政府の「暴力」、基地反対運動の「暴力」—正当性の所在(1/2)

【基地反対運動の「暴力」は 正当化されるか?】

辺野古や高江では、抗議運動と機動隊が「対峙」する事態が繰り返し起こっています。これまで、暴力行為・道交法違反・器物損壊などの容疑で、抗議運動から計20数名の逮捕者が出ています。

全国各地から多数の機動隊員が動員されたことや、辺野古や高江で抗議運動を規制したことも事実です。現場では感情が昂ぶることもありますから、機動隊に行き過ぎた行為があったかもしれません。

運動を展開するグループは「非暴力」を掲げていますが、工事車両の通行妨害や工事現場での作業妨害といった違法性の強い実力行動が、力と力の衝突を招くことは避けられず、何らかの法令違反による拘束・逮捕や怪我といった「副作用」は避けられませんし、そうしたリスクを予め覚悟していなければなりません。

ところが、「副作用」が発生すると、抗議運動の側は、機動隊による規制を「国家権力による弾圧」「国家権力による暴力装置の発動」と見なし、「なりふり構わぬ安倍政権の強権的な対応」を批判しながら、「政府による圧倒的な暴力に対して、我々は抵抗する権利がある」という主張を繰り返します。これは「殴られたから殴り返す」という論理です。彼ら曰く、高江のヘリパッド移設工事や辺野古の埋め立て工事は、「民意を踏みにじる暴力」そのものだ。したがって我々には、実力で工事を阻止する抵抗権がある、というわけです。こうした抵抗権を、機動隊という圧倒的・直接的な「暴力」によってさらに弾圧しようとする政府の行動は「暴挙」以外のなにものでもなくなります。

このような非難の根底には、警察や自衛隊を「暴力装置」を見なす考え方があります。辺野古や高江では、機動隊という「暴力装置」が発動されている以上、それに対抗する運動の側の「暴力」も肯定されてしかるべきという論理も見え隠れしています。抗議運動の側の違法行為を指摘すると、政府の側の圧倒的な「暴力」は放置して良いのかという反論が返ってきます。

警察や軍隊を暴力装置と見なす考え方自体は、社会学(古くは国家学)の領域において、あたりまえのごとく普及しています。ただしこの場合、法秩序・社会秩序や平和を維持するために国家が有する「正当的な暴力(装置)」(警察・軍隊)が想定されています。もちろん、こうした「暴力」の発動も法に基づいて行われています。警察や自衛隊といえども、法に基づかない無制限の暴力まで認められてるわけではありません。つまり、警察や軍隊の暴力は、暴力団による違法行為としての私的な暴力とは根本的に異なります。同じ「暴力」という表現を用いられているものの、公権力の「暴力」と私的な「暴力」とは、正当性がまるで違うということです。ちなみに、現代における民主国家の正当性は、民主主義的な政治制度によって保障されていますから、民主国家の「暴力装置」は、国民によって承認されていることにもなります。

したがって、辺野古や高江での抗議活動を機動隊が規制する権限(暴力装置の発動)も、民主主義と法秩序によって与えられていることになります。規制される運動の側は、これを「機動隊という圧倒的な暴力による不当な弾圧」と批判しますが、機動隊の行為は法秩序を逸脱していません。機動隊が、特定の権力者の意向を受けて不法・無法に運動を規制しているならば、そうした批判も免れないでしょうが、日本の警察を「権力の先兵」と見なす証拠を見いだすのは困難です。抗議運動の構成員に法を犯した事実があれば、警察は逮捕権を行使できますが、それは非道なことではありません。あくまでも法の範囲内です。運動の側からは「機動隊の規制は表現の自由を犯す」という声も聞こえてきますが、表現の自由も法の範囲内でしか認められません。

「とんでもない、機動隊は過剰に規制している。職権乱用だ」という主張があることも承知しています。先に触れたように、現場で興奮した機動隊員が参加者に対して威圧的な態度に出ることはあったでしょう。しかしながら、現場での度重なる取材経験からいえば、機動隊員は、工事車両や一般車両を無事に通行させ、工事を滞りなく進めるための通常の規制を行っていたにすぎません。運動の側は、通路を塞ぐよう座り込みをしている活動参加者をごぼう抜きする(排除する)ことは「表現の自由の侵犯」であるといいますが、公務を帯びた車両や一般車両に対する通行妨害を規制し、規制に従わない者を逮捕・拘束することが、どうして「表現の自由の侵犯」といえるのでしょうか。しかも、座り込みだけで逮捕された人はいません。集会に参加しただけで逮捕された人もいません。座り込みや集会参加あるいはデモ行進が通行妨害や業務妨害であっても、即座に逮捕されるケースはまずありません。逮捕者の容疑は、通常の表現活動を逸脱して確信犯的に違法行為を行ったケースだけです。むしろ「警察の対応は甘い」という声も聞こえてきたほどです。活動参加者の車を公道上の空きスペースまで誘導したり、側溝にはまった活動参加者の車の引き上げを手伝ったりする機動隊員もいましたが、端から見ていると「ここまでやるか」と思えるような柔らかい対応でした。「強権的な機動隊」というイメージとはほど遠い実態です。

運動の側は、公道での車両の通行妨害や工事現場での作業妨害もすべて黙認せよ、と要求したいのでしょうか? 法に反しても「規制しない」状態を求めているのでしょうか?そうなって初めて「表現の自由は守られた」といえると考えているのでしょうか?

このような問いを発すると、おそらく次のような反応が返ってくることでしょう。「いやいや、現場での規制だけを〈暴力〉だと考えているわけではない。普天間飛行場の辺野古移設(彼らの言葉でいう「新基地建設」)や高江のヘリパッド建設が、そもそも民意に反して行われているからこそ、国の一連の行動を〈暴力〉と批判しているのだ。機動隊の過剰警備はその延長線上にある問題だ」

私自身は辺野古移設には懐疑的です。理由はいくつかありますが、少なくとも辺野古が沖縄における基地縮小のベストアンサーだとは思っていません。一方で、国の行動が「暴挙である」とか「暴力的である」などと思ったこともありません。辺野古移設が違法な手続きを経て決定された事業ではないと考えているからです。(続く)

(政府の「暴力」、抗議運動の「暴力」—正当性の所在(2/2)につづく)

批評.COM  篠原章
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket