原宿で米軍基地の名残を探す

初めて原宿に足を踏み入れたのは小学校5年の秋だったと思う(1967年)。当時、日本進学教室という有名な学習塾があり、男子組といういちばん出来の悪いクラスの授業が、原宿の東郷神社の隣にあった日本社会事業大学の教室を借りて行われていた。竹下口を明治通り方向に歩き、明治通りに出たら左に折れて数分、というロケーションだった。ぼくはその出来の悪いクラスの「不良」小学生だった。

まずテストがあり、テストが終わるとバイトの大学生が回答を解説するというスタイルで授業は行われたが、ぼくはテストだけ受けて逃亡することが多かった。東京のど真ん中にいるのに、薄暗く陰鬱な教室(社会事業大学の教室は古色蒼然とした、タールの匂いがするような場所だった)で数時間を過ごすなんてとても耐えられなかった。テストが終わるとこっそり教室を抜け出して、まだ静かだった原宿を徘徊し、原宿に飽きると青山や渋谷や新宿まで足を伸ばした。

竹下通りは住宅街を貫く寂れた通りで、数えるほどしかお店はなかった。通りのいちばん駅側には小さなゴルフ練習場があり、「Ryu」という喫茶店が併設されていた。窓に沿って上から水が流れるという仕掛けだったが、あまりお洒落とは言えなかった。竹下通りの中程にはカウンター式のとんかつ屋があり(今でも場所を変えて原宿で営業している)、ぼくはそこのポテトサラダでお腹を壊した記憶がある。

表参道のいちばん明治神宮寄りには、「日本初の億ション」コーポオリンピアがあり(いまだにある)、地階には舶来品スーパーと(現在と同じく)南国酒家があった。コーポオリンピアには永田雅一が住んでいると誰かから聞いていた。永田は大映のオーナー社長だ。座頭市とガメラと大魔神のプロデューサーである。小学生ながらそのことは知っていたので、永田はぼくにとって神様のような人だった。コーポオリンピアは余計にキラキラして見えた。永田の愛人だといわれた女優の京マチ子(『羅生門』!)もコーポオリンピアの住人だったから、今思えば、永田はマチ子の部屋に通っていただけなのかもしれない。

コーポオリンピア以外に、表参道には、目立つものはほとんどなかった。1966年に開業したキディランド、数軒のキリスト教の教会と中国人かインド人経営と思われるテイラーが何軒かあった。明治通りのとの交差点には原宿セントラルアパート(現在の東急プラザ)、その先の青山寄りには同潤会アパート(現在の表参道ヒルズ)と伊藤病院(現存)があったが、後に有名になる喫茶店レオンや菊池武夫のBIGIもまだ開店していなかった。ひょっとしたらスエヒロ(ステーキ屋)はあったかもしれない。現在「裏原」といわれている場所には暗渠があり、その廻りにはちょっと草臥れた木造住宅と木造アパートが、所狭しと建ち並んでいた。食品・生活雑貨を扱う店や八百屋といった商店もあったので、下町の趣だった。

なんでこんなことを書き留めているかというと、かつて「米軍基地の街だった原宿」の痕跡を探したいと思っているからだ。基地といっても「ワシントンハイツ」という米軍家族専用の居住区である。居住区になる前は、大日本帝国陸軍の代々木練兵場で、現在は代々木公園に化けている。ハイツに近い代々木、原宿、青山にはUSハウスと呼ばれた米軍の接収住宅も何軒かあったときく。

表参道の教会やテイラーは米軍基地時代の名残だろうが、表参道は70年代に「日本のシャンゼリゼ」を目指したから、「なんとなくパリ風」というイメージが定着してしまっている。ドラマーの林立夫が書いた『東京バックビート族 林立夫自伝』(リットーミュージック・2020年)や故かまやつひろしのインタビュー、故ジャニー喜多川を扱う本や記事に、ワシントン・ハイツのエピソードは出てくるが、秋尾沙戸子『 ワシントンハイツ―GHQが東京に刻んだ戦後―』(新潮社・2009年)を読んでも、イメージはまだ立体化しない。

ワシントンハイツは1946年から1964年までの18年間存在したから、もう少し痕跡はあってもいいと思うが、米軍属用のアパートだった原宿セントラルアパートが1998年に取り壊されてから、「アメリカの匂い」は急速に薄れた。
「米軍が駐留したところに戦後日本のファッションやポップカルチャーが芽生えた」というのはほぼ間違いなく「真理」だと思っている。米軍が駐留しなければまったく別のかたちになっていたはずだ。それを肯定的に捉えるか否定的に捉えるかは別問題だが、ぼくたちはまだアメリカから自由ではない。それは確かである。
なお、ワシントンハイツは日本政府の予算(日本国民の税金)で造られた。この事業は「思いやり予算の原型」といってもいい。そうした点でもぼくたちはまだアメリカ(ひょっとしたらGHQ)から解放されてはいない。

批評.COM  篠原章
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