追悼・加藤康太郎(集英社)— 青臭かった談論風発

集英社の加藤康太郎が4月25日木曜日に亡くなった。49歳の早すぎる死だった。

4月22日月曜日に打ち合わせのため集英社で会ったばかりだった。翌々日24日水曜日の午後に電話をもらって短く話した。その日の夕方5時過ぎに作成中の単行本の最新版台割りがメールで送られてきた。亡くなった25日にも連絡をもらうはずだったが、届いたのは訃報だった。

月曜日に集英社8階の会議室で会ったとき、加藤は辛そうだった。十数年前に交通事故で瀕死の重傷を負い、杖なくして歩行が困難となったが、その後、肝硬変、腎臓障害、難病指定の肺高血圧症も持病として抱えるようになってしまった。文字どおり病気のデパートのような男で、年に1〜2回の入院が常態化していた。

「辛そうだね。大丈夫?」
「腰が酷く痛いんです」
「内臓系の痛みじゃないの? 病院に行ったほうがいいんじゃないの?」
「いや、筋肉とか外科的な痛みだと思うんです。座っていれば痛くないんで」

打ち合わせが終わると、神保町から錦糸町に席を変えて日が暮れるまで談論風発。傷んだ肝臓に酒は良くなかったが、「多少呑んでも数値は変わらないから、主治医からは何もいわれないんです。ぼくの肝臓は人の20倍ぐらい強いんです」などとうそぶきながら、いつものように焼酎をトマトジュースで割ってちびちびと飲んでいた。昔に比べれば酒量は3分の1から4分の1程度まで落ちていたので、ぼくも「酒はやめたほうがいい」などと諭すのは野暮だと思っていた。その日は午後6時半頃まで一緒に過ごしたが、加藤を置き去りにする恰好でぼくは家路についた。

加藤康太郎は1969年生まれ。早大法学部を卒業後、集英社に入社し、『Bart』『週刊プレイボーイ』を経て数年前からビジネス書編集部に在籍していた。『Bart』には、夏目房之介さんがイラストを描き、故・岩戸佐智夫さんがテキストを書くという連載があったが、その担当編集者が加藤だった。連載の取材時に篠原は岩戸さんに同行する機会があり、取材先のそば屋で岩戸さんから加藤を紹介されたことは憶えている。1996、97年頃のことだったように思うが、時期についてはっきりした記憶はない。当時の加藤はまだ20代だった。

密に付き合うようになったのは、加藤が「週プレ」編集部に移ってからのことだ。毎月2回ほど、加藤が担当した週プレの記事で使うコメントを提供した。おもに経済関係の出来事をネタにした記事だったが、電話取材だけのこともあれば、一席設けてくれることもあった。何について何をコメントしたのか、ほとんど憶えていない。加藤の描いたシナリオに合うようなコメントだったとは思う。

やがて仕事とはあまり関係のない呑み友達になった。加藤の酒量にはとてもついていけなかったので、正確には呑み友達というより(冒頭にも書いたように)「談論風発」をお互い大いに楽しむ関係になっていった。ひと回りほども下の加藤にとって何が面白かったのかはよくわからないが、音楽から政治経済に至るまで、幅広い素材をネタに、夜更けまで、時には明け方まで喋り続けた。加藤は、編集者なら「近代文学のエッセンスは身につけておくべき」「資本主義の本質について理解しておくべき」「ロックやパンクが生まれた背景を理解しておくべき」といった、正直いえば一時代前の(たとえば団塊の世代の)編集者の「流儀」に憧れているところがあった。「編集者の流儀」という限定を付すのは正鵠を射ていないかもしれない。むしろ「思想の流儀」とでもいうべきものだろう。

加藤が「流儀」と考えていたものは、「普遍性を備えた単一原理」が有効に見えた、1960年代から70年代末までの古き良き時代の産物だった。絶対的な価値への信仰あるいは価値絶対主義と言い換えてもいい。明治以降価値絶対主義の時代は長く続いたが、その反動で1980年代前半に生まれた価値の相対化あるいは価値相対主義もまだその延長線上にあった。価値相対化という考え方がある程度浸透すると、日本型製造業の再評価とリンクするように現場重視主義や多様化尊重主義が台頭した。だからといって、価値の絶対化、その反動としての価値の相対化への「信仰」が潰えたわけではなく、さまざまな思想の流儀が渾然一体となって、迷路のなかから進むべき道を選ばざるをえない時代が始まった。それが21世紀前半の世界ではないかとぼくは思っている。加藤は、今や陳腐化した流儀をベースに置きながら混迷の時代を楽しんでいたと思う。ぼくも自分の古めかしさを承知しつつ時代の変転を楽しんでいた。青臭い議論を際限なくつづけたが、その青臭さを二人で楽しんでいたというべきか。加藤との談論風発にはそうした意味があったと思っている。

夫人のゆみさんによれば、亡くなった日の朝はなかなか起きられず、9時半頃起床。とくに腰の痛みが酷いようすで、午後にはゆみさんと医者に行く予定だった。いったん外出したゆみさんが数時間後に帰宅すると、すでに冷たくなっていたという。警察の検視を受けた結果、〈「腎不全」が死因の可能性が高いが、肝硬変や肺高血圧症も関係している〉とのこと。満身創痍だったから、加藤もいつかまた入院するだろうと予想していたが、突然死は想定外だった。かかりつけの医者がしっかりサポートしているからそれはないだろうと思いこんでいたのである。加藤は2017年暮に「余命あと1年半から2年」と医者から告知されていたらしい。亡くなってから初めてそのことを知った。彼は告知の事実をおくびにも出さず、いつも明るく振る舞っていた。

加藤とは沖縄を題材にした本を作っている最中だった。経済社会指標などのデータから客観的に沖縄の姿を捉え直すというのがこの本の趣旨だ。今まで原稿の催促など積極的にしたこともない加藤が、昨年暮れからやたらと催促するので訝っていたが、まさか死期を告知されていたとは。加藤はこの本を最期に、俗世からおさらばするつもりだったのである。ぼくは自分の不明と怠惰を恥じた。

通夜は平成31年4月30日、告別式は令和元年5月1日(いずれも平成祭典深川会館)。加藤とぼくと一緒に仕事をしていたカメラマンの下城英悟は「昭和の権化のような編集者だった加藤さんが、平成最期の日に通夜、令和最初の日に告別式とは! あの世で加藤さんは、〈昭和も平成も令和も、俺はよぉく知っているぜ〉と豪語するに違いありません」と苦笑していた。下城英悟は加藤のバカヤローなところを実によくわかっている。加藤と週プレ時代に仕事をしていたライターのモリタタダシも「加藤は後輩にバカヤローよばわりされるほど幸せなバカヤローです」という。加藤は呆れるほどのバカヤローだったということだ。ぼくも加藤と同じくらいバカヤローである。バカヤロー同士の取るに足らぬ「談論風発」に決着をつけるには、進行中の本を仕上げるほかない。今、ぼくにできる弔いはそれだけである。

※以下の写真は、いずれも2011年4月3日に催された「岩戸佐智夫さんを偲ぶ会」でスピーチする加藤康太郎

 

批評.COM  篠原章
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