「敵」はいったい誰なのか? 〜アントニオ・ネグリの「マルチチュード」〜

アントニオ・ネグリといっても外タレやアーティストではありません。イタリアで生まれ、フラ ンスに亡命した政治哲学者・社会運動家です(1933年生まれ)。たんなる学者ではありません。国際スター級といってもいい思想家です。フランス現代思想のフーコー、ドゥルーズ、ガタリと並んで、現代共産主義思想を再生するキーパースンのひとりでしょう。その大スターのネグリさんが来日して講演したのですから思想や言論に興味のある人たちにとっては左右を問わずちょっとした事件です。

 Wikipediaには、ネグリさんについて以下のように書かれています(抜粋)。

主にバールーフ・デ・スピノザの研究や、カール・マルクスの研究で知られる。マイケル・ハートとの共著『<帝国>』では、グローバリゼーションの進展に伴い出現しているこれまでとは異なる主権の形態を<帝国>と捉えた。<帝国>の特徴は、その脱中心性かつ脱領域性にあり、アメリカが現代世界で特権的地位を占めていることを認識しつつも、世界はアメリカによって支配されているといった「アメリカ帝国」論とは一線を画する理解を示している。

ヴェネト州パドヴァ生まれ。オートノミズムの指導者として知られていたが、1979年4月7日、赤い旅団によるアルド・モーロ元首相誘拐暗殺を含む多くのテロを主導した嫌疑で逮捕・起訴された。その後、事件への直接の関与や旅団との関係は無かったことが明らかになるも、1960年代から逮捕に至るまでの言論活動や過激な政治運動への影響力の責任を問われる形で有罪とされた。

裁判中の1983年、イタリア議会選挙に獄中立候補し当選。議員の不逮捕特権により釈放されるも数か月後に特権を剥奪され、直後にフランスに逃亡・亡命した。フランスで活発な研究・執筆活動を続けていたが、1997年7月1日、刑期を消化するために自主的に帰国し、監獄に収監された。その後、数年をかけて処遇が緩和され、6年後の2003年4月25日に釈放となった。

Wikipedia アントニオ・ネグリから抜粋)

書き方にあまり愛情が感じられませんね。これでは、ネグリさんの思想はほとんど浮かび上がってきません。逮捕されて、有罪判決を受けて、収監されたという事実ばかりが強調されています。ま、こんなところで突っかかってもしょうがないのですが。

それにしても、イタリアでは「過激な政治運動への影響力の責任を問われる形で有罪」なんてことがあるのでしょうか。「地震予測ができなかったから実刑判決」のお国柄だと思えば不思議ではないのですが、思想・学問・表現の自由などはどう扱われているんでしょうか?政治家の女性スキャンダルや金持ちの脱税にはずいぶん甘いのですが…。

ネグリさん自ら投獄への道を選んだというところはただただ脱帽です。比ぶべくもないのですが、ぼくも検察など司法当局と深い関係をもたざるをえなかった経験があります。けれども、「投獄への道」は選択肢にはなかった。そういう闘い方は徹底して避けました。彼の思想形成にこうしたキャリアが有名無形の影響を与え ているだろうことは想像に難くありません。

Wikipediaにはそれほど詳しく書かれていませんが、ネグリさんは、学者であると同時に「革命戦士」そのものでした。3歳のときにイタリア共産党の共同創設者だった父をファシストに殺され、以後、労働者の運動にのめりこんで独自の「労働者の自治」(アウトノミア)を唱えました。労働者の組織と解体を同時に実践し、運動体としての自律性を高めていくという、ちょっとした離れ業です。党派制を否定しつつ運動のステップアップを図ろうというわけです。逮捕・投獄は複数回に及びますが、大学教授・研究者としての大きな仕事もたくさん残しています。彼自身のキャリアだけとっても、ドラマがいくつも生まれる条件が整っていますね。

日本でもちょっとした「ドラマ」が生まれました。投獄への道を選んだおかげで、ネグリさんは5年前の2008年3月に予定した来日講演をキャンセルしなければ ならなかったのです。政府が事実上入国拒否の姿勢を示したという話が語られています(同じくWikipedia アントニオ・ネグリより)。

ぼくはネグリさんの専門家でもファンでもないのですが、必要があってここのところネグリさんの著作をときどき読んでいます。ネグリさんが来日すると知って応募した学術会議の講演会の抽選に当たってしまいま した。ぼくはもうアカデミズムとは訣別したというか、放逐された身分なので、学術会議には足を運ぶこともないだろうと思っていたのですが、何倍かの競争率のなか抽選に当たったということは、学問の世界といくらか縁が残っているということなのかもしれません。ネグリさんに質問したいこともあったので、暴風雨 が予測される中、出かけることにしました。

ネグリさんについては、「日本の脱原発運動の理論的支柱」だという人もいます。彼の提示した「マルチチュード」という概念が、脱原発運動・反原発運動のような「新しい市民運動」を包括しているからです。会場には運動に熱心な方もたくさんこられていることでしょう。ぼくはこうした運動に対して懐疑的なので、ちょっと敵地に乗り込むような気持ちで家を後にしました。まさに暴風雨覚悟です。

今回の講演は、シンポジウムの基調講演として企画されていました。タイトル、パネリストなどは以下の通りです。

シンポジウム『マルチチュードと権力 : 3.11 以降の世界』

共催:日本学術会議社会学委員会メディア・文化研究分科会;公益財団法人国際文化会館
時間:2013年4月6日(土) 1:00-4:40pm
用語:フランス語/日本語(同時通訳付き)
開会の挨拶:佐藤学(学習院大学教授)
コーディネーター・司会: 伊藤 守(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)
基調講演者:アントニオ・ネグリ氏(政治哲学者)
報告者(3名):
市田 良彦(神戸大学国際文化学研究科教授)
上野千鶴子(立命館大学大学院先端総合学術研究科特別招聘教授)
毛利嘉孝(東京藝術大学大学院音楽研究科准教授)
閉会の挨拶:吉見俊哉(東京大学教授)

幸い、個人的なつながりのある方はひとりもいません。毛利さんとはひょっとしてどこかですれ違っているかもしれない、といった程度です。ですから、思う存分批判できるわけですが、やっぱり「敵地」です。 佐藤学さんの開会の「挨拶」からして、反原発運動を賞賛し、昨年12月の自民圧勝に否定的なお話。冷や汗たらたらですね。

同時通訳の方が驚くほど優秀だったので、最初のネグリさんのレクチャは非常によく理解できました。テープ起こしのようなことはとてもできませんが、彼の議論の概要はおよそ次のようなものだったと思います。

1990年代まで、「資本」と「国家」が主導して流布した世界観は、「世界はアメリカ的幸福に近づいていくのだ」というものだった。ところが、911(WTCへの攻撃)と311(地震・津波・福島原発過酷事故)によって、まさに「文明の限界」が提示された。グローバリゼーションとテクノロジーの進展が生みだした「帝国」は、人びとをけっして幸福にしないとい うことが明らかになっている。それどころか、「帝国」はカタストロフにまっしぐらに向かっている。

「なるほど」と思うところもあります。こうした世界認識なら、多くの人が共有できるかもしれません。ぼくだって似たような世界認識をもっています。まったく同じというわけではありませんが。「資本」と「国 家」という主体の措定の仕方については相容れません。ここで難しいのは、「帝国」という概念です。これはおそらく、多国籍企業によって主導される、国民国家連合への全世界的な指向性とでもいうべきものでしょう。世界(社会)は「資本」という名の多国籍企業に支配されているというのがネグリさんの持論です。 ざっくりいえば、こうした多国籍企業の意向を受けて国民国家も国境という枠を超えた「統合」に向かっているという認識なのでしょう。EUやTPPの動きはそれに呼応していますね。 もっといえば、イスラムという求心力に裏づけられた国家連携も「帝国」の現出と相関するかもしれません。いずれにせよそうした「統合」の果てにカタストロフがあるわけです。ネグリさんの考え方をさらにたどってみましょう。

が、世界は一気に終わるわけではない。カタストロフに至る前に「カテコン」という状態が生まれる。カテコンとは、世界の終わりにブレーキをかける総体である。「カテコン」の時期に、カタストロフへ向かう道程 からポジティブに脱出する方法を私たちは考えなければならない。その方法はといえば、下からのラディカルなデモクラシーの構築である。「下からの」という のは、この場合、主体となる「マルチチュード」を指す。資本の論理に呑みこまれてしまう議会制民主主義を乗り越えるために、コモンウェルスの主体であるマルチチュードが登場して、権力を打ち立てるという筋書きである。そしていかにしてマルチチュードを身体の中に構築するかが課題となる。

いよいよ話が佳境に差しかかっている、というのはなんとなくわかるのですが、ちんぷんかんぷんになってきます。ネグリさんの理屈というのは、本を読んでもなかなかピンと来ない部分が多いのです。「カテキ ン」ならぬ「カテコン」というのは、カタストロフの直前にある一時的に踏みとどまった状態という説明です。あまり深い意味はないと思うのですが、死の直前に煌めく瞬間、あるいは最後の生の息吹が見られる瞬間といったほどの意味でしょうか。「コモンウェルス」(あるいはコモンウェルあるいはコモンズ)は公共 空間というほどの意味でしょう。が、やはり「マルチチュード」がわかりません。これはネグリさんの思想を表す最大のキーワードです。オランダ出身のスピノ ザという哲学者にヒントを得ているといいますが、スピノザ自体がかなり難しい。しかも17世紀に生きたスピノザの現代的意義を見つけるとなると、どこから 手をつけていいかもわかりません(ネグリさんにはスピノザに関する著書もあります)。身体の中にマルチチュードを構築する?なにがいいたいのでしょうか? わからないことだらけになっていきます。

帝国の力は強大である。一筋縄ではいかない。その大きな理由は、我々自身が「個人」(個人主義)という帝国の基盤を形成する捻れた思想に支配されているからだ。個人主義というのは人間の主体性・人間同士の連帯性を奪う閉ざさされた思想である。資本の論理を体現するものだ。そこで、われわれは個人性(主義)を否定し、特異性=シンギュラリティとしての多数性を創造していかなければならない。個人性から特異性へ。人間の多様性を前提にした多数性を獲得するプロセスが、マルチチュードを強化する。 帝国に拮抗し、それを打ち倒していく力になる。特異性こそ、債務を抱える人間、メディアに取り込まれる人間、恐怖に怯える人間、偽りの民主制(議会制民主主義)を信ずる人間を乗り越える鍵となるものだ。

ほとんど呪文の塊です。なかでも難しいのはシンギュラリティという概念。ただし、「個人」の否定という考え方の経路はなんとなくわかります。分権的な市場経済の担い手が個人。お互いに干渉しあわないこと を前提とした経済的単位と考えればいい。資本制の下で、人が経済的単位として振る舞うための基盤を与える概念です。競争しあい、利害に汲汲とする人間像の原点がそこにあります。「個人主義」というのは資本による搾取を可能とする人的管理の体系と考えればいいのでしょう。もっと簡単にいえば、個人主義とは 「資本」が人間同士の「絆」を無効にするためのツールです。「人と人は分断されている」からこそ、競争があり、市場における勝者と敗者が生まれ、搾取の構造が保証されるということになります。そこから脱するためのオルターナティブ(代替物)がシンギュラリティ。人間としての相互の多様性を認めあった上で自立的につながっていくというイメージでしょうか。

ネグリさんのレクチャの後、伊藤守さんの司会の下、市田良彦さん、毛利嘉孝さん、上野千鶴子さんがそれぞれネグリさんの思想に連結する報告をしました。

ネグリさんの思想を知るためにいちばん有益だったのは市田さんの話。ユルゲン・ハバーマスの「討議的民主主義」から入ったこともよかったと思いますが、国家とマルチチュードの媒介物として「市民社会」を取 り上げたのは、ネグリさんを理解する上で、大きな助けになりました。市田さんは、脱原発運動〜アベノミクスという流れを問題にした上で(脱原発運動に対して否定的な論旨に聞こえました)、巨額の財政赤字の負担配分が収奪・搾取の一形態だと規定し、財産権に手をつけなければ社会は変わらないという主張を展開 しました。ぼくには負担配分(税の配分)のシステムが収奪や搾取を実践する装置だとは思えません。現状認識としては正しいので必ずしも全否定はしませんが、市田さんが考えるようなシンプルな構図は危険だと思います。が、「財産権に手をつけなければ社会は変わらない」というのは真理です。一定の社会階層に よる既得権の体系(財産の蓄積)を、つねに振り出しに戻す(税の)システムがなければ、おそらく適正な所得再分配を伴う流動的・活性的な経済は実現しない、という考え方であればぼくとまったく同じですが。ただし、ぼくの場合は「市場経済」が前提です。

毛利さんは脱原発運動の生成過程を丹念に分析されていました。ぼくにとって新しい「知見」(知識)もありました。でも、なぜか「ロック・ミュージック」の精神論を聞かされている気分になったことも事実で す。彼の主張は、最終的には「絆」という、誰にも反対できない、かといって実体を伴わない言葉に還元される怖れがあると思います。ネグリさんは「絆」的なものを重視する傾向がありますが、ぼくは「絆」を閉塞された、それこそ閉じられた言葉だと思っています。

上野さんの議論にはかなり呆れました。彼女が、「現代の女性解放運動」の旗手だということを認めるとしても、キーワードを巧みに使って実体のない議論を展開するその手法には正直いって憤りすら感じます。女 性NPOや第三セクターがマルチチュードの実例ではないかと強調するのですが、その財政的基盤は「国家」によって制度化されたモノにすぎない。つまり、国家あるいは資本の掌の上での「女性解放」「革新運動」にすぎないことを自ら認めるような発言をしているのですが、ネグリさんも含め会場は彼女のスピーチを 「温かく」見守っているようすでした。

なぜ上野さんの甘い議論がもてはやされるのか、ぼくには理解不能です。端から「自民政権は原発推進責任政権」ということばで登場して喝采を浴びていましたが、誰もが共有認識しているようなことをあらためて 口することで「敵」を確かめつつ、実は「敵」の力を借りた成果しか挙げられていないことを認めて、最後は「暗澹たる気持ちだ」などと、駄作ドキュメンタリーの「落ち」のようなことをいっている。予想はしていましたが、やはり直接話を聞くとビックリ仰天です。日本のジェンダー論のレベルはこんなものではないと思いますが。

司会の伊藤さんのまとめ方は実に巧みなのですが、ネグリさんを平易に理解する助けにはなりませんでした。とても頭が整理された方という印象ですので、ぼくがついていけなかっただけなのかもしれません。

前後しますが、ネグリさんの講演の後、ネグリさんへの質問票をフロアから回収しました。ぼくは、伊藤さんの司会を参考にしながら、「マルチチュードとは、マルクスの階級論を乗り越えるための概念でしょうか」という質問を提出しました。

最後の全体討論の時間帯に、「ネグリさんに対してたくさんの質問をいただきましたが、ここで取り上げるのは私が独断で選んだわずかな質問に限らせていただきます」といいながら、伊藤さんはぼくの質問票を真っ先に読み上げました。

これに対するネグリさんの回答は実に感動的でした。感動的というのは、ネグリさんに同意したという意味ではありません。明確になったということです。回答は「マルチチュードは階級概念である」というもので した。マルクスの階級論との違いは、「(マルクスの想定した)労働者階級」に加えて「知的労働に従事する人びと」がこの階級の主体に加わっていることだと明言しました。これは本を読んでも簡単に理解できなかったことです。現代の知的労働者とは経済的に恵まれにくい横文字商売人+一部メディア人ということに なります。つまり、ネグリさんの主唱するのは、まさに現代における階級闘争なのです。

この点が明らかになったことはとても意義あることだと思います。ネグリさんの経済観も基本的にマルクスの枠組みを大きく踏み越えたモノではありません。たしかにバージョンアップされていますが、階級論もマ ルクスのそれを踏襲するものです。彼には明らかに「革命への意思」もあります。ネグリさんの思想体系はやはり現代マルクス主義の再生を目指したものとみて間違いないでしょう。ぼくはネグリさんを「コミュニスト」として糾弾しているのではありません。ぼくはコミュニズムに共感する市場経済主義者であり自由主 義者です(ただし、原理的市場経済信奉者ではありません)。ネグリさんには『マルクスを超えるマルクス』という著作もありますが、彼はマルクスの現代版だと思います。別の言い方をすればマルクスを超えてはいないのです。

ぼくが彼の思想に異議を唱えるとすれば、結局は「資本」を「邪」とみなし、「敵」と規定しているところです。簡単にいえば市場経済を否定しているのです。が、市場経済に代わる共生的な分配型経済システムと いうものを、ぼくは想像できません。市田さんのいうように「財産権」に手をつけることも、市場経済の否定には必ずしもつながりません。市場経済は世界に貧困をもたらしていることもたしかですが、市場経済は同時に世界に富を分配する唯一の装置でもあるのです。この両義性を克服する段階にはまだ到達していない というのがぼくの認識です。市場経済を前提に、効果的な所得再分配の手段を考えることこそ求められているのではないか。ないしは金融の肥大化を補正する手段を考えることこそ求められているのではないか。 ぼくはそう考えています。そこがネグリさんとは根本的に異なるところです。

もっといえば、「資本」の管理者が、次の瞬間、マルチチュードに転じうるという事態も想定しないかぎり、経済社会の総体は捉えられないのではないかと思います。資本家としてのビル・ゲイツやスティーヴ・ ジョブズ、あるいは孫正義が備えているいかがわしさと革新性の、その両方に注目しないかぎり、資本の運動も実態も解明できないのではないか。そういう意味です。

ネグリさんの「敵」は、やはりシンプルで古典的な意味で「資本」であり、「市場経済」です。ぼくたちはそのことを深く胸に刻んでおかなければなりません。ところが、市場経済を代替するシステムは、彼の著作 を読んでも、十分にイメージできないのです。このことは大きな問題です。

最後に、市民社会とはいったいなんなのか、あるいは日本における市民社会とはいったい何なのか、という古くて新しい問題提起に対しても、ぼくたちはまだ十分な解を用意できていないということも確認しておき たいと思います。これは、ネグリさんの問題提起よりもずっと以前からぼくたちを悩ましている問いかけですね。ネグリさんは新しい問題をぼくたちに突きつけ たのではありません。伝統的な問題提起を新しい言葉で整理したのだと思います。ネグリさんの議論は陳腐ではありません。バージョンアップには成功しているのだと思います。が、 マルクスの議論の再生産という見方で十分捉えられると思います。彼の問題提起は、日本のなかでもこれまでさんざん議論されてきた論点を多数含んでいると思 いますし、実践もありました。ベ平連など完全にマルチチュードです。

問題は、日本におけるマルチチュードが、本来持つべき「大衆の原像」をイメージし切れていないところです。知識人や知的な生産者はたしかにマルチチュードを構成しうるでしょう。しかし、伝統的な労働者はいったいどうなるのでしょうか?日本の労働組合運動は完全に破綻しています。連合など、大衆社会にとってむしろ敵対的だとぼくは思っています。ネグリさんのいうマルチチュードが存在するとしても、日本の労働運動はそれを構成するメンバーにはなれないとぼくは思っています。アベノミクスを否定しながらアベノ ミクスからの利益を見逃すまいとする卑しい集団にすぎません。

ネグリさんの主張が、日本の反原発運動の理論的支柱となり得るかどうか、実はそんな問題はあまり本質的ではありません。 ネグリさんの問題提起を通じて「大衆の原像」が見えてくるかどうか、最後に問題となるのはやはりその点だとぼくは考えています。

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批評.COM  篠原章
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