パンデミックで問われる政府の役割(1)ジャック・アタリのカニバリスム

ジャック・アタリの言葉

パンデミックといわれる状態が出現してから、若いころ読んだジャック・アタリJacques Attali(1943年〜)の言葉が気になっていた。アタリの言葉として記憶に刻印されているのは「政府の役割は疫病の克服である」という一節である。

アルジェ生まれのユダヤ系フランス人エリートであるアタリは、哲学、歴史学、言語学、数学など他分野に関する幅広い素養を身につけた経済学者として若き日から頭角を表し、とくに経済哲学・経済思想の分野で多くの業績がある。実務家としての学才も発揮し、ミッテラン大統領の懐刀としてフランスの経済政策・社会政策の策定に深く関わったのをきっかけに、EUの金融政策・経済政策にもコミットし、欧州中央銀行総裁も務めている。フランスには、ミッテラン政権(フランス社会党)をしばしば「社会民主主義寄りというよりユダヤ系寄り」と揶揄する人がいるが、そうしたレイシズム的な非難の背景には、学者としてだけでなく、実務家としても名を成したアタリへの嫉妬のような心情が含まれているのかもしれない。

ただ、ぼくの知っているアタリは、実務家としてのアタリではなく、記号論がもてはやされた1980年代前半に、ソシュールに連なる経済思想家として登場し、『ノイズ──音楽・貨幣・雑音』(1977年)、『カニバリスムの秩序』(1979年)、『時間の歴史』(1982年)、『アンチ・エコノミクス』(1985年)といった著作を次々発表していた時期のアタリである(著作の発表年はオリジナル版、タイトルは邦訳書による)。フランス構造主義や記号論の伝統の上に立つ、難解だが風格のある学者というイメージだった。

影響を受けるほど理解もできなかったし、時として19世紀・20世紀欧州的な教養主義とペダンディズムが鼻についたので、次第に遠ざかるようになったが、事物のエッセンスを濃縮して示す能力の高さには舌を巻いた。日本では『2030年 ジャック・アタリの未来予測 不確実な世の中をサバイブせよ!』(訳書・プレジデント社・2017年/原著は2016年)がベストセラーになったが、アタリは「予言者」というより本質を見抜く能力において天賦の才を発揮する思想家だと思う。

カニバリスムの秩序

「政府の役割は疫病の克服である」という言葉が『カニバリスムの秩序』の一節だったのでは、という憶えがあったので、あらためて同書を紐解いてみた。

「カニバリスムの秩序」とは、疫病などによってもたらされる死に対峙し、社会的秩序を回復するため作法とでもいうべきものだ。作法を「システム」という言葉に言い換えてもよいのかもしれないが、システムとか制度とかいう言葉を使った途端、疫病死に対する人々の恐怖感が見えにくくなってしまうきらいはある。アタリが「食人」を意味する「カニバリスム」という語をあえて使ったのは、「死者を喰らう」ことによって生者が死者に対する優位性を獲得するという、原初的な「死との対峙」の感覚こそこの社会を動かしてきたという確信があるからだ。

同書によれば、「カニバリスムの秩序」には4つの歴史的類型があるという。以下、各類型の小見出しに使われた名称は、アタリ用いたタームを篠原が咀嚼した上での独自のタームであり、()内がアタリ自身のタームである。

  1. 祈りの秩序(神々のシーニュ):1つは聖職者を主役(疫病の治療者)とする生贄の儀式による疫病の克服という作法だ。生贄を捧げることによって神々に自分たち過ちの赦しを請い、疫病を遠ざけようとする試みである。「紀元13世紀に至るまでの、キリスト教を含むすべての宗教は、こうして、カニバリスムの秩序を儀礼化した」というアタリの記述には多少の疑問はあるが、「疫病は神々の祟り」という心理が、自分の身体の代替物として生贄を差し出させたと考えれば違和感はない。「祈り」が保証する社会秩序である。
  2. 隔離の秩序(体のシーニュ):中世におけるペスト渦などのパンデミックを経て聖職者の神通力の限界が露呈すると、次の段階では、疫病並びに疫病と同質の社会的病理と見なされた「貧困」を「隔離」することで、社会秩序を保とうとする作法が生まれる。慈善病院や施療院に病者と貧困者を収容することで、「死」を不可視化する試みである。アタリによれば、この場合の主役(治療者)は警官と行政官であり、隔離と収容の制度化は近代国家の礎を築いたという。
  3. 機械の秩序(機械のシーニュ):そもそもすべての病者と貧者を隔離することなど不可能だが、産業革命期を迎え、資本主義が勃興すると、「貧者の隔離」は労働力不足をもたらすことが知られるようになる。貧者は労働者という名の「機械」として産業に取りこまれ、病は「機械の故障」として修繕の対象になる。この段階になって初めて医者が主役(治療者)となる。アタリによれば、医者は政治と手を携えながら機械(労働者)の修繕(治療)」にあたる。修繕が上手くいけば貧困も減らすことができる。従来の慈善は医療保険・社会保険に取って代わられる。
  4. コードの秩序(コードのシーニュ):科学、とりわけ情報科学と遺伝学(遺伝子工学)の進歩は、人間による労働だけでなく、デジタル技術の応用により人間自身が人工身体あるいはロボットによって代替可能なものになる。治療とは「正常化のために身体の一部を交換する」ことを意味するようになる。この段階での資本主義は、健康や生命までを規格化された商品として市場に氾濫しつづけるので、あらゆる病並びに病的行為(規格外の行為)は差し替えの対象となる。神々が技術に取って代わられたかたちだ。主役(治療者)は情報科学者と遺伝学者となる。

 

以上の考察の後、アタリは次のように述べる。

健康について語ること、それはもっとも高度な意味において政治を語ることである。それはまた、敵を名指し、それぞれに対してふさわしい破壊の形式を与えることによって、秩序を支えるという、すべての治療者が行使する方策を理解することでもある。《悪》と闘うこと、それはつねに病を食べることであり、《秩序》とはつねにカニバリスムである。(出所:金塚貞文訳『カニバリスムの秩序』(みずず書房・1984年)7頁)

アタリの問題提起

読み直してみたら、記憶の片隅にあった「政府の役割は疫病の克服である」という言葉はどこにも書いていない。アタリは、《悪》と名指しされた疫病や貧困と対峙する作法の歴史的段階について述べたまでで、政府の役割については直接触れていなかったのだ。

ただ、上記の類型3の段階、すなわち「機械の秩序」をコントロールするのが「政治」の役割であるといい、「健康について語ること、それはもっとも高度な意味において政治を語ることである」といっているところから、財政経済と国家の関係に関心のあった若き日のぼくは、産業革命後の世界における政治(あるいは国家)の役割は「疫病の克服」にあると理解し、「政府の役割は疫病の克服である」と記憶に刻んでしまったのだろう。

ぼくはアタリの考察を手がかりに、疫病対策が国家にとって決定的に重要な役割を果たすもの、すなわち「近代国家観」を構成する条件として捉えた。それは誤読とは違う。少なくとも「政治」(あるいは国家)が、それぞれの治療者をコントロールすることを通じて支配の体系を築いてきたことは前提とされており、私たちの住む世界が今なお「類型3」の枠組みのうちに存在すると考えて差し支えない。

問題は類型4だ。アタリは、1980年代初めの段階で、4つ目の類型の萌芽を見て取っている。実際、現実の世界はアタリの素描に近づいていることは間違いない。AIの普及によって労働における人間の役割は半世紀前とまるで異なるものになりつつあり、病や怪我を人工身体によって補う未来も近づいている。たとえば、スイスでは、AIやロボットによる労働の代替を前提とした経済秩序の再編、人間と労働の切り離しが、国民が直面する具体的な問題として議論されている。

「近代国民国家」は復権するのか?

とはいえ、今回のパンデミックに際して、多くの国々に求められているのは、疫病を喰うこと、疫病を克服することであり、それはまず近代になって生み落とされた「国境」「領域」のなかで対処されなければならない、という事実も軽視するわけにはいかない。グローバリズムがもたらしたパンデミックに対処するのは、機械の秩序を構築してきた個々の近代国民国家にほからないないのである。

パンデミックがある種の近代国民国家ルネッサンス(場合によっては偏狭なナショナリズムへの回帰)をもたらすものになるのか、それともグローバリズムをバージョンアップしながらAI時代に移行するものになるのか、今のところ見分けはつけにくいが、現段階での政府の役割が「死への恐怖」を和らげることにあるのは明らかで、今回のコロナ対策で、国民の「死への恐怖」を増幅してしまったいかなる政府(政権)も、その延命を計ることはできないだろう。

新型コロナウイルスによるパンデミックは、死を怖れるという原初的な感性を備えた人間の構成する社会を、誰がいかなるように制御していくのかという、根本的な問題を提起している。その際、これを「自然との闘い(自然の制御/死の制御)が依然として人類最大の課題である」という既知の問題提起の一部として捉え、政府の役割を再構成するところから始めるのか、それともこれまでとはまったく別の視点から(アタリのいうカニバリスムの枠外で)捉え直し、従来の国家や政府を解体する方向で動いていくのかはまだ不透明だ。

(続く)

批評.COM  篠原章
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