沖縄の真実(6) 近代化の実相〜奥武山公園の松方正義

人頭税の廃止を記念する石碑

人頭税の廃止を記念する石碑

3月某日。想像以上の歴史の痕跡が残っている奥武山公園を訪れ、昭和の初めに建てられた世持 神社を詣でる。現世の御利益をもたらしてくれる神社である。隣接する護国神社の坂道を上り、丘越えをして国場川の方向に出ようとしたら、頂に大きな石碑が あった。その前で十人余りの沖縄の人たちが、御拝(うぐぁん)を始めようとしている。宮古島出身という女性がニコニコしながら説明してくれた。

「この石碑は人頭税が廃されたことを記念して建てられ たものなんですよ。1637年から明治維新の遥かあと、1903年まで続いた悪税です。ご存じですか? 今日は各島から代表が集まって、そのお祝いをする んです。もともと奈良原知事のための碑があったところに建てられたんですよ」

 琉球王朝が宮古・八重山の島民に過酷な人頭税(経済 力の弱い者ほど大きな負担を負ったという)を課していたことはよく知られている。薩摩から押しつけられた負担を、首里や那覇など沖縄本島ではなく、先島諸 島に転嫁し、王府は王族や士族を養うための財源を捻出したのである。宮古島には「人頭税石」という有名な観光名所もある。これは歴史的な裏づけのないたん なる石にすぎないらしいが、人頭税の廃止を記念する石碑が、那覇の奥武山公園に建てられているとはついぞ知らなかった。

 碑には『改租記念之文』と刻んであった。長い漢文で ある。文末には「明治四十(1907)年五月 松方正義」とある。改租とは、地租改正にもとづいた税制改革・土地制度改革のことだ。「奈良原知事のための 碑」をこの碑に差し替えたという説明だったが、それは誤解だろう。当時の沖縄県知事・奈良原繁自身が、難渋した地租改正の成就を記念して、松方正義に依頼 した碑文を石に刻んだと見るのが自然である。要するに自分の手柄を碑として残しておきたかったのである。

 薩摩出身の奈良原は、沖縄近代史の政治的ヒーローの 一人・謝花昇と対立したことで知られる「悪代官」である。歴史を点検すると、奈良原は明治期における琉球王族・琉球士族の既得権益温存政策(後述)を実行 した張本人だが、王族・士族をなだめたりすかしたり怒鳴りつけたりしながら、「地租改正」をやり遂げたときの達成感はよほど強かったのだろう。ちなみに奈 良原には、生麦事件(1862年)で英国人に斬りつけたという血なまぐさい経歴もある。

 地租改正や秩禄処分がなければ、日本の近代化はなかった。が、沖縄に限らず、あちこちで猛烈な反対があったことも事実である。

 改革には抵抗がつきものだ。小泉純一郎が、郵政改革 法案のとき、反対する政治家を「抵抗勢力」と呼んで、排除しようとしたことはまだ記憶に新しい。ぼくは政治家ではなかったが、郵政改革によって郵便局だけ が生命線であるような小さな集落が壊滅してしまうことを懸念して、この法案に異議を唱えた。「ニッポンの正しい田舎」を守るべきだと思ったからだ。

 だが、「民営化」の流れそのものは歴史的必然であ り、肥大化し傲慢になってしまった「公」を抑えるためのやむをえざる選択肢だったこともたしかである。想いだしたように民営化反対を唱えた麻生自民党政権 を経て現在は「抵抗勢力」の巣窟・民主・国民新党連立政権。現政権になって郵政改革は逆戻りしたというが、民営化を全否定するような逆戻りはもうできな い。「民」だけが正しいわけではないが、「公」への過剰な依存は身の破滅になることはわかっている。公民の最悪のもたれあいが、今回の原発事故に帰結して いるが、そもそも東電自体が公によって保護された私企業であるから、公民のもたれあいというより、「公公」のもたれあいといったほうがより適確か。

 ぼくは小泉純一郎より「公」に寄った立場だが、 「公」に起因する悪政・悪弊・悪習が長期的に「民」の負担となることは十分承知している。改革を急ぐために、小泉純一郎が、反対派に「抵抗勢力」という レッテルを貼り、彼らのイメージを悪化させようとした戦術は、敵ながらあっぱれだった。改革のための犠牲を最小にすることは大事だが、犠牲をゼロにするこ とはできない。「民」の暮らしが、結果としてより豊かになるとすれば、切り捨てられる人たちが必ず生まれる。「みんなの幸せ」はありえないのだ。切り捨て られた人たちが救済される仕組みをつくることは必須だが、切り捨て自体を防ぐことはできない。郵政改革にいちばん反対したのは郵政職員だった。彼らは公務 員の身分を失いたくなかったのである。だが、彼らは大企業の社員として今も給料をもらっている。切り捨てられた弱者ではけっしてない。

 郵政改革のほんとうの犠牲者は、今まで存在していた 郵便局が消滅してしまった地域の住民である。そうした地域は人口減少に苦しむ過疎地域であることが多く、ただでさえ高齢化が進んで停滞しているのに、村の 郵便局の廃止で、生きる術がまたひとつ失われてしまった。だが、ニッポンの田舎が追いこまれた窮状は郵政だけの責任ではない。行政の過疎対策にも責任もあ るし、経済発展の歴史的副作用のひとつであるともいえる。政府は郵政民営化に際して過疎地域自立促進特別措置法を改正してニッポンの田舎の救済策とした が、これもいたずらに公共事業や行政の裁量の幅を増やすだけで、抜本的な救済策になっていない。悪くいえば、こうした措置によって、郵政職員以外の公や官 は郵政民営化から自分たちの権限や権益はしっかり守りぬいたのである。真の「抵抗勢力」は公務員や公務サービスから利得を得る人たちだったのだ。崩すべき はこうした権限・権益(既得権)であるべきだが、そうは問屋が卸さない。改革がいかに難しいかを示す事例である。

 「琉球処分」(1879年)は沖縄県民にとって恥辱 の歴史だという。沖縄差別の出発点だともいう。「琉球処分」をもっとわかりやすい言葉でいえば、沖縄バージョンの「廃藩置県」なのだが、それが明治政府に よって強行されたという点を捉えて、「恥辱」や「差別」という厳しい言葉が向けられているのである。「処分」という言葉が使われているのは、琉球側が明治 政府の度重なる「廃藩置県」の要求に応じなかったからだが、沖縄では現在も、琉球処分を「日本による侵略の一面」として問題視する識者も少なくない。たし かに琉球国は1879年に大日本帝国に吸収された。その事実はまちがいない。が、歴史的に評価すれば、これは侵略行為ではなく「完全併合」である。すでに 1609年の薩摩侵攻によって、琉球国は薩摩(日本)の属領になっていたのだから、琉球処分を侵略と断ずるのは無理がある。1609年の薩摩藩による軍事 行動は侵略といってよいだろうが、その最終的な責任者は徳川家康(または秀忠)であり、実質的な責任者は島津家久であって、誰かが責任を責わなければなら ないとすれば、これら歴史上の人物たちを墓場から呼び出さなければならない。徳川家康・島津家久の亡霊を首謀者として処刑すれば沖縄差別が解消するという のなら、こんなに楽なソリュージョンはない。が、それはたんなるイリュージョンであり、事態はもっともっと複雑である。

 「廃藩置県」(1871年)は明治政府による壮大な 改革のひとつである。藩を廃し府県を置くことは、近代的な中央集権システムを確立するために不可欠な手段だった。秩禄処分(1876年)と相まって、幕藩 制から禄をはんでいた多くの藩士が職を失った。今風にいえば既得権を失ったのである。明治政府に役人として雇用される旧藩士は一握りであり、それも薩長な どの藩閥に属している者が優先されたから、士族のなかには猛烈に抵抗する者もあった。が、いちばん抵抗が強かったのが実は「琉球」だった。属国だが形式的 には独立国であったものが、明治維新をきっかけに琉球藩になり、それが沖縄県になってしまう。琉球の士族たちはあわてふためき、近代化のための改革に対す る「抵抗勢力」となった。もともと士族の比率が本土の2倍(住民比10%)はあったといわれる琉球だけに、その抵抗は他の地域よりも強力だった。既得権を 失うことへの恐怖が彼らを反明治政府に駆り立てたのである。これには明治政府も手を焼き、当初は説得工作も行ったが、最終的には武装した警察官を送りこむ という強硬手段に出た。本土に遅れること8年である。一般大衆のなかには士族と同調して明治政府に反対する者もいたが、「民が士族を養う」という経済的な 構造に嫌気が指していた大衆も多く、琉球処分は歓迎されたという。

 本土では地租改正(1873年)と秩禄処分 (1876年)が行われ、士族の特権は失われたが、沖縄では琉球処分の後も士族の秩禄の一部は温存された。不平士族を懐柔するために取られた特例措置だっ た。「飴と鞭」といえばたしかにそうだが、富国強兵を急ぐ明治政府は、琉球士族の抵抗に時間と労力を割くのを回避するため、「沖縄問題」の解決を先延ばし したのである。どこかで見たような構図である。明治政府による「奴隷解放」(伊波普猷)に期待した沖縄の大衆は、裏切られただけではなく、王朝がなくなっ てもつづく重い公租公課に苦しむことになった。

 沖縄の王族・士族の秩禄の源泉となっていた税制や土 地制度が最終的にあらためられたのは1903年のことだ。新潟県出身で宮古島在住の中村十作や宮古島島民・平良真牛ほか4人の農民代表が宮古島から東京に 上って、帝国議会に陳情を行なったことも改革の一助となったという。明治維新から35年、琉球処分から24年。その間、先島の農民たちは17世紀の悪税で ある人頭税に苦しみつづけ、士族は自分たちの既得権を必死に守ろうと奈良原知事など本土から派遣されてくる政治家や官吏に圧力をかけていたのである。それ が歴史の実相であって「恥辱」や「差別」という主張は歴史に対する主観にすぎない。

 もし、「恥辱」や「差別」を歴史の実相とするなら、 明治政府自体が日本の恥辱であり、差別の象徴になってしまう。それは、明治の元勲といわれる人たちの出自を調べてみれば一目瞭然だ。岩倉具視ほか公家出身 3名、西郷隆盛ほか薩摩出身15名、伊藤博文ほか長州出身8名、板垣退助ほか土佐出身5名、大隈重信ほか肥前出身4名、肥後出身1名(横井小楠)、幕府出 身1名(勝海舟)。彼らが日本をコントロールしていた「体制」そのものだった。いちばん人口の多かった江戸の出身は勝海舟一人である。いうなれば、日本中 が特定の藩閥グループから差別されていたのであり、恥辱を感じていたのである。

 が、そのことに今文句を言う人は一人もいない。近代化の手法にいかに大きな欠陥があろうが、それがなければ今がないことを皆よく承知しているからである。

批評.COM  篠原章
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