平和教育の闇〜「死に損ない」発言の深層

Darkness of Japanese Peace Education : Backgrounds of Abused Words “You dotard!” to an A-bomb Victim in Nagasaki

横浜の中学生が、「平和教育」の一環として訪れた修学旅行先の長崎で、ガイドの被爆者に向かって「死に損ない」という暴言を吐いたことが話題になっている。 人に向かって「死に損ない」などということは言語道断だが、暴言そのものよりも暴言が生まれた背景に目配りすることのほうがはるかに大切だと思う。

といっても「日本の右傾化の現れ」「安倍政権の軍国化政策の産物」とかいう、脳天気で安っぽい政治批判を展開するつもりは全くない。問題の根っ子はそれよりも深いところにあるとぼくは考えている。

実は、ぼくは以前から、中学や高校の修学旅行の多くが、沖縄、広島、長崎を目的地に選び、「平和教育」の名の下に行われていることに疑問を感じている。沖縄戦体験や被爆体験を聴き、ひめゆりの塔や爆心地を訪れることが無駄だといっているのではない。戦争に関わる歴史教育をもっぱら沖縄、広島、長崎に依存していることが、今回の暴言の背景にあるのではないか、といいたいのである。

戦争の歴史を教えるなら、まず「日本はなぜ戦争をしたのか」を教えることが重要である。ところが、中学・高校の教科書の大半が、戦争の背景にはあまり触れていない。明治維新から太平洋戦争の開戦までわずか72 年。チョンマゲで育った世代がまだ生き残っている時代の出来事である。政治・社会・文化の「近代化」の過程で生まれた歪みが戦争の土壌であり、経済の逼迫が戦争の育ての親だったということは、大学生レベルになって初めて知る。一部の好戦的な指導者たちが勝手をやったその帰結が太平洋戦争なのではない。指導者層の責任を問うなら、合理的な計算や思考を放棄し、偏狭で非合理的な民族主義思想のなかに逃げこんだメカニズムの解明こそ必要だが、多くの教科書は「軍国化」の一語で片づけている。嘘っぱちとはいわないが、悪しき省略である。戦争は悪に決まっているが、人はその悪に染まりたがる。情けない話だが、それも人間が背負った業のひとつだ。その業を批判的に学ぶ契機が、歴史の教科書には存在しない。教科書の世界では、戦争は悪と断罪される他人事にすぎない。好戦的な指導者の悪行に過ぎない。暴言を吐いた横浜の中学生が歴史教科書を熱心に勉強したとは思えないが、彼らの暴言は、歴史教育のなかにある「戦争を他人事」と教える風土と無関係ではないはずだ。戦争は他人事なのだから、被爆者の体験をリアルに感ずることなどできっこない。

が、歴史教育が改善できたとしても、戦争を知らない世代が戦争をリアルに感ずることは至難の業だ。彼らにとって戦争はゲームというフィクションの世界にしか存在しない。中高生を沖縄、広島、長崎に連れ出して、彼らの現実を戦争体験に引きつけようとするのはそもそもシナリオとして無理がある。ますますドメスティック化する(=地元指向を強める)現在の中高生にとって、沖縄、広島、長崎はたんなる非現実である。彼らの現実は地元にしかない。「地元」を飛び越え て、沖縄・広島・長崎の経験をリアルに学習することなんてできっこない。彼らに戦争をより身近に感じてもらうためには、まずは「地元」での戦争経験から想像力を跳躍させてもらうほかない、と思う。

戦争を体験した地域は、沖縄、広島、長崎に留まらない。たとえば、東京での空襲の死者・不明者は約11万人超、今回問題を起こした学校のある横浜の場合でも死者・不明者は約1万人。空襲された都市は全国で200を超える。原爆投下も含めた空襲と沖縄戦に よって全国で50万人を超える死者・不明者が出ている。さらに軍人として戦地で亡くなった人の数は約220万人。外地でなくなった民間人も50万人を超え る。合計で300万人超の死者・不明者が出る戦争をわれわれは経験したということだ。ウルグアイ、アルバニア、モンゴルに匹敵する人口が、4年間の戦争 (とくに最後の1年間)で消滅したのだから、とんでもない戦争だったといえる。

日本のどの地域にも、このとんでもない規模の戦争によって家族や友人を失い、家や財産を失ってその人生を大きく狂わせた人びとがいる。その子孫もいる。どの地域にも必ずといっていいほど戦争の爪痕が残されている。人びとの体験や地域の爪痕を記録している人びともいる。なぜ「地元」や「地元の人びと」に蓄積され、記録された体験を飛び越えて、沖縄、広島、長崎で「平和学習」をしなければならないのだろうか? リアルでないものがよりリアルでなくなるだけではないか? 戦争をめぐる地元での経験をなぜ教えないのだろうか?(文科省と一部教員組合の歴史教育への過剰な介入もその大きな要因だろうが、今回はこれ以上触れない)

いずれにせよ、戦争がゲームの中にしか存在しない世代にリアルな戦争体験を教えるのは難題だが、戦争という不幸を、ひめゆりの塔や爆心地を見せて「国家の犯罪」として糾弾するよりも、家族や親族の犠牲の集積が地域の不幸であり、地域の不幸の集積が国家の不幸となる、という当たり前の事実を丹念に教えること が、教育の使命だろう。その手続きを抜きに、沖縄、広島、長崎に中高生を連れて行っても、戦争体験をいたずらに薄めてしまうだけだ。

朝日新聞デジタル (2014年6月8日)

朝日新聞デジタル (2014年6月8日)

批評.COM  篠原章
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