ゴミ箱に捨てたい民主党「幸福のフロンティア」~古市憲寿さんたちが展開する陳腐な「幸福論」~
「幸福」とは何かがとても気になっている。「社会の基本」や「社会の目的」であるかのように いわれてもいるが、きわめて相対的な、つまり人によって異なる定義を持つ概念である。政府は国民全体の幸福を追求しているというが、それに実態はあるのだ ろうか。そもそも政府は幸福を定義しているのだろうか。
調べたら民主党政権下の国家戦略室にはなんと「幸福のフロンティア部会」という諮問委員会が存在した。「幸福の追求」を具体的なプログラムとして提言している▼。ありがたいことに、民主党はニッポン人の幸福まで、「国家戦略」の一部として踏み込んで、シンケンに考えてくれていたのだ(2012年7月6日付)。
「あんたたちに、幸福なんて考えてもらいたくない」 という影の声も聞こえてはきたが、「幸福」が気になってしょうがないぼくは、その報告書を真剣に読んだ。残念なことに、報告書は幸福そのものは定義してい なかった。が、そこには「目標とすべき40年後の幸福な日本社会」が描かれていた。
日本の「あるべき 2050 年の姿」は、国民一人ひとりの自己実現を通じて、幸福感と将来への希望を持ち、人間としての「尊厳ある生」を実現できる条件が整っている社会である。 (同報告書 p.2)
要するに<格差がなく誰もが自己実現できる社会>が 理想とされているのだ。もっともらしい社会観だが、少なくともぼくにはくすぐったいばかりで、リアリティはほとんど感じられない。科学性(客観性)が見い だせないだけでなく、文学性(その社会に暮らす人間の姿)も見えてこない。もちろん哲学的でもなければ、経済学的でもない。曖昧で安っぽい政治理念の垂れ 流しにすぎない。「絆」という言葉を多用されたときのような、あるいは、少女の無垢な正義感に対峙したとき のような、逃げ場のない違和感が心を支配する。ロック・スターに「愛しあってるかい?」と呼びかけられるのは嬉しいかもしれないが、この場合、「愛して あってるかい?」と呼びかけているのは、おじさん・おばさんの学識経験者たちだ。そう考えると、吐き気さえ覚える。ふざけやがって。
政府の諮問委員会の報告書なんてそんなものさ、と知ったようなことをいうこともできる。ありがたいご託宣だが、形式みたいなものさ、という評価もあるだろう。だが、この報告書を作成しているのは、民主党の目玉の一つだった「国家戦略室」の一部門である。
幸福を考えるなら、実証的・分析的な証拠を並べ立て てやるか、哲学や宗教の領域に入り込んだ緻密な議論が必要だ。そんなのは常識というか常道ではないか。「幸福」や「希望」を所与の概念としたいい加減な議 論など、そこらじゅうの酒場で夜ごと展開されている。大学の卒業論文程度の、よくいっても修士論文の下書きみたいなモノを政府の一部門の報告書として読ま される苦痛は置いておくとしても、これが日本国の公式機関の示した「幸福への道程」だとすれば、頭の程度を疑われる。経済大国の示したこの「幸福な社会 観」に欠けている最大のポイントは「世界認識」なのだ。ここでいう「世界認識」とはたんなる国際情勢なんかではない。この世界の成り立ちと現状に対する洞 察である。研究者が参加している以上、その欠落は許容されない。端的にいってしまえば、そこにあるのは、(陳腐な)政治的理念=スローガンだけなのだ。
報告書に書かれている2050年の日本の姿は二通りだ。(1)「現状がそのまま続いた場合の日本」の姿、(2)「問題を克服した理想的な日本」の姿である。
(1)現状がそのまま続いた場合の日本の姿(報告書 pp.1-2)
人口 減少と高齢化を背 景に経済は低迷を続け、社会不安が常にくすぶっている。かつてから指摘されていた貧困 と格差は深刻化し、様々な意味で国民を分断する。不安定で劣悪な労働を強いられる貧困 層はスラム化した地域に住み、自尊心を失っている。裕福な人々は分厚い門扉と塀で守ら れた「城郭街」の中に住み、貧困層とは断絶されている。社会保障を巡る若者と高齢者の 世代間対立も激化している。過剰なストレスによる精神疾患も増えるばかりである。強い 抗うつ薬が開発されたが、人々は目の前の一日を過ごすのが精一杯である。職を得られな い若者は自殺に高齢者は犯罪に走るというのが社会病理の定式だ。単独世帯が急増し、家 族の崩壊や育児のネグレクトの件数も下降する兆しはない。人間関係は劣化し、人々の信 頼感は薄れている。家族やコミュニティを基礎としていたかつての「絆」はごく少数の恵 まれた人のみの特権である。格差社会の過剰なストレスは、裕福層にも貧困層にも影響を 与え、うつなどの精神疾患を抱える人の割合は増え続けている。
政府 の役割は、縮小し続けている。教育、医療、介護、保育といった現物サービスの質 の低下は著しく、多くの人々の基礎ニーズも満たされなくなった。もっとも大きな影響を 受けたのが地方である。ごみ収集といった基本的な行政サービスすら放棄した地方自治体 も多い。毎月のように、いくつもの集落が消滅した。一方で、貧困層は増え続け、生活保 護など公的扶助の受給者は増加し続けている。しかし、厳しい財政の中、給付水準は切り 下げられ、一旦、貧困に陥った人々が再チャレンジできる術はない。労働力人口はますま す低下し、政府は移民を受け入れて介護などのサービスの担い手を増やそうとしたが、日 本に来たいと思う人は少ない。負担を分かち合い、社会保障を支えようという国民意識も 希薄である。裕福な人々は政府に期待せず、民間からサービスを購入している。その一方、 貧しい人々は十分なサービスを得られていない。
世界 全体では人口爆発により食料の確保が難しくなり、かつての食料輸出国もいまや食 料確保に躍起になっている。気象災害が頻発し、世界には環境難民が溢れ、海外市場の混 乱に伴い日本の外需も乏しくなっている。国内では、安価だった安全な水ですら入手困難 な時がある。食料自給力が低く経済力も衰えた日本には、国民に安全な食料を確保するこ とすら覚束なくなった。それゆえに健康にも生まれたときから格差が生じる。富裕層には 安全な食料も高額な医療サービスも買えるが、貧困層にはそれができない。裕福な人ほど 長寿となり、貧しい人ほど短命となった。教育の質も金で決まる。裕福な家庭は金はかか るが質の良い私立の学校に子どもを行かせる。貧困層の子どもは劣悪な公的教育を受ける しかない。
貧困 層の子どもたちは自分の努力で裕福になれるとは思っていない。そうした子どもたちの「夢」はゲームの世界にしかない。成功したり、失敗したり、コ ミュニケーションを とったり、「とりあえずの満足感」が得られるからだ。このような社会だから、子どもの数 が減り続け、ついに合計特殊出生率は 1.0 を下回った。
通信 技術の発達により、世界中どこにいてもビジネスができるようになった。技術革新 は言語の障壁をも解消した。だからこそ、治安の悪化や社会不安を嫌い、日本を去る者が 増加するばかりである。特に、才能のある若者はチャンスを求めて海外に流出する。豊か な高齢者は、縮小に縮小を重ねた公的年金給付や医療・介護サービスに不満を募らせ、外 国で老後を送る選択をしている。もはや日本に魅力を感じるものはいない。
ありうる未来像といえばたしかにそうだ。だが、なぜ そうなるのか、というデータの提示やそれにもとづく分析はない。いいたいことはわかるが、「政治理念なのに政治的要素に対する配慮がない」という点にはあ えて目を瞑るとしても、これほどの貧困が蔓延する社会がなぜ生みだされたのか、その原因が明示されなければ、未来像は描けないはずだ。ありきたりの統計表 は添付されているが、理屈の裏付けはほとんどみられない。世界経済に対する視点もほぼ皆無だ。真理かどうか別として、「幸福な未来像」を提言する報告書 に、事実上現状分析が欠けている。現状を前提とした未来は描くのに、現状分析がない。ふざけた話だ。では、「理想的な日本」はどう描かれているのだろう。
(2)「問題を克服した理想的な日本」の姿(報告書 pp.2-3)
日本の「あるべき 2050 年の姿」は、国民一人ひとりの自己実現を通じて、幸福感と将来 への希望を持ち、人間としての「尊厳ある生」を実現できる条件が整っている社会である。 「全員参加型社会」の理念に基づき、高齢者や障がい者、育児・介護などのケア責任があ る人なども含め、すべての人が自己の潜在能力を最大限発揮でき、自他ともに存在価値を 認められ、就労をはじめとするさまざまな社会参加が実現している。
この社会を可能とする前提条件として、すべての 人々に対して「基礎ニーズ」が保障さ れている。人々の能力の発展を抑制する貧困は削減され、機会の平等が確保されている。 特に子どもに関しては、早いうちから貧困の削減目標が設定され、子どもの可能性の選択 肢が、親の経済状況によって狭められることがないように教育や社会保障制度が再設計さ れた。
また、差別の撤廃、フレキシブル就労の徹底、また 家事、仕事、医療・介護・教育分野 におけるテクノロジーの発展によって、各個人に合った働きやすい社会が創り出されてお り、女性就労率のM字カーブや本人の希望を問わない定年退職、障がい者の就労率低迷な どは解消した。就労率は全年齢で上昇し、同時に、勤労世代であっても育児・介護や学び 直し、コミュニティ活動や社会的起業(社会的企業の設立など社会問題の改善をはかる事 業を起こすこと)などのために一時的に就労から離れることも可能となる社会環境が整っ ている。人々は、いつでも自分の潜在能力を高める機会を得ることができ、結果として、 労働市場や社会から離脱する人々は激減し、生活保護などの受給者数もごくわずかに抑え られている。正規・非正規の壁はなくなり、雇用は流動化しているが、生活は安定してい る。誰でも何度でも学び直し、働く機会、社会に参画する機会が与えられている。すべて の人に自他ともに認められた「役割」と「居場所」がある。
教育においては、偏差値偏重ではなく、表現力、創 造力、包容力、コミュニケーション力と同時に各個人固有の能力を伸ばすことに重点が置かれ、それに合わせて教員養成制度 や入試制度も改革された。職場でも教育現場でも、多様な人々の育成と交流が促進されて いる。地域における交流も活発化し、対立しがちであった世代間の相互理解を促している。
これらの政策を財政的に支えるために、負担は高まっているが、財政は安定している。成長戦略の実現による経済成長と、歳出削減と負担増による財政健全化が着実に進み、プ ライマリー・バランスは黒字化した。
政府は、最低限の生活の保障のために、財政健全化や 社会保障制度の再設計が必要であり、そのためには応分の負担が不可欠であることを何度も説明した。特に社会保障の見え る化により、個人と社会をつなぐ受益と負担の構造が分かりやすく示された。その結果、 国民は政府に求めるサービスのレベルに応じた負担が必要であることに納得している。財政健全化が安心をもたらし、リスクを分散し負担を分任す ることが社会保障を持続させる という意識が国民に浸透した。この合意形成の背景には、就労率が大幅に上昇し、負担を 支える「分厚い中間層」が形成されていることがある。
また、従来の家族とは別に、血縁に頼らないさまざ まな形態の家族的な共同体(「かぞく」) も広がりをみせている。年齢や職業、家族形態などさまざまな人々が生活スペースを共有 する居住形態の普及や、「コミュニティ食堂」や「屋台村」など、地域の人々が日常生活の 中で自然と交流する場が増えている。子どもの見守りなどは自然とこのような共同体のな かで行われるようになり、「孤立死」などは極めて珍しいケースとなっている。出生率も人 口規模を維持できるほど回復している。家事など無償労働の外部化により、起業や就労の 機会も増えている。
地方分権の進展により、地方自治体はその地域にあっ た形で、生活スペースの共有や交 流を推進し、人々の「居場所」を確保する街づくりが進展している。多くの都市では、コ ンパクト化を目指す都市政策によって行政サービスの効率性が高まり、財政や環境の持続 可能性も向上している。また、安全保障の観点から、食料やエネルギーに関しても、地域 による生産と消費を含め、多様な生産形態の試みがなされており、これらの面でも持続可 能な地域があらわれている。
すべての人々が誕生から死に至るまで、「尊厳 ある生」を実感できる社会が実現している。 超高齢社会を迎えながらも財政健全化と経済成長を実現し、随一の資源である人材育成に 力を注ぐことで「社会の持続可能性の向上」をはかり、守られる側から守る側の自立した 人々を増やしてきた日本は、いまや少子高齢化に悩む他国の模範となっている。日本が発 展させてきたテクノロジーや社会制度は各国に輸出され、日本は世界の「幸福」に貢献す る国として脚光を浴びている。
以上が「幸福に満ちた国・日本」の姿である。<人と 人との絆が社会の基本>だという考え方が底流にあることはわかるが、異論も唱えようがない、そんなバカみたいなご託宣を<みんなで共有すれば幸せになる> といわれても、「ざけんじゃねえ」と絡みたくなるだけだ。またまた「絆」かよ。いい加減にしてくれ、と叫びたい気持ちを抑えるだけで大変だ。「絆」とやら があれば、みんなが幸福になれるのか。最大多数の幸福とはそんなもんなのかい?
具体的な日本の姿は書き込まれてはいるが、その割に 数値的な目標もない。そのこと自体は責めるべきコトではないが、なぜ彼らが描く未来像が「幸福」と呼べるのか、その説明はほとんど見あたらない。「これが ホントの幸福なんだからさ、この通りに実現しようよ」といわれても、幸福の基準、希望の基準が明確に示されてはいないのだから、説得力は乏しい。
要するに「現状を前提とした2050年の日本」も 「問題を克服した2050年の日本」も、子どもがシミュレーションゲームで造りあげたような、安っぽいSFの世界である。はっきりいって「気色悪い」だけ だ。データもろくに明示されなければ、思想性や歴史性の検証もないまま描かれた未来なんて、誰が信ずるものか。百歩譲って、これはチープな政治理念以外の ナニモノでもない。こんな稚拙な報告書を書いたのはいったいどんな連中だろうか。
<幸福のフロンティア部会 委員>
◎ 阿部 彩 国立社会保障・人口問題研究所社会保障応用分析研究部長
○ 上村 敏之 関西学院大学経済学部教授
石戸 奈々子 特定非営利活動法人CANVAS理事長
國光 文乃 独立行政法人国立病院機構本部医療部医療課長
玄田 有史 東京大学教授 社会科学研究所
小宮 恵理子 農林水産省消費・安全局総務課課長補佐
小室 淑恵 株式会社ワーク・ライフバランス代表取締役社長
永田 良一 株式会社新日本科学 代表取締役社長
新田 嘉七 株式会社平田牧場 代表取締役社長
野口 健 アルピニスト
福島 智 東京大学教授 先端科学技術研究センター(バリアフリー分野)
福嶌 教郷 国土交通省航空局航空ネットワーク部航空ネットワーク企画課企画調整官
古市 憲寿 東京大学大学院博士課程(計13名) ◎印は部会長 ○印は部会長代理
同部会にはには4人の大学研究者が関わっているが、 その代表たる部会長代理の上村敏之関西学院大学教授は、財政に詳しい経済学者である(知人だ)。通常は大学の研究者が報告書の執筆に主体的な役割を演ずる が、上村さんがこの提言を書いたとはとても思えない。少なくとも研究者としての知見と良心に裏づけられたものではないからだ(だからといって上村さんを免 責するつもりはない)。
報告書において幸福や希望の裏づけとなっている最大 の政策は「貧困の撲滅」である。それ自体に反論しようとは思わない。ぼくも貧困は諸悪の根源だと思っている。だが、貧困が生まれる構造的な要因はほとんど 分析されていない。貧困撲滅の処方箋については、「政府による(再)分配政策の推進」を唱えるだけで、財政や経済の全体像への視線がほとんど欠落してい る。失礼ながら「幸福の科学」でさえ、これほど稚拙な論は展開していない。
上村さんでないとすれば、委員の顔ぶれからいって、 執筆の中心になったのは東京大学大学院生の古市憲寿さん以外考えられない。NHKのコメンテーターとしても活躍する若手の研究者だ。彼のNHKのニュース でのコメントにはハッとさせられることもあるから、ぼくは彼のことをけっして嫌いではない。だが、社会経済の闇を生みだしているシステムが同時に社会経済 の光ともなってきたという、システムの多義性・多層性を明らかにしないかぎり、幸福についても希望についてもけっして語れない。彼にはそうした認識が圧倒 的に不足している、と考えざるをえない。もちろん、彼の認識不足に気づかない上村部会長代理以下、同部会に参加している専門家の責任は大きい。
民主党政権下で生みだされた「幸福な社会像」だか ら、民主党の凋落とともにゴミ箱へ捨てられたかというと、おそらくそうはならないだろう。民主党時代に成長を遂げた鵼(ヌエ)のような政治的理念は、今も 日々大学から発信され、メディアに拡散している。ぼくはそれを「知の否定」現象だと思っている。なにも学者は「オーソドックスたれ」などと説教しているの ではない。「人と人は絆で結ばれている」という安直な理念と「再分配という単一政策」が結びついたとき、そこに透けて見えてくるのは、55年体制脱却を叫びながら実は55年体制に拘泥する旧態依然たる左翼的観念である。現 代においてもっとも保守的な政治理念として機能している亡霊のような観念だ。「情報化」というアクセサリーをぎらつかせているから、一見「新しい装い」を まとっているように見えるが、本質的には明治以降の日本の知的伝統も、そして「大衆」の存在も舐めくさった知的な大悪無道である。ご本人たちがそれを自覚 していないから、ますます始末に負えない。
こういう人たちは、ちょっとしたボロが出ることで、 その本質がばれてしまう。そんな連中をいちいち相手にしていたら、いくら時間があっても足りないと思うが、目の当たりにしたらけっして放置はできない悲し い性分だ。ぼくもゴロツキみたいなものだが、政治やメディアに寵愛されるゴロツキには、しっかりと鈴をつけておきたい。