沖縄の若者たちへ — 一生電気を点けない心の準備はできてるか?
沖縄の社会構造分析で定評ある沖縄大学の樋口耕太郎准教授が、沖縄タイムスの連載「沖縄から貧困がなくならない本当の理由」の第7回「貧困の合理性」(2018年8月17日掲載)というコラムのなかで、以下のような実に興味深い所説を展開している。
沖縄では、物事を変える人、社会を発展させる人に対して(目に見えない、しかしはっきりとした)圧力がかかる。教室で質問するだけで、「あいつはいいカッコしている」という空気が生まれる。人間関係に敏感なウチナーンチュは、空気の変化を読み、自分の行動をすぐさま修正する。
この空気感は、日常の色々な出来事に現れる。例えば、私が教える沖縄大学では、講義が始まるまで、何十人もの学生が、暗い教室の中で電気がつくのを待っている。こんなことが週に何度もある。前に出て皆のために電気をつけると、周囲から「真面目ぶっている」と思われそうで嫌だ、というのがその理由だ。学生たちと対話を重ねるほど、彼らが周囲の意見や、目線や、批判に対して驚くほど敏感で、他人の気分を害することを何よりも恐れていることがわかる。「人の気分を害するくらいなら、何もしないほうがいい」という行動原則だ。
要するに沖縄というシマ社会のなかでは、「隣人・他人と横並び」であることが、以前と変わらぬ平穏な暮らしを続けるための最大の要件であり、それは彼らにとってきわめて合理的な行動である、というのが樋口准教授の主張のポイントである。樋口准教授はかつて「沖縄の人たちはクラクションを鳴らさない」という事例で沖縄の社会構造を分析したが、この主張もその延長線上にある。しかしながら、ぼく自身も20年間にわたって大学で教鞭をとっていたから、「電気を点けない」薄暗い教室で教員を待つ学生の姿は、よりリアルな「画像」として脳裏に焼き付けられることになった。
ぼくにも似たような経験はある。が、学生が「電気を点けない」教室で待っているとしたら、それはたんに室内照明のスイッチを押すのが面倒くさいからであり、怠惰の象徴に過ぎなかった。大方の講義には世話役的な学生が何人かおり、教室が暗ければ電気を点ける、黒板やホワイトボードが汚れていれば綺麗に拭き取る、ぐらいのことはやってくれた。教室が暗いままだったとすれば、世話役的な学生が何らかの事情で欠席したときだけだった。「目立ちたくないからスイッチを押さないのだ」などとは考えたこともなかった。
樋口准教授は続ける。
沖縄社会では、優等生になることも、成功することも、人前で誰かに優しくすることも、自分の意見を声にすることも難しい。頑張る人(ディキヤーフージー)は、周囲の空気を悪くするからだ。その環境では、あえて成功しようという動機付けが生まれず、いかに失敗を避けるかが重要な関心ごとになる。失敗を避けるために最も有効な方法が、現状維持であることは言うまでもない。
このような社会構造において、沖縄のリーダーは茨(いばら)の道である。ウチナーンチュは現状維持を好み、人から指示されることを嫌うから、上から圧力がかかると行動が鈍る。そんな意図はないのかもしれないが、仕事が停滞して、結果としてサボタージュのような状況になる。だからと言って、圧力がなければ現状維持の原則に従って本当に何も起こらない。叱責すると、「クラクションを鳴らした」リーダーが悪者になる。リーダーは成果を上げられず、同僚から疎まれ、責任ばかりをかぶることになる。それを知っているから、多くのウチナーンチュは自らリーダーになろうとは思わない。ここにも、自らの成長を遠ざける合理性が存在する。
つまり、クラクションを鳴らさない、何十年もボンカレーを食べ続ける、教室で電気を点けない、というのが沖縄県民の特性であり、沖縄社会は優等生、努力家、独創的な人財などを許容しないということだ。
今回の知事選をめぐる一連の動きを見ると、樋口准教授の所説には首肯できる点がある。
自民党沖縄県連は、早くから立候補の意思を表明してきた安里繁信氏を、あの手この手を使って撤退させるよう動いた。安里氏は、直言を辞さない独創的な経営者として沖縄経済界でも異彩を放ってきた人物だが、多くの県連幹部にとっては「目の上のコブ」あるいは「出る杭」のような存在で、「年長者を尊重しない」「年少者に威張る」「生意気だ」「無礼だ」「自分のことしか考えない」といった酷評が絶えなかった。ぼく自身も安里氏について良い評判を聞いたことがなく、「エゴイスティックな無礼者」といった人間像に捕らわれていた。
ところが、彼の書いたテキストを熟読し、その話をじっくり聴いてみると、悪評の多くが見当外れであることがわかった。安里氏は、独自の経済観・経営観に基づき冷静かつ客観的に沖縄の現状を捉えており、「悪いものは悪い」「良いものは良い」といっているにすぎなかった。内地(本土)の人間の感覚からすれば、そこにはすこぶる健全な分析と実現可能性の高い政策提言が含まれているように思われた。彼を酷評する人びとは、「自分は沖縄を変えられる」という安里氏の積極性や使命感が現状維持的な沖縄の社会経済の秩序を乱すものと畏れたのである。安里氏は「脅威」と呼べるほど過激な人物ではないが(むしろ中庸・中道である)、保守派の指導者たちの目には「秩序の破壊者」に見え、いわゆる「革新」の指導者たちの目には「保守反動の跳ね上がり」に見えた。
樋口准教授のひそみに倣ってあえて象徴的な言い方をすれば、安里氏は現状維持を指向する沖縄政界において「率先して電気を点けようとした」だけなのである。にもかかわらず、自民党県連は「安里氏だけは選びたくない」といった排除の論理をもってこれに臨んだ。結果的に安里氏は、菅義偉官房長官、二階俊博自民党幹事長などの説得を受け、8月19日、知事選からの撤退を表明したが、自民党籍のある安里氏を差し置いて、党籍のない佐喜眞淳(前)宜野湾市長を選ぶなどその選考プロセスには「問題が多い」といわざるをえない(佐喜真氏が不適任だというわけではない)。一連の選考プロセスには、「出る杭としての安里氏を選びたくない」という沖縄特有の社会構造のあり方が反映しているのかもしれないが、それがたとえ沖縄ならではの「合理的選択」であったとしても、民主主義下における「善」や「正義」の遂行者であるはずの政治家の役割を軽視しかねない判断だったと思う。
樋口准教授の所説に反論すべき点があるとすれば、20代から40代を中心とする安里氏の支持者・支援者約1万人(安里氏の政治活動の母体である「新しい沖縄を創る会」集会への参加者数)が、「電気を点けようとした安里氏」に熱烈なエールを送っていたという点である。つまり、沖縄には、「電気を点けない」ことが合理的であると考えるウチナーンチュ(沖縄人)ばかりではないということだ。率先して電気を点けたいと考える人びと(あるいは世代)が多数存在しているという事実はやはり重い。
奈須重樹率いる沖縄の音楽ユニット“やちむん”には「一生売れない心の準備はできてるか」という名曲がある。時代に取り残されそうになっている中高年の焦燥をコミカルに歌い上げた作品だ。この曲のタイトルを借りて、「電気をつけない」沖縄の若者たちにあえて問いかけたい。
「一生電気をつけない心の準備はできてるか?」
「電気をつけない」ことが合理的であるようなくすんだ世界に留まりたいのなら、それなりの覚悟が必要である。補助金依存の経済構造や低所得・貧困に甘んじ、家族や上司の理不尽な振る舞いに耐え、組織や地域の意思決定に盲目的に追従し、自分自身の心の叫びを懸命に抑え、死に物狂いで同じ場所に留まり続けよ。
そうした心の準備ができないのなら、一歩でも前に進む勇気を持て!クラクションを鳴らせ!ボンカレーを捨てよ!進んで電気を点けよ!
道のりは平坦ではないだろう。が、悲観してはいない。そう遠くない将来、沖縄は古い衣装をかなぐり捨て、新しい衣装をまとう日が来るに違いない。