていく。たとえば、白保の海と空。雲のかたちと光の加減が早送りで変わっていく。雲の変化や光の変化もまた沖縄固有の映像である。溜息と共に「嗚呼」と呟いてしまう。嗚呼、なんという美しさよ。

高校生が出演する文化祭(八重高祭)やバンド大会のシーンもいい。素敵にヤイマな(八重山的な)容姿の女子と男子が一生懸命に歌う。ここでは歌と生活はすっかり溶けあっている。こんな時空間を日本の他の土地には求めても無駄だ、とぼくの心は切ないほど沖縄を、石垣を求めてしまう。

そしてセイリョウが行方知れずとなった父を探しに行くその先が「奄美」。これも実に中江さんらしい。嗚呼、奄美、と思う。思えば、中江さんの奄美冒険譚を聴いて、ぼくも奄美に何度か足を運んだ。苦しく哀しい島々だが、そこにはやはり音楽がある。音楽があるということですべてを許せてしまう島々である。

役者も皆素晴らしい。八重山の明るい高校生そのものといった栄順役の東里翔斗(あいざとしょうと)。ロケ中にすっかり美しさを増した加那役の山入端佳美(やまのはよしみ)。そして、唯一の非ウチナーンチュで あり、プロの役者でありながら、八重山のつっぱりを見事に演じているセイリュウ役の石田法嗣(いしだほうし)の抜きんでた演技力。地味ながらマコト役の宜保秀明(ぎぼひであき)がまたいい。

だが、と思う。公式サイトによれば「BEGINのサクセス・ストーリーではない」とされているのだが、タイトルから始まって、どこからどう見てもBEGINのサクセス・ストーリーなのだ。BEGINがダメだといっているのではない。BEGINはいいバンドである。嫌いじゃない。イカ天のときだって心から声援を送った。しかしながら、この映画はいったい何を撮ろうとした映画なのだろうかと戸惑ってしまうのである。映画を通じてBEGINのキャリアを祝福したかったのであろうか?BEGINを通じて生活と音楽とが密着した生身の石垣を撮ろうとしたのであろうか?それとも、BEGINの伝記と石垣の現在を撮ることを通じて音楽そのものの普遍性を描きたかったのであろうか?そこが今ひとつぼくにはわからなかった。

これまで特定のバンドやミュージシャンのサクセス・ス トーリー(多くは混沌や破滅への道だったりするが)は山ほど映画になっている。ビートルズしかり、ジャニスしかり、ドアーズしかり。が、ドキュメンタリー 映像を除いて、どれひとつとしてぼくを感心させる映画はなかった。それに比べれば、この『恋しくて』はたしかに逸品だが、一方で、他のバンド映画と同様の 落とし穴にはまっているような気がしてならない。ストーリーやエピソードは描けても、ミュージシャンの魂までは描ききれない、といったら言い過ぎかもしれない。だが、エンディングでホンモノのBEGINが出てきた途端、なあんだそういうことか、と思ってしまうのだ。BEGINが劇中で歌えば、役者によって奏でられたすべての音楽が漂白されてしまう。BEGINを超えるBEGINは存在しないのである。結果として、BEGINが中江作品を超えてしまったよう な印象が残されてしまうのだ。この点がかえすがえすも残念である。

批評.COM  篠原章
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