首里城ノート(2) 首里城はいったい誰のものか?(中)

承前

鎌倉芳太郎、伊東忠太による正殿解体阻止

管理維持の財源を捻出できない首里市(1921年より市制施行)は1923(大正12)年に「正殿の解体」を決定した。この報せを聞いて驚いた東京美術学校の鎌倉芳太郎(沖縄県女子師範学校元教員)は、東京帝国大学の伊東忠太(建築史の泰斗)の研究室に走り、正殿解体の中止を訴えた。鎌倉と同じく首里城を琉球建築の至宝と考えていた伊東は直ちに内務省に出向き、解体の中止と建物の保存を請願した〈1924(大正13)年3月28日または29日〉。
 
伊東が請願した先は内務省神社局だった。現代の感覚でいえば文科省(当時は文部省)に駆け込むのが普通だが、なぜ内務省神社局だったのだろうか。
 
実は明治末期から大正年間にかけて、政府は神道を国民の一体的アイデンティティ醸成のために有用なツールと位置づけ、全国各地にある神社を格付け(「社格」の指定)して再編成する一大プロジェクトを進めていた。その担当部局が内務省神社局だった。
 
明治・大正期には「文化財」という考え方はまだ希薄で、廃仏毀釈などによって破壊された寺院を復して保全し、寺社建築や寺社の所蔵する美術品・工芸品を「国宝」に指定して散逸を阻むための「古社寺保存法」が施行されているにすぎなかった〈1897(明治30)年公布〉。その古社寺保存法を管轄するのが内務省神社局だったのである。おまけに、先に触れた史蹟名勝天然記念物保存法の所管官庁も内務省だった。

沖縄神社の創建 — 県に移転した正殿所有権

ここでもう一つの疑問が生ずる。城郭である首里城がなぜ内務省神社局の所管だったのだろうか。

これには、上述した国による神道の国民教化的再編成(国家神道への国民の誘導)が関係している。国のこうした方針はむろん沖縄県にもおよび、内務省神社局による国家神道への誘導策を背景に、沖縄の在来信仰と本土の神道信仰とを習合し、県民の神社信仰を「国民のアイデンティティ」に再構成する動きが強まっていたのである(この政策自体は実質的に失敗する)。

そこで、王朝滅亡により王府からの財政支援を受けられなくなっていた琉球7社※の財政基盤を立て直して信仰の場としての力を取りもどすため、各神社を県や市町村(1921年の新市制施行によって首里区、那覇区とも市に昇格)が財政支援できる「村社」として再編成すると同時に、編制上「村社」の元締めとなる「県社」を建立する計画を立てたのであった。

※沖縄には「琉球8社」という名称で括られる主要な神社が8社ある。波之上宮、沖之宮、識名宮、天久宮、末吉宮、安里八幡宮、普天間宮、金武宮がそれである(いずれも現存)。このうち波之上宮は1890(明治23)年に「官弊社」に列格(格付け)され国からの助成金給付の対象となっていた。他方、氏子組織がなく地域との結びつきも弱い他の7社は公共機関からの奉幣(助成金)のない無格社となり、深刻な経営難に喘いでいた。

計画実現までには数年を要したが、1923(大正12)年中に、首里城正殿を解体してその跡地に「沖縄神社」(祭神は源為朝、舜天、尚泰の三注。後に尚円、尚敬を加えた五柱となる)を建立することが決まり、首里市の決議を経た後、1924(大正13)年3月には、内務省神社局の認可と補助金を得て解体工事に着手していた。つまり、当時の首里城(正殿)の命運を握っていたのは内務省神社局だったのである。

 

古社寺保存法にもとづく社寺修復の権威だった伊東忠太の要請はすぐに受け入れられ、内務省は沖縄県に対して、始められたばかりの解体工事の中止を命じた。すんでのところで首里城正殿は解体を免れたのである。土地所有権は首里市、沖縄神社の工事は沖縄県の管轄だったが、内務省の命令は絶対である。いうまでもなく戦前の内務省の力は絶大で、地方に対する補助金・助成金の配分権はもちろんのこと、官選県知事の人事権、公選市長の事実上の任免権も持っていたから、その命令に異論を唱えることなどまずできなかった。

正殿解体工事は中止されたものの、国家神道の普及という国策を背景に県社・沖縄神社創建の方針は堅持され、1924(大正13)年、本殿や社務所が正殿背後の世誇御殿付近に造営され、正殿は拝殿として利用されることになった。これに伴い、首里城正殿も含む2316坪(約0・77ヘクタール)の敷地が首里市から沖縄県に移譲された(正殿、正殿前広場、正殿裏広場、世誇御殿、北殿、内郭東端の東のあざななど)。

翌1925(大正14)年、国は首里城正殿を「沖縄神社」として古社寺保存法に拠る国宝に指定し、1928(昭和3)年にはその解体修理計画が国会で承認されている。「神社」でなければ国宝に指定されることはなかったから、文化財保存という観点では首里城の救済につながったが、文化的・宗教的にはいびつな印象を残す措置だった。

興味深いのは祭神を「源為朝、舜天、尚泰」としたところだ。舜天は初代琉球王朝の開祖で、為朝は舜天の父といわれる。いずれも、伊波普猷などのいわゆる日琉同祖論(日本と沖縄は先祖を同じくする同一民族という考え方)の根拠の一部となっている伝説上の人物だが、この2人と天皇制は直結しない。国家神道は「皇民化教育」(天皇中心の「国体」の形成)の有力なツールとされたが、沖縄神社の祭神を見るかぎり、そうはなっていない。なんとも中途半端な皇民化教育だ。

正殿の国宝指定と昭和の大修理

正殿の国宝指定と県に対する土地の移譲によって首里市の財政負担は減るかに思えたが、正殿以外にも北殿、南殿、城門など多くの建築物が城内に残されており(あらたに造営された沖縄神社の施設は県の所有)、同市の乏しい財源ではすべてを維持管理することはやはり不可能だった。南殿や北殿は修復して博物館などに再活用されたが、城門の多くは朽ち果てるに任せられ、他の建築物のなかには取り壊されたものや払い下げられたものも少なくなかった。記録が残されていないため、いつ誰が取り壊したのか、何故払い下げられたのか未だに不明のものもある。

そのため首里城全体の荒廃は続き、1929(昭和4)年頃には、主要11門のうち、大手門に相当する外郭の歓会門、内郭の瑞泉門と白銀門、場外の守礼門の4門だけがようやく昔日のかたちを留め、他の門はすべて破損と倒壊を免れず、場外の中山門のように所有者不明の危険建築物として取り壊されたものもあった。なお、上記4門は、古社寺保存法に替えて1929(昭和4)年に制定された国宝保存法にもとづき、1933(昭和8)年に国宝に指定されている。

正殿の解体修理(昭和の大修理)は、1929(昭和4)年〜30(昭和5)年頃には始まったらしいが、詳細な記録は残されていない。いったん中断した後(中断の理由は不明)、1931(昭和6)年に再開され、1934(昭和9)年の春頃には落成を見たが、公式の落成祝賀会が催行されたのは1935(昭和10)年秋のことだった。東京の清水組(平成の復元工事の際の施工業者だった大手ゼネコン・清水建設の前身)が加わった1932(昭和7)〜1933(昭和8)年頃が工事の最盛期だったという。

首里城修復にあたった文科省技官、阪谷良之進と柳田菊造の実像に迫ろうとした野々村孝男『首里城を救った男―阪谷良之進・柳田菊造の軌跡』(ニライ社・1999年)では、工事期間は1年7か月とされているが(落成1933年)、『甦る首里城ー歴史と復元』(首里城復元期成会・1993年)の第7章「近代の首里城」を著した真栄平房敬は、自らの体験談として1929〜34年までを工事期間と語っている。その前後に数年間にわたる準備工事、仕上げ工事、予備工事が行われていたのかもしれない。【(下)につづく】

昭和初期の守礼門。崩れかかっている。沖縄県立図書館デジタルアーカイブより

 

 

 

批評.COM  篠原章
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