正統的な不条理劇だったNHK連ドラ『純と愛』

定時に出勤する、といった習慣が失われて2年ほど経った。そのかわり、NHK朝の連ドラを見るという、ぼくの人生にこれまでなかった新しい習慣が生まれた。『カーネーション』(2011年後期)以降、旅行中の期間を除いてほとんど見逃したことはない。

なぜ朝の連ドラを見るのか。それは習慣だからというほかないのだが、ドラマらしいドラマがテレビからほとんど消滅する一方、韓国産のドラマがテレビ界の主流になっている「現在」に少しでも近づきたいという「好奇心」はあったかもしれない。楽しみといえば楽しみだが、ぼくの人生から連ドラが消えても、ほとんど困らないだろうな、とも思う。

連ドラを積極的に批評してみたいと思ったことはないが、備忘録的なことを少しだけ書き記しておきたい。というのも、3月30日に終わったばかりの『純と愛』に対して、ネット上では批判のほうが優勢だからだ。かんたんにいえば、ちょっと『純と愛』に味方しておきたくなったのである。

『家政婦のミタ』で旋風を巻き起こした遊川和彦の脚本が評判を呼んで期待されたが、「実験的にすぎる」とか「朝から暗くなる」とか「意図が見えない」といった批判が殺到したという。

ここでは、そのストーリーを追いつつ、批評らしきもの(メモみたいなモノで恐縮ですが)を書きつけておきたい。

宮古島出身の狩野純(夏菜)が、「“まほうのくに”のようなホテルをつくるために社長になりたい」というひと言で採用してもらった大阪の老舗ホテルで奮闘しながら、「人の心を読める」青年・待田イトシ (「愛」と書いてイトシと読むが、ここでは紛らわしいのでイトシで統一/演ずるのはジャニーズJr.の風間俊介)に出会い、恋に落ち、結婚するという最初 のストーリー展開は「ありがち」だ。自分の利害よりも人の幸福を願う夏菜の過剰な反応も、ちょっとしたファンタジーとして微笑ましく見ることができた。イ トシの読心術と、イトシの母で敏腕弁護士の待田多恵子(若村麻由美)の非情でエキセントリックな性格がドラマのスパイスにもなって、ドキドキワクワクする 場面もきちんと演出されていたように思う。そこで描かれる「ホテルの仕事」そのものは、大仰なセットにもかかわらず、大したリアリティがみられないという欠点はあったが、老舗ホテルの社長・大先真一郎(舘ひろし)のダメ社長ぶりと外資に買収されていくプロセスはなかなかの見ものだった。“ホテルを愛する”従業員がみんなで頑張って、経営の苦境を救おうと決意した途端、当のホテルは呆気なく買収されてしまうのである。素晴らしい!愛なんかでホテルは救えっこない。まさにリアルな現実だ。

純の実家である宮古島の流行らないホテルを経営する純の父・狩野善行を演ずる武田鉄矢の悪役ぶりも驚くほどリアル。見ていて腹の立つほど。大阪出身で宮古島に馴染めない善行は、家族の猛反対を押し切ってホ テルを売却し、大阪に移って起死回生をはかろうとするのだが、売却先の裏切りや妻・晴海(森下愛子)の認知症に直面する。ちょっと前まで善行に腹を立てていたのに、今度は「お〜い、がんばれや」と画面に向かって声をかけたりしている。もちろん、その声が届いたわけじゃないが、善行は自分の生き方を見直そうと決意する。ちょっといい感じじゃん、と思い始めた矢先、善行は大阪湾で水死してしまうのである。認知症の晴海を助けようと海に飛びこんだあげくの事故死だが、「参った!」「なんてこった!」という驚きは新鮮といえば新鮮。大向こうから「ゆかわや〜!」という声が聞こえてくる。

幸福の糸をつかんだとたん、その糸が切れてしまうというエピソードの連続である。だからこそ「朝の連ドラとして相応しくない」という批判も山ほど寄せられたわけだが、このドラマからは「愛は世界を救わない、でも人は皆愛に飢えている」という隠しテーマがひしひしと伝わってくる。それはそれでいいわけさ。蛇足だが、登場するほとんどすべての「男」がダメ人間というところもいい。これもまたほぼ的確な現状把握だもんね。

が、この後ドラマが迷走して見えたことは否めない。この点はちゃんと指摘しておきましょう。ストーリーは、外資買収をきっかけにホテルを辞めた純が、大阪市大正区にある「里や」という民宿(というかドヤ=簡易宿泊所といったほうが適切かも)で、24時間コンシェルジェというサービスを始めるという展開に移行する(厳密には父・善行の“生前から”里や勤務は 始まっているが)。

デフォルトの「里や」の設定は、(パクリではないが)明らかに中江裕司監督『ホテル・ハイビスカス』(2002年)を意識したもの。宿の女主人・上原サトは沖縄出身という設定で、演ずるのは『ホテル・ハ イビスカス』の主演女優・余貴美子。しかも、「里や」があるとされる大正区は沖縄から移住した沖縄人が多い地域。「里や」の食堂メニューにも沖縄料理が並ぶ。愛が宮古島出身ということはまだいいとしても、「なんで高級ホテルの次の勤務先が大阪の沖縄民宿になるんだよ」という不満は大いに残る。そりゃ、大阪と沖縄のあいだには近代史的に切っても切れない縁がある。“公務員帝国”という点でも沖縄が1位、大阪は2位(拙稿『新潮45』(2012年6月号)所収【再掲】特集:復帰40年『沖縄の不都合な真実』「補助金要求の名人たちが作る“公務員の帝国”」参照)。しかしですよ、そこまで沖縄に拘る必要があるのか。

でも、文句はいうまい。次なる展開に期待しようじゃないか、ということで我慢して見続けた。

純がしでかすことは老舗ホテル勤務の時と基本的に変わらない。里やの客に対する愛情が満載である。純は客に裏切られつつ最終的に「愛」を共有する。「コンシェルジェ」と自称しつつ、そこにはビジネスとしての要素はほとんどない。純はサトの放漫経営に腹を立てるが、純の行動もビジネスの規律をはみ出している。「客と愛を共有しつつビジネスを成り立たせたい」というのが純の考える落としどころなのだろうが、その「理想」は、純が手を差し伸べた客の失火による里やの全焼で文字どおり灰燼に帰す。元気だった純も 「もう終わり」という気分に陥る。

ここまでくると、ハラハラドキドキというより、完全な閉塞状態。希望もへったくれもない。おそらくこの時点で七転び八起きの話を期待していた視聴者の苛立ちは頂点に達したに違いない。前に進む気がしなくなってしまう。同じ迷路をひたすらぐるぐる廻っているというべきか。

が、終盤(23週〜26週)に入ると、純は立ち直り、宮古島に帰って自ら新しい「まほうのくに」=ホテルを創ろうと決意する。ところが、オープンの目処がついた途端、今度は伴侶である愛(紛らわしいな あ)の脳腫瘍(イトシの読心術という超能力の発生源か)が発覚し、術後、植物状態に陥る。ホテルも台風に見舞われ、またまた一から出直し。母・晴海の認知症も、娘・純が認識できないほど悪化してしまった。まさに「……」である。しかも、今まで支えてくれたイトシも眠ったまま。言葉を失うような不幸。一瞬 「イトシの目覚め」が暗示される描写もあったが、結局、イトシはベッドに横たわるだけだった。

そこで純は、認知症の晴海とのやり取りを通じて、イトシの目覚めは期待せずに、しかし前向きに生きていこうと決意したところでドラマは大団円を迎える。大方の視聴者は、「イトシの目覚め」でのハッピーエン ディングを期待したと思うが、そこは「愛は否定されるもの、でも愛は誰もが求めるもの」という遊川和彦の理念?が徹頭徹尾貫かれたというわけだ。期待は裏切られた。

番組のエンディングでは、「まほうのくに」と題して、実際にホテルなどで働く人々からNHKに寄せられた写真が毎回映しだされる「オキマリ」があるが、最終回は「沖縄県宮古島市 社長 待田純さん」として、修復されたホテルで働く純の写真が映しだされる。その写真を見て「純は復活して頑張ってるんだ!」と視聴者は初めて安堵する仕掛けになっている。心憎い演出といえばたしかにそうなのだが、「愛は勝てるのか」というテーマが視聴者の心に永遠に刻まれて終わることも意味する。

たしかに疲れるドラマで、「ぼくたちはいつまでたっても迷路から抜け出せない」という、ちょっとばかりイヤな後味が残されるが、「だからなんなんだよ。文句あっか」と遊川和彦には居直る権利がある。

そう。『純と愛』はけっこう正統的な不条理劇だったのだ。「愛は世界を救わない、でも人は皆愛に飢えている」「愛は否定されるもの、でも愛は誰もが求めるもの」という真理が隠されたドラマだ。一見、甘々の 脚本、ゆるゆるの演出に見えるときもあるが、見る者に休息や安堵すら与えない。その意味で、実験的というよりも、挑戦的なドラマだったが、半年の長丁場にわたってその路線を守りつづけた遊川和彦とスタッフにはやはり敬意を表しておきたいな、と思う。

遊川和彦自身は、<ひとりでも多くの人が、「純ちゃんと愛くんが今日もこの世界のどこかで必死で戦っている。よっしゃ、自分も頑張らな」なんて思ってくれたらなあ…>という模範的なコメントをNHKの番組サイトに寄せているが、この作品を見るかぎり、遊川はエンターテインメントという舞台、あるいはポップという表現手法の中にとんでもない毒をにじませている。

役者についていえば、夏菜と風間俊介もよく耐えたなと思うが、やはり武田鉄矢、若村麻由美、舘ひろしの芝居が印象に残った。とくに若村麻由美の演ずる非情な美人弁護士に痺れた。途中から「いい人」になってしまったが…。「冷たいままの女でいてくれよ」という声が心の奥に響く。

wakamuramayumi

遊川批判や「『純と愛』批判」の声が大きいので、すっかりドラマの味方をしてしまったが、連ドラでは二度と同じものはもう見たくない、という素直な気持ちもある(笑)。ああした緊張感の連続はゴメンだと思う。貧乏神と疫病神が一気にやってくるような場面ばかりだった。これじゃあ、七転び八起きじゃなくて七転び五起きだ。

この4月からあらたに始まった『あまちゃん』の画面を一目見て、宮藤官九郎のわかりやすいエンターテインメントにホッと一息ついてしまった。出演者のキャラもわかりやすそうだ。理念が勝っていないドラマのほうがやはり安心できることは事実。が、「遊川流」はけっこう正統的で古典的だということも忘れないようにしておこう。

※補足
主題歌はHY「いちばん近くに」。悪い歌では ないが、NHK・FM(2012年12月23日・公開生放送)、「紅白歌合戦」(12月31日)、「朝イチ」(2013年3月1日)と三回にわたり生演奏・生歌唱を聴いたかぎりでは、仲宗根泉のボーカルは最悪の状態にある。機材やスタッフサイドの問題もあるだろうが、この状態を続けているのはたんなる甘えだ。仕切り直して欲しい。

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批評.COM  篠原章
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