知名定男、喜納昌吉、照屋林賢の歴史的共演

林賢、昌吉、知子、定男

左から林賢、昌吉、知子、定男

知名定男、喜納昌吉、照屋林賢が共演するという話を聴いても俄に信じられなかった。3人が同じステージに立つ日のことなど考えたこともなかった。縁起でもない話で恐縮だが、3人のうち誰かが亡くなって追悼ライブが行われたとしても、他の2人が同じステージに立つことはないと密かに予想していた。林賢とは親しい間柄だが、知名定男や喜納昌吉にインタビューしたこともある。そうした経験知からいって、共演などまずありえない話だと信じていた。

3人とも独自の音楽を構築して沖縄大衆音楽の世界で頂点に立ち、一家を成したアーティストである。民謡大家の父(知名定繁・喜納昌永・照屋林助)をもつという共通点もあるが、米軍占領下にあった島の中での成功に留まった父の世代とは違って、彼らは全国区のアーティストとして活躍している。海外にも少なからぬファンがいる。「だが」というべきか「だからこ そ」というべきか、3人は「絶対に交わらない3星(ミーチブシ)」といわれてきた。

同じ仕事に取り組む者同士は、時としてライバルとなって対立する。熱心であればあるほど、才に恵まれれば恵まれるほど、そのライバル関係は激しさを増すのが常である。3人の場合、そもそも父同士がライバルだった。協調することもあったが、狭い沖縄民謡界のこと、対立することも珍しくなかった。

彼らが育ったコザは“基地の街”として有名だが、それがなければ凡庸で退屈な田舎町である。そのちっぽけな田舎町で、彼らはライバル同士だった父の背中を見ながら少年時代を過ごしてきた。たまたま3人とも天賦の才に恵まれていた。親しく交わる時期もあったが、やがてお互いをライバル視するようになった。

最年長の定男(1945年生まれ)は、沖縄民謡界の大御所的存在である登川誠仁の弟子として少年時代から知られた存在で、大ヒット民謡「うんじゅが情ど頼まりる」(71年)の作者として、70年代初めの沖縄では押しも押されぬ存在になっていた。

が、本土の音楽シーンで最初に評判になったのは、定男よりも若い昌吉(48年生まれ)だった。“チャンプルーズ”を率いて録音した「ハイサイおじさん」(本土リリースは1977年)は、“初の本格的な日本のルーツ・ロック”(民族性や地域性に根ざしたロック)としてロック雑誌やポップ雑誌の扉を飾った。細野晴臣、久保田麻琴、ライ・クーダーなどといった内外のミュージシャンや音楽関係者にも高く評価され、「すべての人に心の花を」(「花」)(80年)という名曲も残した。今様にいえば、日本発ワールド・ミュージックのハシリだった。

昌吉につづいて定男もレゲエをモチーフとした「バイバイ沖縄」(78年)で本土デビューを果たしたが、ビジネス的な成功は収めなかった。本土のロック・ミュージシャンでもレゲエの導入に躊躇していた時代だったから、早すぎた試みだったといえる。が、これは定男にとってまさに才気煥発の瞬間だった。

生まれ年からいえば順当だが、いちばんの遅咲きは林賢(49年生まれ)である。父・林助への反発からか沖縄民謡を敬遠して18才で上京。ベーシスト、ギタリストとしてキャバレーなどのハコバンを長く経験するも、沖縄の血が騒ぎ出して7年後に帰郷するにいたる。三線を学び直して新しい沖縄ポップを確立しようと “りんけんバンド” を結成。最初はまったく売れなかったが、沖縄一番の芸能グループとして知られた「糸満ヤカラーズ」の看板娘・上原知子をボーカリストに迎えてから頭角を現し、地場ビールであるオリオン ビールのCMソング「ありがとう」「乾杯さびら」が評判になって、本土デビューを果たしたのは90年のことだった。折からのワールド・ミュージック・ブームにも背中を押され、新しい沖縄ポップの旗手として全国区で活躍するようになった。

りんけんバンドとほぼ同時期に、定男が全面プロデュースする女性コーラスグループ“ネーネーズ”も本土で高く評価された。こうした流れと歩調を合わせるように、昌吉も政治的なメッセージも掲げて精力的な活動を再開し、90年代初頭には、日本ポピュラー音楽史上初の沖縄ポップブームが到来した。THE BOOMの「島唄」が大ヒットした背景にはまちがいなくこの3人の活躍がある。もっといえば、BEGIN(ビギン)、MONGOL800(モンパチ)、 ORANGE RANGE(オレンジレンジ)、HY(エイチワイ)などが爆発的な人気を得るようになった土台も定男、昌吉、林賢の3人によって築かれたといっていい。亡 くなったどんと(ボ・ガンボス)も3人の偉大さを称えたし、現在民謡界の最先端で活躍する新良幸人、大島保克、よなは徹なども、この3人がいなければ浮上しなかったはずだ。

父の時代から、三家の対立は深刻だったという話もある。詳細を書くのは憚られるが、漁夫の利を得ようとアンダーグラウンドな勢力や政治家が暗躍することもあったという。実は似たようなエピソードは、60〜70年代まで、東京だろうが大阪だろうが、それこそ日本中に転がっていた。音楽芸能という狭い社会で生き残るための熾烈な闘争が繰り返されていたのである。日本本土よりもはるかに小さな島社会である沖縄ならなおさらのことであった。

もともと個性が強く、確立された音楽観をもつ3人である。その3人が3人とも人気者になった。一般のファンだけでなく、音楽業界内の、いわゆる玄人筋の評価も高い。ライバル意識は激しさを増す一方だったのだろう。今にして思えば、多くが誤解に基づく素朴で感情的な対立だったが、周囲が煽ることによって事態はますます悪化し、解けない糸になった。琉球フェス ティバルなどの大型イベントでは、誰がトリをとるかが大問題になって、三者のそろい踏みはついぞ実現しなかった。誰かがあるライブやフェスに出演すれば、 他の2人は出演しないというのも当たり前になった。3人の音楽を同時に楽しむ音楽ファンは多かったが、3人が同じステージに立つのはありえないこと、夢のまた夢となっていった。

こうした対立を本気で心配する男がいた。南こうせつ(49年生まれ)である。

「ぼくたちは根っ子の見えない場所で音楽をやっている。だから、根っ子を見つけながら音楽に取り組んでいる。でも沖縄は違うじゃないか。根っ子が見える。そこが羨ましいと思ってるんです。過去はいろいろあっただろうけど、ぼくたちからすれば羨ましいそんな環境のなかで、最も才能ある3人が喧嘩している場合じゃないだろうと、声をかけたんです」

終演後の酒席だが、こうせつが真剣な目をして語った言葉である。

こうせつはぼくにとって最も遠い存在である。かぐや姫時代の大ヒット「神田川」(73年)や「夢一夜」(78年)もくちずさめるし、こうせつがDJを務めたオールナイトニッポンもよく聴いていた。70年代前半のいわゆる「ニューミュージック」と括られる時期にエポックを築いたシンガー&ソングライターである。だが、当時のぼくは、すでに自分のフィールドを ロックやワールド・ミュージックに限定していたので、こうせつは守備範囲外のアーティストだった。取材や原稿で積極的に触れたこともあまりない。だから、80年代以降、こうせつが知名定男、喜納昌吉、照屋林賢と交流を結んでいたことも知らなかった。まして、沖縄音楽を、先の発言のようなスタンスで評価していることなど知る由もなかった。

こうせつはひと肌脱いだ。おそらく本気で3人の関係を正常化したいと願っていたはずである。そこには打算も計算もない。素直に「沖縄音楽にとってよくないこと、本人たちにとってもよくないこと」と考えたのだろう。思いついたとしても、行動に移すのは容易ではない。だが、こうせつは本気だった。

3人と連絡を取り、沖縄に飛んで食事会を開いた。酒が進むうちに3人は打ち解け、「一緒にやってみようか」となった。何か特別な細工をしたわけではない。こうせつの誠実さと熱意に動かされたのである。

3人の共演は「LIVEコザ2011 三線 SAMURAI 〜島うた40年史〜」と題されて2011年12月1日(木)に開催された。彼らが育ったコザでのライブである。「島うた40年史」が適切なサブタイトルかどうかわからないが、画期的なライブであることは間違いない。会場である “沖縄市民小劇場あしびな〜” は、コザ(沖縄市)のチャンプルー文化(アメリカと沖縄と日本がごちゃ混ぜになったポップカルチャー)を振興するため、97年に沖縄市が開設した小ホールである。ちなみにロビーにはチャン プルー文化の言い出しっぺである照屋林助(林賢の父)の肖像写真が掲げられている。

立見を含めて320名余り、会場は満杯だった。皆、この特別なライブにそれぞれが期待と不安を抱きながら足を運んだにちがいない。本土からわざわざ駆けつけたファンもいたが、大半は沖縄在住の人たちだ。

客席には、BEGIN(比嘉栄昇、島袋優、上地等)、宮沢和史(THE BOOM〜正確には撮影スタッフとして参加)、大城クラウディア、大島保克、よはな徹、奈須重樹(やちむん〜正確には撮影スタッフとして参加)などミュージシャンのほか、名嘉睦稔(版画家)や新城和博(編集者・ライター)などの姿もあった。

19時40分。司会進行を担当する南こうせつがまずステージに登場した。スクリーンには、定男の父・知名定繁、昌吉の父・喜納昌永、林賢の父・照屋林助の写真が映し出されている。「島うた40年史」というサブタイトルを意識してのことだろう。「40年」とは復帰40年を意味している。

「何度も危機を乗り越えてどうにかこうにか本日を迎えました。けれども、最後までまだわかりませんよ。みなさん、ぼくを応援して下さい」

軽妙な調子だったが、客席にこうせつの思いは伝わった。

定男、昌吉、林賢が呼び込まれ、3巨星はステージに並んだ。誰もこんな光景は見たこともなかったから、ステージに注がれる目線は熱い。割れるような拍手と歓声が3人を迎えた。観客は、新しい、開かれた時代の到来への期待をこめて、ここにやって来たのである。

ステージ上の3人はまだぎこちない。“喧嘩ばかりしている小学生が先生に呼び出されて説教されている図”とまでいうと言い過ぎか。こうせつが「なぜ仲が悪いんですか?」と問うと、3人は「別に仲は悪くないですよ」と口をそろえる。が、こうせつがさらに突っこむと、「性格の不一致」(昌吉)、「ウマが合わないだけ」(定男)という答えが返ってきた。その瞬間、はらはらしながら見守っていた観客が一斉に笑った。

こうした短いトークの後、いよいよ林賢のステージが始まった。出番は年齢順(若い順)と決まっている。もちろん、歌はりんけんバンドの歌姫で林賢夫人である上原知子、キーボードは同じくりんけんバンドの山川清仁。「三線SAMURAI」と題されているが、林賢は三線の師匠だった知名定男に遠慮してか、三線を弾いたのは最初の「肝にかかてぃ」だけ。「織りなす日々」「小夏」ではギター、民謡「多幸山」「唐船どーい」では知子が文字どおり歌・三線で、林賢は太鼓に廻った。最後の「黄金三星」では、なんと三線を 定男が弾き、林賢は自ら考案した三弦楽器・チェレンを弾いた。ステージはふだんのりんけんバンドと同様、当代随一のボーカリスト・知子の熱唱に引っ張られるかたちで進む。知子なくして林賢なし、林賢なくして知子なし。二人三脚が生みだす独自のポップ。伝統を尊重しながらこれだけ深みのあるポップを創った例を他に知らない。時間通り終わったところは林賢の誠実さの現れである。

セッティングのあいだ、林賢とこうせつのトーク。林賢はまだ緊張しているのか、少しばかりちぐはぐである。そこがまた微笑ましい。はからずもこのライブの意義を教えてくれる。「では、喜納昌吉」と林賢が紹介すると、昌吉(歌・三線・ギター)はなんとフルセットを従えて登場。妹の啓子(コーラス)と幸子(コーラス・パーカッション)、石岡裕(キーボード)、 高橋利克(パーカッション)、亀田隆(ベース)、下地孝典(ギター)という編成。当初の申し合わせは「最小の編成で」ということだったらしいが、昌吉は禁則破りだ。これがまたファンにとっての昌吉の魅力なのだろう。演目は「ハイサイおじさん」「東崎」「金網のない島」「花」「火神」の5曲。歌は明らかに進化していた。参院議員として民主党県連を率いてきた男だとはとても思えない。政治の世界の生臭さが、昌吉の才能を奪わなかったことに感謝。いまだに「歌というより叫びだ」とその歌唱を批判する向きもあるが、今回「叫び」は抑え気味で、ソウルフルという形容がぴったり。とくに「東崎」は圧巻だった。MCの政治性は相変わらず強いが、今日は明らかに遠慮して言葉数は少ない。

昌吉にコールされて、最後に現れたのは定男である。三線一本で勝負する姿が凛々しい。この姿を見れば、「俺が島うただ」と公言しても誰も異議を唱えないだろう。民謡定番の「はんた原」「山ぬ端に越地」「恨みの嵐」と、オリジナル「うんじゅが情けど頼ぬまれる」「情念」の計5曲、会場を唸らせる。どちらかといえば、三線の技巧を重視した作品が多い。いわゆる ターチバンチ(二音弾き)やサグ(中指を素早く打ちつける奏法)を多用する楽曲である。今回の出演者のうち、唯一ライブのタイトル「三線SAMURAI」に沿った実演を見せたアーティストだったことになる。その技巧は贔屓目に見なくとも、相変わらず沖縄ナンバーワン。渋みと深みのある歌声も健在。若い世代に追随できる歌手は依然としていない。オリジナルなポップにも力を注ぐ新良幸人、独特の存在感がある大島保克、素直な歌唱に定評のあるよなは徹などの後継者たちも、定男と同じ道を歩んだら完敗することはよく知っている。そこが民謡界の泣き所でもある。定男を筆頭に先輩が上手すぎるのだ。

定男のステージが終わると、こうせつがあらためて呼び出され、ギターを抱えて大ヒット「神田川」を歌う。宮沢和史やBEGINなども客席からコーラスで参加して、観客は思わぬ贈り物に惜しみない拍手で応えた。こうせつさん、ご苦労様。

最後の出し物は、誰もがいちばん注目していた3人によるセッション。そんなこと成り立つのか、という不安をよそに、3人がステージに登場。知名定繁作詞・照屋林助作曲の大ヒット民謡「ジントーヨーワルツ」、林助作詞・喜納昌永作曲の「裏座小」などを淡々と演奏。これが「島うた40年史」の意味だったのか。

カチャーシー(「唐船どーい」)で盛り上がってセッションは無事終了。大きな拍手のなか昌吉が「今まで男だから問題があった。誰かが女になればいい」と軽口を叩くと、「君が女になれ」と定男が切り返し、会場は笑いの渦に包まれた。

そしてアンコール。だが、曲目がなかなか決まらな い。業を煮やした定男が「コラボというよりバトルだから、3人が別々にやればいい」と発言して決着。三者三様、それぞれが持ち歌を披露して大団円。上原知子(&林賢)がアンコールの「トリ」を務めることになった。知子の歌には、「3人ともまるで子どもみたい。大切なのは歌じゃないの」という “大人の” メッセージがこめられているような気がした。昌吉の「女だったら」という発言がはからずも証明されたかっこうだ。

そもそも3人とも方法論が違う。定男は民謡という伝統をどうやって残すかについて心血を注いできた。他の追随を許さない三線の技術、星の数ほどもある民謡に対する深い知識、伝統に則った豊かな表現力(歌唱)は、沖縄音楽の本流を代表するにふさわしい。昌吉は伝統という枠を壊しながら、沖縄の音楽を再生する道を究めようとしてきた。ロックやレゲエが示した “魂” を人間力と捉え、それを沖縄の音楽としてかたちにすることに成功している。政治性の強さが彼の音楽を見えにくくしているが、「根っからの音楽家」という昌吉の本質を見失ってはいけない。林賢は、民謡を足場としながら、そこからいかに自由に飛翔するかを探求してきた。傑出したメロディ・メイカーだが、現代歌謡や現代ポップに取り込まれることを潔しとせず、沖縄の歴史と風土を徹底的に尊重してきた。その姿勢が逆に、林賢ポップの音楽芸能としての世界性・ 普遍性を示す結果となっている。

それぞれが切磋琢磨しながら独自の世界を築き、一家を成し、高く評価されているのだから、今となっては敵対する理由も競合する理由もない。このまま独自の道を歩んで、後輩たちに質感の高い音楽を示していくことが、沖縄音楽に対する貢献となり、日本や世界の音楽に対する貢献となる。今回のライブを通じて、おそらく3人ともそのことを痛切に感じたはずである。それが最大の収穫であって、再び共演があるかどうかは本質的な問題ではない。

終演後の打ち上げは打ち解けた楽しい会合だった。3人を囲んでBEGINがいる、大島保克がいる、よなは徹がいる。二次会は古手の民謡酒場として名高い、民謡界のプリンスこと神谷幸一が経営する「花ぬ島」。林賢自ら司会役を買って出て、定男、BEGIN、保克、徹、こうせつ、「花ぬ島」の歌姫でりんけんバンドにも在籍したことのある玉城一美がステージ上で入り乱れての “スーパーセッション” 、宴は朝4時過ぎまでつづいた。

山ほどの問題を抱えた沖縄という島々で、少なくとも音楽だけは自由であってほしい。それぞれが描いた夢はいつかかたちになってほしい。

期待は沖縄の時間のようにゆったりと膨らんでいく。

※ステージ写真撮影は奈須重樹(左から林賢、昌吉、知子、定男)。他は篠原章撮影(説明省略)。

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批評.COM  篠原章
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