戦後沖縄に駐留した中国国民党部隊と伊江島の大爆発事故

沖縄の国民党物資調達隊・BOSEY

沖縄戦が終わった後の1946年から49年にかけて、中華民国(蒋介石の国民党)の「部隊」がしばらく沖縄に駐留していた事実はあまり知られていない。一部の研究者は、沖縄からその記憶が消滅する前に、研究会をつくって実態を掘り起こし、歴史に留めておこうとしている(参照 戦後チャイナ部隊研究会)。

研究自体は一定の意義があるから水を差すつもりはないが、この研究会のシンポジウムの報告書を取り寄せて読んでみたら、課題だらけだった。

特に気になったのは、駐留していた「部隊」を「チャイナ部隊」とネーミングしたところだ。このネーミングにどうにも馴染めない。「部隊」とはいえ、厳密には軍隊ではなく、中華民国行政院用度委員会(Board of Supplies of the Chinese Executive Yuan)が雇用した労働者から成る集団である(研究会は物資供応委員会と訳している)。アメリカの公文書には英文表記を略して、BOSEY(なぜかCが抜けている)と記載されており、下掲の資料写真のトラックにはやはりBOSEYという語がペイントされている。ただし、BOSEYを管理するのは中国本土(国民党政府)から派遣された約100名の国民党軍憲兵隊だから、軍が関与していたことは間違いない。

BOSEY部隊の写真(沖縄県立公文書館資料)

いずれにせよ、一般の人がひと目で理解する必要のない事柄なのだから、現在の中国共産党の中国まで含んでしまうChinaという言葉を使うのはいかにも思慮がない。しかも、若い世代のなかには「チャイナ」を差別語として使う例もある(チャイナを略してチャイと呼ぶ人もいる)。「国民党物資調達隊」、あるいはそのものずばり「BOSEY」(ボーセイ)と呼ぶほうが適切だ。

伊江島の大爆発事故

ところで、研究会で報告された一連の研究のなかで、もっとも興味深く思えたのは、1948年(昭和23)8月6日に伊江島で発生した史上稀に見る爆発事故だ(5インチロケット砲弾約5000発=125トンが爆発)。米軍が島内で保管していた爆弾・砲弾・弾薬をLSTに積んで島外に搬出する作業の際に、伊江島北岸に接岸していたLSTの積荷が大爆発を起こし、島民を中心に死者100名余、負傷者70人余という犠牲者を出した。沖縄駐留米軍の事故では今に至るまで戦後最大といわれている。

爆発事故現場見取り図

爆発事故現場の見取り図(同前)

事故現場から90メートル離れたところにある破壊された民家(同前)

国民党物資調達隊の規模は1100人前後、そのほとんどが兵士ではなく労働者で構成され、これとは別に部隊を指揮統率するための憲兵が100名あまり派遣されていたとされる。兵器以外の米軍の余剰物資(非戦闘車両、被服や食糧関係の物資)を対価を支払って譲り受け、上海や天津など中国本土に輸送することを任務としており、沖縄各地に配置されていたようだが、伊江島には100名規模の部隊が駐留していたという。

爆発事故の犠牲者には国民党物資調達隊の隊員は含まれていないが、「なぜ伊江島に国民党部隊が駐留していたのか?」という謎が残されている。伊江島にも余剰物資は蓄えられていただろうが、本島各地に置かれた余剰物資の貯蔵量のほうが優るはずだ。

米軍の爆発事故調査報告書に、国民党物資調達隊のことはなにも書かれていない。当時の米政府は、国共内戦には直接関わらない、つまり中国(国民党・共産党の双方)には武器を譲渡しない方針だったが、毛沢東の共産党軍(人民解放軍)の優勢が伝えられるなかで、密かに爆弾・砲弾・弾薬を国民党に譲渡していた可能性がある。毛沢東の共産党やソ連に知られずに、国民党に爆弾・砲弾・弾薬を引き渡すためには、離島である伊江島のほうが本島より都合がよかったのではないかと思う。海洋投棄を名目にLSTで搬出し、沖合に出てからどこかの時点で国民党に引き渡す計画ではなかったのか、というのがぼくの推論である。

ただし、研究会の報告によれば、蒋介石の子息で軍人だった蔣緯国も1949年に沖縄を訪れ、「部隊」に混じって1週間ほど労務に携わり汗を流したという。蔣緯国は、孫文の片腕だった国民党の重鎮、戴季陶が日本への亡命時代に知り合った重松金子という看護婦との間につくった子どもで、生まれたのち蒋介石が引き取って養子にしたという数奇な運命をたどった人物である。当時の蔣緯国は、上海の経済政策の責任者だった。沖縄で調達された米軍物資のなかには、インフラ整備に必要な輸送機器や資材が多数含まれていたから、これらを上海に移送して現地で民生用に転用した可能性もある。そうなると蔣緯国は、移送される物資を事前にチェックするために沖縄を訪れた可能性が高いが、蔣緯国の本職は軍人(ドイツと米国で軍事教育を受けている)である。チェックした物資のなかに爆弾・弾薬が含まれていたとしても何ら不思議はない。

国共内戦の犠牲者?

真相はまだわからないが、これまでわかっている事実を総合すると、国民党に請われて米軍が沖縄の余剰軍需物資(爆弾・砲弾・弾薬など)を譲渡し、人目に付きにくい伊江島において密かに中国本土に搬出する作業を行っている際に、何らかの事情で爆発事故を起こした、と見るのが自然ではないかと思える。そうであるとすれば、この時の伊江島の犠牲者は、いうなれば国共内戦の犠牲者ということになる。

沖縄戦における伊江島の戦闘はとくに熾烈だった。従軍していたジャーナリストのアーニー・パイルが戦死したことで、米国でも「IE-shima」は激戦地として知られている。この戦闘では、日本軍は玉砕し、約2000名の兵士が戦死したが、軍と共に戦った多くの島民が命を失っている。沖縄戦開始時点で島に残っていた島民4000人のうち1500人が戦死したという。戦争が終わり、沖縄本島にあった収容所から島民が帰還したのは1947年3月のことだったが、そのわずか1年5か月後に起こった爆発事故で、さらに100人の命が奪われたのは、恐るべき悲劇としか言い様がない。その原因が国共内戦だとすれば、もはや言葉を失う。

「誰が加害者で誰が被害者なのか」を突き止め、さらに突き止めた「犯人」を追及する作業に、ぼくは大きな意義を認めないが、犠牲の事実とその背景は歴史にしっかり刻んでおく必要がある。誤解を覚悟していえば。戦争は邪悪な笑みを浮かべながら、ある日突然「向こうから」やってくる。そこでは人々は虫けらの如く蹴散らされ、いとも簡単に命を奪われてしまう。そして不幸なことに、その悲劇はいつまで経っても繰り返される。事前に戦争を抑止する努力は可能だが、いったん戦争が始まってしまえば、それを止めるのは容易ではない。

まったく望ましくはないが、中台間で紛争が起きる可能性は時と共に高まっている。ひとたび紛争が起きれば、沖縄はもちろん、日本を含む東アジア全体が影響を受ける。そうした事態を防ぐためにはなにが必要か、また被害や犠牲を最小にするにはどうしたよいのか。戦争反対のプラカードなのか、それとも外交手腕なのか、軍備の増強なのか。あるいはその三つのいずれでもない第4の選択肢なのか。悲劇を避けるためにぼくたちは、徹底して考えなければならない。いまがその時だ。

批評.COM  篠原章
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