外国特派員協会での翁長知事スピーチと質疑応答(全文書き起こし)Vol.1

Governor of Okinawa, Mr. Onaga's Speech, Questions and Answers at the Foreign Correspondents' Club of Japan (Full Texts) Vol.1

2015年5月20日13時より、東京の外国特派員協会(FCCJ)において、翁長沖縄県知事の講演・質疑応答が行われました。以下、その全文を掲載します。元データはVideonewscom、英語の訳文はFCCJが用意した同時通訳に依拠しています。聴き取りは批評.COM。なお、明らかな事実誤認や曖昧な点については、批評.COMが論評を付しています。(背景色グレイ着色部は批評.COM)

司会:みなさんこんにちは、今日はこれだけ多くの皆さんにお集まり頂きまして、ありがとうございます。 これは、今日はとても興味深いトピックになると思います。 今日のスピーカーはもちろん沖縄の翁長知事でございます。
問題は主に辺野古、普天間の移設問題となります。 1996年に米軍が辺野古の浜辺を普天間基地の移設先として選びました。 この選択は、みなさんご存知のように非常に多くの議論を呼ぶことになりました。 普天間がこの宜野湾市の中心街から移設されるべきであるということは確かなわけですけれども、沖縄の人はもっと本土の人に、沖縄が負担している米軍基地の負担を分かち合ってほしいと言っています。 現在、約80%の人たちが反対です。

昨年11月、この翁長知事が選挙で大勝いたしました。 その時の唯一の争点がこの辺野古基地移設の問題でありました。 これは、沖縄で残っている非常に美しいその沿岸地帯に移そうということであります。 この、「私は新しい基地を作らせないという公約をする」と選挙戦の時におっしゃっていました。 元は自民党所属の議員でいらっしゃいました。 しかし現在、安倍総理と同じ党だったわけですけれども、現在は袂を分かっておられます。

沖縄は独自の歴史、アイデンティティがあるというようにお考えでいらっしゃいます。 そして、この新基地の建設には、断固として反対であるとされています。 では、これからその取り組みをどこまでされるのかということが私の注目するところです。 ようやく、安倍総理が先月翁長知事とお会いになりました。 この数か月にわたって、安倍総理との会談を求めていたわけですがようやく実現しました。 安倍総理は辺野古移設が唯一の解決策であるとしています。 そして、翁長知事はこれから訪米されまして、その問題を訴えるという事です。

これから15分くらい翁長知事にお話しをされるということであります。 同時通訳がありますので、今スマートフォン、携帯電話のスイッチなどをお切りください。 では、翁長知事お願いいたします。

翁長知事:えー、はいさい、ぐすーよー、ちゅーうがなびら。 皆さんこんにちは。 外国特派員協会のみなさま、このようにたくさんお集まりを頂きまして、私のお話を聞いていただける、あるいはまた沖縄の基地の問題、あるいは日米安保体制、いろんな角度からですね、皆さん方が私の意見を交換する中から、ニッポンのあるべき姿と言いますか、あるいは日米同盟のあるべき姿といいますか、 あるいはそれを支える沖縄の立場と言いますか、こういったこと等について、議論が深まればありがたいなと、このように思っております。 ただまぁ、このようにたくさんお出ででありますので、緊張しておりますからいい話が出来るかどうかわかりませんけれども、15分だけ私が話をしてですね、皆さま方のまた質問も受けたいと思っております。
まず沖縄の簡単な歴史から話をさせて貰いますと、沖縄は約500年に及ぶですね、琉球王朝の全盛期の時代がございました。 その中で万国津梁の精神といいまして、アジアの架け橋になるんだと、あるいはまた日本と中国と、それから東南アジアの貿易のですね、この中心になるんだということで、ずっと何百年やってまいりました。

【批評.COM:「500年に及ぶ全盛期」という知事の表現は、琉球王朝の存在が確認されているのが500年という意味だと思われる。また、琉球に「アジアの架け橋になる」という主体的な意思があったわけではない】

その大交易時代(15〜16世紀)があった時にはですね、ベトナムの博物館に行ってもびっくりしたんですが、600年前に琉球人が来ましたよ、という年表もありましたし、それから中国の方では、福州市の方にですね、やはり北京に行く途中、福州市に立ち寄ってですね、行ったものですから、向こうに琉球人墓といいまして、琉球の人が亡くなったお墓があるのを今も地域の人が管理しております。 それからそこに宿がありまして、琉球館と言いますけれども、それも残っております。それから北京の方では、国子監と言いまして、中国の科挙の制度を乗り切ってきた一番最優秀のところにですね、琉球学館というのがありまして、いわゆる琉球のエリートがオブザーバーでそこで勉強させてもらったというですね、そういったこと等もあるような中に琉球王朝がアジアと付き合いをされてる。 それから沖縄の名産であります泡盛はタイのお米を使って泡盛が出来てるわけで、タイとの何百年に渡るお付き合いもあるわけです。

そういった中で、1800年代に参りますと、アメリカのペリー提督がですね、初めて日本に来航したのが1853年、浦賀であります。 ですから日本の歴史の中では、ペリーさんは浦賀に最初に着いたということになっております。 それは間違いありませんが、ペリーはその前後、実は5回沖縄に立ち寄ってまして、85日間滞在をいたしております。 1854年にはですね、独立国としての琉球と合衆国の間にですね、琉米修好条約を結んでおります。 それからオランダとフランスとの条約を結んでおります。

【批評.COM:ペリーの琉球来航は、日本に対する開国要求戦略の一環として行われた。目的は日本開国だが、日本に関する情報収集と薪炭補給の前線基地として、日本の属国である琉球を選んだと言うのが真相だ。
知事の言う「5回」の内訳は次の通り。
香港、上海経由で1853年に琉球に来航したペリーは(1回目)、
琉球王府の制止を振り切り、武力で脅すように首里城に進軍、王府の「交渉窓口」を強引に開けさせた。
その後、自ら艦隊の一部を率いて小笠原諸島探検に向かい、測量などの後いったん帰琉(2回目)。
ペリーは小笠原の領有宣言を行うが、列強の反対に遭ってまもなく取り下げている。琉球に戻ったペリーが次にとった行動が浦賀への来航である。浦賀で幕府と交渉した後、ペリーは琉球に戻り(3回目)、
琉球に待機させていた艦隊と合流後、帰米している。翌1854年、ペリーは琉球に立ち寄ってから(4回目)
日本に向かい、開国を実現させた。往路、再び琉球に立ち寄って(5回目)、
「日本の開国」を知らせてから修好条約を結ぶが、その折に米艦隊の石炭補給基地を琉球に置くことを約束させている。つまり、沖縄における米軍基地の原点は、1854年の琉米修好条約にあるといってもよい。
なお、1854年の来琉の際には、海兵隊水兵、ウィリアム・ボードが、那覇市中で女性をレイプするという事件が起こっている。これに怒った住民たちがボードに石を投げつけ、逃げ回って海に落ちたボードは結局溺死してしまった。ペリーは「ボードを殺した犯人」の裁判を要求し、王府は事件に関わった住民を処罰している。なお、ボードの墓は那覇市泊に現存する】

そして琉球はその25年後にですね、1879年ですけれども、日本国に併合をされました。 私たちはそのことを琉球処分と呼んでおります。 それからはですね、沖縄の言葉であるウチナーグチを禁止されました。 一人前のニッポンジンになりなさい、と、いうことでですね、日本語をしっかりやるようにと言われまして、沖縄の人たちは立派な日本国民になるんだということで、そういったこと、公民化教育もしっかり受けてですね、ある意味で日本国に尽くしてまいりました。

【批評.COM:1609年の薩摩による琉球侵攻と属国化について知事は触れていない。1609年以降、琉球は事実上、薩摩の属国となっている。この時代の琉球はしばしば「日中両属」といわれるが、琉球に役人を常駐させていたのは薩摩のみ。琉球も薩摩に役人を常駐させ、薩摩藩からの下達に常時備えていた。中国は冊封使というかたちで臨時的に役人を派遣していたに過ぎない】

その先にあったのが70年前の沖縄の戦争であります。 そして戦争の中でもですね、沖縄県民が10万を超える人が、唯一の地上戦で亡くなりました。 そして、日本軍、アメリカ軍あわせて20万を超える方々が沖縄で亡くなっております。 えー、まぁ、そういった戦争の話をすると、時間がありませんから、そういう意味では沖縄はですね、戦前、戦中、戦後と、ある意味で日本国に操を尽くして参りました。
その結果がですね、戦後すぐサンフランシスコ講和条約で、日本の独立と引き換えに沖縄は約27年間米軍の政権下に差し出されたわけであります。 米軍との過酷な自治権獲得闘争というものはですね、想像を絶するものがございました。 今の日米地位協定も私たちからすると若干問題がありますけれども、当時はもう治外法権みたいなものでありますから、高等弁務官というのがありまして、それからアメリカ民政府というのがありまして、そしてその下で沖縄の議会や立法院議会があったわけですね。 そういう中ですから、日本国憲法の適用もありませんし、児童福祉法の適用もございません。 27年間、国会議員を出したことも一度もございません。

沖縄はその間、日本国民でもなくアメリカ国民でもありませんでした。 インドネシア沖で沖縄の漁船が拿捕された時には、「沖縄だよ、琉球だよ」と三角の旗を掲げてやったんですが、拿捕をされたときに、その旗は何の役にも立ちませんでした。 ベトナム戦争には、沖縄から毎日B51を中心としてですね、爆撃で行きました。 えー、その間日本は、えー、自分の力で日本の安全を維持したかのごとく、高度経済成長を謳歌したわけでございます。

今回の普天間の基地にあり方になりますけれども、日本政府は普天間基地の危険性除去が原点であると言っております。 そして、その、唯一の解決策は、新辺野古基地が唯一の解決策であると言っております。 しかし沖縄から言わせますとですね、普天間基地の原点は戦後住民が収容所に入れられているときにですね、米軍に強制接収をされまして、あの普天間基地は出来てるんです。 何も貸したわけじゃないんです。 強制的に取られました。

そして、これも改めて確認をしますけれども、沖縄は今日まで自ら基地を提供したことは一度もございません。 普天間基地も、それ以外の飛行場も、基地も、戦後沖縄県民が収容所に入れられている時に取られたか、あるいは住民が住んでいる時には銃剣とブルドーザーでどかして、家も壊してですね、そして今の基地はすべて出来ているんです。 ですから、私たちは、この銃剣とブルドーザーでですね、基地に変わったものを見ながら27年間、今日もそうですけれども、過ごしてまいりました。 ですから、新辺野古基地に作れ、と行ったときにですね、私の言い分は自ら土地を奪っておいて、県民に今まで大変な苦しみを与えておいて、普天間基地が老朽化したから、世界一危険になったから、お前たちが負担しろ、辺野古が唯一の解決策だ、それが嫌なら代替案がお前たちはあるのか、日本の安全保障はどう考えているんか、沖縄県のことを考えているのか、こういった話がですね、されてるわけですね。

【批評.COM:知事は「沖縄は今日まで自ら基地を提供したことは一度もございません」と断定しているが、これは不適切な表現である。今問題となっている名護市辺野古区(旧久志村)には、1956〜57年にキャンプ・シュワブを自ら誘致した歴史がある。軍用地料の支払い金額・支払い方法をめぐって本島各地で「島ぐるみ闘争」が行われていた時代に、辺野古区の「基地誘致」はなんとも苦渋の決断だったが、これが成功すると、隣地・隣村にまで基地誘致・基地容認の波は広がり、基地反対運動に変質していた島ぐるみ闘争も終焉に向かった。金武にある巨大な海兵隊基地、キャンプ・ハンセンも、辺野古区を見倣って誘致された基地だが、以上のような誘致の事実は沖縄でもあまり知られていない。現在、沖縄各地あるいは本土各地で見られる住民と基地との交流事業の端緒も辺野古にあるという。こうした点を正しく認識しないで沖縄の米軍基地について語ることは不毛である】

ですから私はそれは日本の安全保障を考える、日米同盟を考える、日米安保体制を考えるときに、日本の国のですね、政治の堕落ではないかと、こういうことを申し上げてるわけでございます。 そして、今、新辺野古基地が、ボウリング調査が始まっておりますけれども、工事の現状もですね、まさしく今回海上での銃剣とブルドーザーでの基地の建設がですね始まったなぁ、というような様相でございます。

私は自国民の自由、平等、人権、民主主義を守れない国がですね、どうして世界の国々にその価値観を共有することが出来るのかなぁと、大変不思議であります。 日米安保体制、日米同盟、私は自由民主党の出身でありますから、日米安保体制は大変理解をしております。 その日米安保体制、日米同盟はですね、もっと品格のある誇りの持てる物でなくては、アジアのリーダーとして世界のリーダーとして、この価値観を共有することは出来ないのではないかと、こういう風に思っております。

安倍総理と会談をいたしました。 その中で安倍総理が私におっしゃったのが、普天間を、新辺野古を作るわけだけれどもその代わり嘉手納以南は着々と返すので、あるいはまたオスプレイも沖縄に配備しておったけれども、何機かは本土の方で訓練しているので、基地負担軽減を着々とやってるから理解をして頂けませんかと、いう話でございました。 私からいたしますとですね、総理にこう申し上げました。 「総理、辺野古、普天間が辺野古に移って、そしてその嘉手納以南が返された場合に、一体全体、沖縄の基地はどれだけ減るんだかご存知でしょうか」と。 これは一昨年、小野寺防衛大臣とですね、私が話をして確認をしましたところ、いいですか、普天間が辺野古に移って、嘉手納以南のキャンプキンザーとか那覇軍港とかキャンプ瑞慶覧とかそういったものが返されてどれだけ減るかというと、今の米軍専用施設の73.8%からですね、73.1%。 0.7%しか減らないんです。 その0.7%しか減らないのは何故かというと、みんな県内移設なんです。 どこそこに持っていく話じゃないんですね。 いわゆる県内移設だもんですから、普天間は辺野古に行きますし、えーー…、まぁ、まだ決まってないところがありますから、個別の理由は言えませんけれども、そういった所もみんな県内移設なんですね。

こういったようなもので、たった0.7%しか減らない。 それから、総理がおっしゃるように、年限をかけてですね、那覇軍港だったら2025年、それからキャンプキンザーだったら2028年に返すと言ってるんです。 ですから、それを見ると日本国民はですね、おお、やるじゃないかと、しっかりと着々と進んでるんだなと、思うんでしょうけれども、しかしその年限が区切ったあとで何と書いてあるかというと、「またはその後」って書いてある、「2028年またはその後」。 そうするとね、沖縄はこういったものには戦後70年ずっと付き合わされてきましたので、いつ返還されるかわからんような内容だということがこれでよくわかると思います。

ですから私は、そういったようなもので総理がですね、沖縄のですね、返還に着々と進んでいるという風には見えませんよ、という話をさせてもらいました。 それからオスプレイもだいたい同じようなことになります。 オスプレイも本土の方で分散して訓練をしておりますけれども、実はオスプレイが2012年にですね、配備をされる半年くらい前から沖縄に配備されるんじゃないかという話がありまして、私は当時の森本防衛大臣などにも、沖縄に配備されるのかというような話をしに行きましたが、一切そういうことはわかりませんと、そんなことは聞いておりませんと、言っておったんですね。 そうしますと、その当時防衛大臣をしておった森本さんが学者時代、いわゆる2010年になりますけれども、今から5年前になりますけれども、本を出しているんです。 その本の中にこう書いてあるんですよ。 「2012年に12機、2013年に12機、配備されます」と書いてある。 防衛省がわからんと言っているものを、一学者が3年前に「2012年に12機、2013年に12機配備される」って、その通りになってるんですね。

ぼくはそういう意味からすると、日本の防衛大臣というのは防衛省というのはよっぽど能力がないか、いわゆる県民や国民を欺いているか、どっちかにしかならないと思うんですね。 そして、その中で森本さんの本の中に何を書いてあるかというと、「元々辺野古基地はオスプレイを置くために設計をしているので、これから100機以上オスプレイは辺野古基地に配備されます」ということが書いてあるんです。 防衛大臣も経験した森本さんの本の中にですね。 そうすると今24機来ました、何機か本土に行ってます、辺野古基地が出来上がってきます、そうするとみーんな沖縄に戻って来るんですよ。 その沖縄に戻ってくるものがですね、全部見えるだけにですね、私は総理に、それはちょっと、このような経緯で信用出来ませんよ、ということを話をさせてもらいました。

えー、あと、最後になりますが、13年前ラムズフェルド元国防長官が普天間基地が危険だということで見にお出でになりました。 そしてこの普天間基地を見て、これはダメだ、世界一危険だから、と早く移転をしなさい、とラムズフェルドさんは言ったんです。 そしたら今、菅官房長官なども、再三再四、普天間は世界一危険だから辺野古に移すと言っているんですけれども、私が日本政府にお聞きしたいのは、ならば新辺野古基地が作れない場合に、本当に普天間は固定化しますかと。 アメリカも日本政府も主要な人間がこれだけ危険だと言っている普天間基地をですね、新辺野古基地が出来ない場合に固定化出来るんですかと、そうお聞きしているわけです。 そうしないと固定化するよ、と脅かしているもんですから、私たちをね。 新辺野古基地が出来なければ普天間をそのまま使うぞ、と言っているわけですから、ラムズフェルドも菅官房長官も再三再四危険だと言っているのに、出来ない場合に本当に固定化できるのかをですね、これをお聞きするんですが、安倍さんは返事がありませんでした。

以上、報告をして、あとはまた質問に答えたいと思います。

(質疑応答につづく)

 

スピーチの後に行われた質疑応答の全文も是非あわせてお読みください。
つづきは→ 外国特派員協会での翁長知事スピーチと質疑応答(全文)Vol.2

批評.COM  篠原章
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