追悼:ルイズルイス加部、マモルマヌー

8月から9月にかけて、進駐軍や駐留米軍のことを徹底的に調べている。そのせいで、ぼくの頭のなかでは、見たこともない銀座のPX(和光)や原宿のワシントンハイツ(代々木公園)の光景が浮かんでは消えている。米軍専用の山王ホテル(後にニュー山王)や米軍属向けの原宿セントラルアパート、六本木トンネル(米軍赤坂プレスセンター)などはぼくの人生と少しばかり交差しているが、ホンモノの進駐軍の名残を探すには福生(横田基地)あたりまで足を運ばないといけない。

沖縄には1982年から通っているが、那覇の友人が「コザは外国、怖いところだよう」というから、コザに足を踏み入れるまで7年かかった。1990年2月に初めてコザを訪れたとき、「怖い」とはまるで思わなかった。初体験なのに懐かしい土地だった。デイゴホテルのエアコンや乾燥機はまだGE(ゼネラル・エレクトリック)製だった。マチヤグヮー(商店)には、リグレーやハーシーやタイドやキャメイが普通に並び、ニューコザ(八重島の特飲街)の廃墟にはAサインの看板が打ち棄てられていた。食堂で出されるスパムやコンビーフも、立川飛行場の将校クラブでピアノを弾いていた母がわが家に持ち込んだ味だった。実家に帰ってきた気がした。

横浜の米軍については完全な追体験だった。痕跡はあちこちにあるのだが、明治以降の文明開化と層が重なっており、米軍臭を嗅ぎ分けるには鍛錬が必要だった。その鍛錬の入口がゴールデン・カップスだった。ぼくにとってゴールデン・カップスの音は、沖縄のコンディショングリーン(カッちゃん)と並んで「進駐軍(米軍)サウンド」の典型である。一音聞いただけで、懐かしいワクワク感が甦ってくる(いやな記憶、恥ずかしい記憶も)。そのサウンドの要はエディ藩とルイズルイス加部だった。

9月1日にカップスのメンバーだったマモルマヌーが亡くなってしまったから、今月はカップス関連の音楽(と動画)ばかり聴いていたのだが、まさかルイズルイス加部(加部正義)まで亡くなるとは思ってもみなかった(9月26日逝去)。たまたま亡くなる前日の25日には、2004年のドキュメンタリー映画『ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム』を繰り返し見ていた。全盛期のルイズルイス加部ほどカッコいい日本人ロック・ミュージシャンはいないと思った。最近の活動ぶりも動画で見た。ベースではなく、老いてギターを爪弾く姿も印象的だった。コロナが落ち着いたら是非ライブも見たいと思っていた矢先だった。

残念というより、自分の中のアイデンティティに関わる部分が少しばかり欠けてしまったという喪失感が強い。

でも、ぼくたちのアメリカ幻想、アメリカ依存、その裏返しとしての反米感情はまだまだ続いていく。それがぼくたちにとっていいことなのか悪いことなのか、皆目わからないというのが正直な気持ちだが、アメリカというより米軍の痕跡をすべて削除してしまう勇気もない。米軍とアメリカがぼくたちの歴史に関わらなければ、ぼくたちの現在もない、ということは紛れもない事実である。

エディ藩には100まで生きてもらいたい、と切に願う。

批評.COM  篠原章
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