『風街オデッセイ 2021』レビュー Vol. 4(全4回)最終回

生涯ポーカリスト・小坂忠

さて、今夜もまたボーカリストとは何か、歌とは何かをずいぶん考えさせられる一夜だった。

病を経て復帰した小坂忠が「しらけちまうぜ」「流星都市」を熱唱するのを見て、「生涯ボーカリスト」という言葉を連想した。「流星都市」は、小坂にとっても、細野や松本にとっても、最初となる(プロの)ロック・バンド「エイプリル・フール」のオリジナル「タンジール」の改作だ。つまり、1969年に小坂が歌い始め、1975年の『HORO』を経て今日にいたる52年のあいだ命脈を保っている松本隆=細野晴臣の楽曲であり、小坂のボーカルのスタイルは当初からあまり変わっていない。むしろ、ボーカリストとして経験を積み、声質が渋味を増していくにしたがって、歌としての深みは増している。この日のステージでも小坂の歌はいぶし銀だった。小坂忠は歩行に難があるらしく、ステージへの登場と退場の際には杖を持った介助スタッフが付き添ったが(お嬢さんの気遣いらしい)、小坂忠は「介助は不要だ」と言いたげな気丈さを見せてくれた。小坂はやはりぼくたちの「生涯ボーカリスト」だ。

だが、それと同時に、ぼくたちがたんにいま幸運なだけだ、という事実も突きつけられている。最初からオリジナルを歌いつづけている小坂忠が健在でかつ現役だから、ぼくたちは満足した。とはいっても、人はいつしか朽ちていく。ボーカリストが歌えなくなる日もやって来る。それは避けられないことだ。ぼくたちにその覚悟はあるのか。いや、覚悟などない。聴き手である自分たちが朽ちていくのを待つだけだ。

吉田美奈子の凄み

そうした覚悟の有無に思い悩むぼくたちを嘲笑うかのようなパフォーマンスを見せてくれたのは、はっぴいえんどを除く二日目出演者のトリを務めた吉田美奈子である。美奈子は、松田聖子の「瑠璃色の地球」(松田聖子)をゴスペル風に朗々と、重々しく歌い上げ、同じく松田聖子の「ガラスの林檎」を、原形を留めないほどアヴァンギャルドなジャズ・ファンク風に吟唱した(「歌う」と言うより「吟じる」といったほうがより正確なので「吟唱」という言葉を選んだ)。

今回の美奈子版「ガラスの林檎」のアレンジは、前回の松本45周年イベントでもっとも不評だったものとほぼ同じで、前回その歌唱を理解できなかったぼくは自分自身の不明を恥じた。今回、「瑠璃色の地球」と併せ聴いて、美奈子の真意が初めてわかった気がした。

作家が誰か、歌い手が誰か、ということ自体は取るに足らぬことだ、いちど世に出てしまった歌は歌自身が主役であり、その歌を歌う歌手とミュージシャンの熱量と音楽に取り組む姿勢こそが問われるのだ。ノスタルジーに浸りたいなら過去の音源に浸っていればいい。仲間うちのカラオケで物真似していればいい。だが、歌はいつまでも同じ場所に留まっていたりはしない。進化とまでいわないが、少なくとも宿命的に変化することを求められている。その求めに応えることこそがプロフェッショナルなボーカリストまたはアーティストの役割なのだ。美奈子のいわんとするところは、そういうことではなかったのか。

美奈子の歌唱は、いってみればオリジナルに対する批判的歌唱だが、それは我々が20世紀を通じて体得したはずの「自由」の意味をあらためて問うものであり、なんだかんだいいながら、結局は「ポップとアート」や「保守と革新」という対立概念(あるいは二元論)に拘りながら生きてしまう我々の文化的な現状に一石を投ずるものだった。ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ボブ・ディランなどが開拓してきた「変転するポップの美学」に立ち戻ることを求め、いつまでたっても大衆消費社会・大衆音楽社会という幻影から前に進めないぼくたちに突きつけられた、恐るべき刃である。

「はっぴいえんどの時代」の虚実

遠藤ミチロウのスターリンが、山下達郎のビッグヒット「ライド・オン・タイム」を粉々に打ち砕くようなアレンジでカバーしたとき(1992年)、当の山下達郎は「光栄なことだ」と高く評価したが、創作の自由とはそもそもそういうもので、それを欠いてポップスもジャズもクラシックも、つまり音楽は成り立たない。そのことをついつい忘れてしまい、「何が正統か」という議論に終始してしまう我々の「小ささ」には我ながら呆れる。

かつて鈴木慶一が「究極のエスニック・ミュージックはパーソナルな音楽」と喝破したように、我々は「個」の幻想の上に音楽を聴き(創り)、音楽を聴いて「個」の幻想を深める。それ以上でもそれ以下でもない。メディアのコントロールにしてやられるのも我々であり、それによって「歴史の創作」に手を貸してしまうが、最後に返ってくるのは結局「個」の世界である。

「個」の世界への拘りを普遍化して、「はっぴいえんどの時代」「松本隆の時代」という標識をつけるのには慎重でありたい。はっぴいえんどや松本隆を聴いた我々「個」が、次の段階で社会的・文化的に何を生みだし、何を継承していくのかまで視野に入れないと、全体像はけっして見えてこない。

と、ここまで書いたところで、他のアーティストを正面からレビューする気がサラサラなくなってしまった。皆が勝手に聴き、勝手に語ればいい。だから、以下ではあえて「勝手な語り」を短く書きとどめておく。

歌の巧拙でいえば、山下達郎の「いつか晴れた日に」、松田聖子の「SWEET MEMORIES」を歌ったさかいゆうが際立っていたし、安定のEPOは竹内まりや「September」を歌い、ベストのパフォーマンスを見せてくれた。堀込泰行「てぃーんず ぶるーす」 (原田真二)も含めて、それらはただそれだけのことで(たんなるカバーにすぎないという意味)、オリジナル歌手がオリジナル曲を歌った中川翔子「綺麗ア・ラ・モード」、中島愛「星間飛行」、藤井隆「代官山エレジー」、とクミコ(with 冨田恵一)「フローズン・ダイキリ」にはやはりかなわない(クミコは「超シャンソン歌手」だとあらためて認識した)。

南佳孝も、稲垣潤一も、安部恭弘も、そしてもちろん鈴木茂林立夫も、ぼくのノスタルジーに十分応えてくれたが、それはぼくの個人的なノスタルジーの世界の中での出来事である。

冨田ラボ・冨田恵一のサウンド・クリエーションによる3曲、畠山美由紀「罌粟」(「ケシ」と読めなかった)、冨⽥ラボ feat.ハナレグミ「眠りの森」、堀込泰行・ハナレグミ・畠⼭美由紀「真冬物語」については何の感想もない。申し訳ないが、こういう松本作品もあったのか、という印象しか残らなかった。

星屑スキャットの「ミッドナイト・トレイ」(スリー・ディグリーズ)には新しさを感じた。コーラスとしてはまぁまぁの出来だったが、多くの人が忘れているマイナーな作品だけにその意欲は買いたい。ディグリーズを思い浮かべられる衣装は良かった。

トータルでいえば、「風街オデッセイ2021」は濃密で示唆されるところも多かった。問題は5年後だが、意識的に過去と現在と未来を交錯させようとする、大人数を集めるイベントはこれで終わりにして良いと思う。もちろん、はっぴいえんどをフィーチャーする必要もない。「次」のアイデアはあるが、そもそもぼく自身が元気に生きているかどうかもわからない。ぼくたちに残された「使命」があるとすれば、お墓をつくることだけだという気がする。

11月6日セットリスト

《第二夜》2021年11月6日(土) 17時半〜21時(約3時間半)
M-1. A面で恋をして/鈴木 茂、伊藤銀次、杉 真理(NIAGARA TRIANGLE vol.2)
M-2. Do You Feel Me/杉 真理、伊藤銀次(杉 真理)
M-3. CAFE FLAMINGO/安部恭弘
M-4. STILL I LOVE YOU/安部恭弘
M-5. バチェラー・ガール/稲垣潤一
M-6. 恋するカレン/稲垣潤一(大滝詠一)
M-7. スローなブギにしてくれ(I want you)/南 佳孝
M-8. スタンダード・ナンバー/南 佳孝
M-9. ソバカスのある少女/鈴木 茂、南 佳孝(ティン・パン・アレー)
M-10. 砂の女/鈴木 茂 w/林 立夫
M-11. 微熱少年/鈴木 茂 w/林 立夫
M-12. しらけちまうぜ/小坂 忠 w/林 立夫
M-13. 流星都市/小坂 忠 w/林 立夫
M-14. ミッドナイト・トレイン/星屑スキャット(スリー・ディグリーズ)
M-15. てぃーんず ぶるーす/堀込泰行(原田真二)
M-16. 代官山エレジー/藤井 隆
M-17. フローズン・ダイキリ/クミコ w/冨田恵一
M-18. 罌粟/畠山美由紀 w/冨田恵一
M-19. 眠りの森/冨⽥ラボ feat.ハナレグミ w/冨田恵一
M-20. 真冬物語/堀込泰行、ハナレグミ、畠⼭美由紀 w/冨⽥恵⼀
M-21. 星間飛行/中島 愛
M-22. 綺麗ア・ラ・モード/中川翔子
M-23. いつか晴れた日に/さかいゆう(山下達郎)
M-24. SWEET MEMORIES/さかいゆう(松田聖子)
M-25. バンドメンバー紹介曲
M-26. September/EPO(竹内まりや)
M-27. 瑠璃色の地球/吉田美奈子(松田聖子)
M-28. ガラスの林檎/吉田美奈子(松田聖子)
M-29. 花いちもんめ/はっぴいえんど w/鈴木慶一
M-30. 12月の雨の日/はっぴいえんど w/鈴木慶一
M-31. 風をあつめて/はっぴいえんど w/鈴木慶一

※セットリストは松本隆作詞家活動50周年記念オフィシャル・プロジェクト 風街オデッセイ ホームページより

 

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批評.COM  篠原章
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