「政府の暴力」、「基地反対運動」の暴力 — 正当性の所在(2/2)

(「政府の暴力」、「基地反対運動」の暴力 — 正当性の所在(1/2)よりつづき)

【基地移設は「違憲」か?】

ところが、比較的最近になって「辺野古移設は違憲である」との主張が示されています。たとえば憲法学者の木村草太氏は、普天間飛行場の辺野古移設について、辺野古埋立承認取り消し訴訟時の沖縄県の主張に触れながら、『米軍基地の設置は地元自治体の自治権制限を伴う。そして、憲法92条は、自治体の組織・運営に関わる事項を「法律」で決すべき事項としている。しかし、米軍基地の設置基準や手続きを定めた法律や辺野古基地設置法は制定されていない。従って、辺野古新基地の建設は、そもそも違憲である』と述べています(2016年12月18日付沖縄タイムス)。

木村氏はここで、辺野古移設は沖縄県と名護市の自治権を制限するという暗黙の前提に立って、「違憲」を唱えています。沖縄県では翁長現知事が、名護市では稲嶺現市長が当選した時点で辺野古反対の民意が示されたと捉え、両首長が「辺野古移設は自治権を制限する」と判断すれば、「違憲状態」になると考えているのでしょう(ただし、移設に反対していない地元・辺野古区の民意はここでは酌量されていません)。木村氏のこうした解釈が「正しい」とすれば、辺野古埋め立てによる滑走路建設は違憲であり、政府の対応は、辺野古反対派が主張するように「暴挙」となります。これが暴挙であるからには、違法な実力阻止も「抵抗権」として正当化されるのかもしれません。

しかしながら、木村説が一般的であるとは限りません。木村氏のいう憲法92条は以下のとおりです。

第92条 地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。

問題は「地方自治の本旨」という文言ですが、これについては「法律でこれを定める」となっています。地方自治の本旨が何であるかについては諸説ありますが、憲法上に謳われる「法律」に該当するのは「地方自治法」です。その地方自治法には以下のように規定されています。

第一条の二  地方公共団体は、住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものとする。
2  国は、前項の規定の趣旨を達成するため、国においては国際社会における国家としての存立にかかわる事務、全国的に統一して定めることが望ましい国民の諸活動若しくは地方自治に関する基本的な準則に関する事務又は全国的な規模で若しくは全国的な視点に立つて行わなければならない施策及び事業の実施その他の国が本来果たすべき役割を重点的に担い、住民に身近な行政はできる限り地方公共団体にゆだねることを基本として、地方公共団体との間で適切に役割を分担するとともに、地方公共団体に関する制度の策定及び施策の実施に当たつて、地方公共団体の自主性及び自立性が十分に発揮されるようにしなければならない。

「国際社会における国家としての存立にかかわる事務」は国の役割とされていますが、これに沿って解釈すれば、「安保や国防は国の専管事項」ということになりますし、これまでも国や自治体はこの解釈に拠りながら、(自衛隊も米軍も含む)基地問題に向き合ってきました。だからといって、国が自治体の意思を無視することはできませんが、国は辺野古移設について、稲嶺県政(1998-2006年)、その後の仲井眞県政(2006-2014年)を通じて「県の了解は取り付けた」という姿勢で臨んでいます。つまり、すでに「地方自治」に関わる法的な問題はクリアしており、米国との条約(日米安保条約)の尊重義務(憲法98条)も負う以上、辺野古移設が既定の路線となった、というのが国の立場です。

たとえ木村氏の説が正しいとしても、辺野古移設の違憲性を裁判所の判断に仰がなくてはなりません。つまり、行政の方針を転換させるにはさらなる司法手続きが必要です。裁判では、辺野古移設が自治権を制約することも証明しなければならないでしょうが、これもまた簡単なこととは思えません。普天間飛行場の辺野古移設により国は沖縄の自治権を強化しようとしている、との見方も可能ですから、木村説はその意味でも疑問符が付きます。

先にも触れたように、私自身も辺野古移設には懐疑的ですが、だからといって「国による工事は憲法違反だから実力で阻止していい」と考えたことは一度もありません。つまり、国の行動に「暴挙」というほどの違法性を見いだすことは困難です。むしろ、SACO報告から20年以上の歳月が流れても沖縄の基地が十分縮小していない事態こそ、県民や国民の期待を裏切る状態になっているとも考えられます。

木村説についてもう一つ疑問なのは、北部訓練場の過半の返還に伴うヘリパッド移設(6箇所)との関連です。ヘリパッドの移設が、辺野古と同様、自治権を侵していると考えることはできるのでしょうか。

まず第一にこれは、基地面積を縮小するために不可欠の事業だということを頭に入れておかなければなりません。ヘリパッド移設が北部訓練場返還の条件だからです。「部分返還ではなく全面返還でなかればダメだ」と主張する人がいますが、今頃になって全面返還という方針に転換して日米の合意を形成するのはほぼ不可能です。

次に、移設元・移設先とも国有地内での移設です。国有地内のヘリパッド移設事業に「自治権を侵す違憲性」があると主張することがいったいできるのでしょうか?

さらに民意の問題も見てみましょう。地元の東村高江区は反対決議をしていますが、移設先の東村は「移設容認」の立場です。東村はオスプレイ配備反対は表明しましたが、移設そのものには反対していません。東村の隣村である国頭村安波区もヘリパッドの移設先ですが、国頭村も安波区も「反対」は表明していません。ヘリパッド移設が、県や村の選挙で争点になったこともありません。地元自治体が「反対」を打ちだしていない以上、「自治権の制約」を問題にすることは困難です。そもそもが、国有地内の小規模な造作にすぎません。自然破壊を問題視する人はいるでしょうが、違憲と判断することはできません。

以上のように考えると、東村・国頭村では、「違憲」を根拠に抗議運動を展開することはできないという結論が導かれます。そもそも「政府の行動は違憲だから違法な妨害活動も許される」などという論理が通用するかどうかも怪しいのですが、たとえその論理を認めるとしても、東村・国頭村で「違憲状態」を探しだすことは難しいでしょう。したがって、国の行動を「圧倒的な暴力による基地の押しつけ」と決めつけることもできません。

憲法と反対運動の関係に関して最終的な結論をいえば、木村説を、基地反対の論拠としたり、現場の闘争での暴力肯定に適用したりするのはきわめて難しいことになります。

もっとも、一連の抗議運動はすでに「反差別運動」の様相を呈してきています。「米軍基地を押しつけるなど日本による沖縄差別は深刻だ。沖縄差別の象徴である米軍基地を撤去することこそ差別の解消につながる」と彼らの多くが口にするようになっています。「安全保障上、沖縄に米軍基地は今ほどいらないはずなのに、日本政府と日本国民の大多数が、沖縄に米軍基地を押しつけて平然としている」というのが、その差別論の骨格です。これを受けて「本土への米軍基地引き取り運動」もすでに生まれています。

しかしながら、こうした差別論や基地引き取り論には、「日本の安全保障の未来像」という視点がほぼ欠落しています。日米同盟のあり方、東アジアの情勢分析、自衛隊のあり方、国連軍のあり方、ひいては現行憲法のあり方まで視野に入れて議論しなければ、「基地のあり方」は見えてきません。「地政学的な沖縄のポジション」というきわめて重要なテーマさえ抜け落ちています。今後、米軍の機能を自衛隊が代替する可能性や日米による沖縄の基地の共用化もスケジュールに上りつつあることも視野に入れなければなりません。トランプ大統領誕生を機に日米同盟が変質し、「日本が日本を守る」という潮流も成長することになりますから、「沖縄から基地を引き取る」ことの意味をしっかり考えておかなければなりませんが、「基地引き取り論」は「差別解消」ばかりに力を注いでいるのが現状です。「沖縄への米軍基地の偏在」が、県民や(どちらかといえば非現実的な)「琉球民族」を差別しているという主張もきわめて疑わしいと思います。なぜなら、「辺野古埋め立てによる滑走路建設」というアイデアにも、沖縄県内の利権が深く絡んできたからです。沖縄県内に根強く存在する「経済的動機」が、政府の基地の配置に関する意思決定に大きな影響を与えてきたという事実を顧みると、「沖縄差別の結果としての辺野古移設」という主張は、根本的に間違っていることになります。

以上の条件を考慮すると、国際社会における日本と周辺諸国の安全を担保するために、何が足りず、何が過剰なのかを十分議論しない限り、米軍基地引き取り論は積極的な意義を持ちえません。「沖縄から基地がなくなる」ことの財政・経済的な意味も併せて考えておく必要もあります(個人的にはこれがいちばん重要な課題です)。

いずれにせよ、違法な活動を含む「実力行動」によって得られるものはきわめて小さいと考えざるをえません。「反対」を唱えるのはけっこうですが、「法令違反」や「暴力」を伴う抗議活動によって事態が打開できると考えるのは「愚の骨頂」ですし、認めることもできません。突出した行動は解決までの時間を長引かせる効果を持つだけで、むしろ沖縄における米軍基地縮小プロセスを阻むだけだと断言してもよいでしょう。 (了)

批評.COM  篠原章
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