「沖縄VS日本」という構図は虚構だ—山城議長再々逮捕と翁長知事の高江切り捨て

11月29日、沖縄平和運動センターの山城博治議長が、拘置されたまま再々逮捕されました。これまで家宅捜索を受けたことのない沖縄平和運動センター事務局や辺野古テントにも捜査の手が伸びています。また、山城議長の他にも同じ容疑で3人逮捕されています。
 
直接の容疑は、今年1月、辺野古の工事車両搬入口に1400個のコンクリートブロックを積み上げ、車両の通行を妨げた一件です(威力業務妨害)。沖縄の新聞も大きく取り上げています。本来なら1月の時点で摘発されてもおかしくない事案でした。当時、山城議長は「ブロックを買ってゲート前に送れ」と全国の支援者に訴えていましたし、反対派組織もブロックを積極的に調達していました。ブロック積み上げはさすがにやり過ぎ、逮捕者が出てもやむをえない「実力行動」だと思いました。
 
ところが、県警はこれを黙認しました。なんのお咎めもなかったのです。それどころか、警察官がブロック除去に駆り出されていました。反対運動がブロックを積み、警察官が片づける。「反対運動も警察も『共犯』じゃないか」と思いました。
 
県警が今頃になってブロック事件を摘発したのは、沖縄の新聞が指摘するように、山城議長の拘束を長期化させる狙いがあることは確かだと思います。おそらくこれには官邸の意向が反映しています。官邸には、反対運動を分断し、弱体化させたいという思惑があるのだと思います。ブロックの領収書の宛先は、安次富浩氏が代表を務める「ヘリ基地反対協議会」だといわれており、ヘリ基地反対協と辺野古基金との関連も捜査対象になっているようです。
 
ブロック事件での山城議長の逮捕について、沖縄の新聞は、識者を動員して「弾圧だ」というキャンペーンを張っています。運動の側の弁護士は「今頃になって逮捕とは許せん」と怒っていますが、ブロック積み上げの時点で、反対運動の側は「ブロックを積めば逮捕者が出るかもしれないが、皆で『弾圧だ』と騒げばいい」と考えていたはずです。権力と反権力の対立ですから、逮捕者の出るリスクは覚悟して当然です。実際に逮捕者が出た以上、メディアに働きかけて「弾圧」を強調するのは常道です。逮捕される側にとっても「予定調和」にすぎない「弾圧」ともいえます。
 
が、新報やタイムスの紙面を開くと、中核派の『前進』や革マル派の『解放』といった旧新左翼の機関紙を読んでいるかのような錯覚にとらわれます。私がよく知っているのは、70年安保、三里塚闘争の頃の紙面ですが、「弾圧粉砕」「闘争勝利」といった勇ましい文言が、スポーツ紙のような大きな活字で踊っていました。あの頃は「別件逮捕」も日常化していました。多いときは数百人に上る逮捕者の「救援」が必要となりました。そのための経費が組織の財政に重くのしかかり、大学自治会の会費や労組の組合費の過半が「救援」に回されました。そうまでして「貫徹」された彼らの闘争が結果的に何を生みだしたのかを考えると、暗澹たる気分に陥ります。
 
「祭り」の後に待っていたのは「悲劇」でした。多くの若者の人生が屈折し、破綻しました。破綻を免れた者は、彼らの憎悪した「体制」に寄生して生きる道を選びしました。「大衆運動」とは名ばかりのイデオロギー闘争・暴力闘争に終始してしまったのですから、犠牲が出るのも当然ですが、運動の最盛期には誰もこうした悲劇を予想しませんでした。大衆は置いてきぼりにされ、活動は自壊していきました。沖縄の基地反対運動やメディアは、過去のこうした経験から何を学んでいるのでしょうか?おそらく何も学んでいないのでしょう。
 
今回、沖縄の新聞が掲載した識者のコメントは、政府の弾圧を批判し、沖縄の結束を呼びかけるものが多かったと思います。ありきたりといえばありきたりですが、こうしたコメントは、ナイーブな(脆弱な)沖縄ナショナリズムの発露にしか見えませんでした。「沖縄VS日本」という構図をなぞっているだけです。「沖縄VS日本」をいくら強調しても、解決の糸口はけっして見えてきません。「虚構の構図」にほかならないからです。
 
この12月に高江のヘリパッド建設が終われば、活動家の大半が高江にはなんの関心も持たなくなることでしょう。年が明ければ高江は潮が引いたような状態になると思います。「高江での敗北」を総括することもないまま活動家は辺野古に戻り、「辺野古闘争こそ生命線」といいだすでしょう。数年後彼らのいう「辺野古新基地」が完成してしまえば、運動は瓦解しかねません。辺野古闘争が終わっても、沖縄は「差別」され、「蹂躙」されたままの状態がつづくはずですから、闘いは続けなければならないはずですが、戦線は見る見る縮小してしまうでしょう。「オール沖縄」の指導者たちは、こうした敗北と引き換えに、振興計画の継続を政府に約束させようします。結局、「オール沖縄」が得るのは振興策だけなのです。誰かさんの描いた「シナリオ」通りの結末です。「沖縄VS日本」という構図は、こうしたシナリオを動かすためにつくられたフィクションです(厄介なことにシナリオを動かす人たちの輪の中に、外国勢力の影がちらつきますが、そのことはまたあらためて触れたいと思います)。
 
ところで、昨日(11月29日)は、翁長知事の「公約違反」を追及する記事が、新報・タイムスのトップを大きく飾りました。知事が「北部訓練場返還の条件となっているヘリパッド建設は容認するが、オスプレイは容認しない」といった趣旨の発言をしたことを取り上げ、「公約違反」としています。
 
知事は、「苦渋の選択の最たるものだ。約4千ヘクタールが返ってくることに異議を唱えるのは難しい」「4千ヘクタール返すから文句を言うなというのは県民は冷静に見ている」「オスプレイの配備撤回があればヘリパッドもなかなか十二分には運用しにくいのではないか」と発言したようですが、これが2014年10月の知事選出馬・公約発表会見で「ヘリパッドはオスプレイの配備撤回を求めている中で連動し反対する」と述べたことに反するというのが、沖縄の新聞の主張です。
 
翁長派の赤嶺昇県議も述べていましたが、「(ヘリパッドの賛否は)公約にはない」のですから、公約違反を責める新聞の主張は怪しいものです。知事は「オスプレイ反対」の一環でヘリパッドを問題にし、今月に入って「オスプレイ配備にあわせて環境影響評価をやり直せ」と言いだしましたが、少なくともこの件について、知事は矛盾するような行動はとっていないと思います。もっと簡単にいえば、知事は辺野古を取って高江を捨てているのです。その姿勢は就任以来「一貫」しています。なにしろ、これだけ騒ぎになっている高江に、知事は一度も足を運んだことがないのですから、関心がないことは歴然としています。ちなみに、知事は先週普天間と嘉手納を視察しましたが、就任後「初」の視察だったそうでです。新報やタイムスは、初視察がこれだけ遅れたことを責めてもいいようなものですが、不問に付していました。一方で辺野古には最低2回は行き、ゲート前でスピーチしていますし、夫人を座り込みにも行かせています。
 
こうした行動を見ると、「カネになる場所には足を運ぶが、カネにならない場所には無関心」という知事の「合理性」がはっきり見えてきます。なかなかわかりやすい政治家です。新報やタイムスはこの点を追及してしかるべきですが、振興予算や防衛予算については新聞といえども呉越同舟ですから、「カネ」の角度からの翁長批判を展開することはありません。
 
「オール沖縄」信者は、私のことを「沖縄はカネが全て」と主張するヘイトスピーカーだとか、政府を非難せず沖縄だけを攻撃するヘイトスピーカーだと批判しますが、カネの問題を解明しないかぎり、問題を解決する糸口は見えてこないと思います。私は「沖縄の心」も半ばフィクションだと思っています。まずはおカネをことを語らないかぎり、「心」の問題も見えてきません。
 
最後に一つだけ付け加えておきたいことがあります。今回ブロック事件で逮捕された、山城議長以外の3人は「職業不詳」となっていました。ここでは実名を挙げませんが、3人とも辺野古で精力的に活動していた活動家で、うちふたりは本土出身者です。以前から彼らの名前は知っていました。職業不詳の活動家ですから、こうした運動をすることこそ彼らの「仕事」だったといっていいでしょう。辺野古での逮捕者はこれで22人になりますが、その半数以上が本土出身者で、そのまた多くが職業不詳です。私が「辺野古の活動家には本土出身者が多い」と発言したら、「篠原はデマを飛ばしている」とさんざんいわれましたが、最前線で活動してきた逮捕者に限っていえば、本土出身者が多数を占めていることは明らかです。「篠原はデマを飛ばしている」こそデマだということになります。この点は強調しておきたいと思います。
批評.COM  篠原章
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