リブートした喜納昌吉—39年ぶりのシングル「富士山Japan」の衝撃
問題作「富士山Japan」
「富士山Japan」はかなりの衝撃作であり、問題作でもある。沖縄人あるいは琉球人の歴史と精神性(魂)を重んじ、ときには「琉球ナショナリズム」を思わせる主張も繰り返してきた喜納昌吉が、よりにもよって日本の象徴ともいえる富士山をテーマとしているからだ。しかも、「富士山Japan 日本の心」「富士山Japan 日本の力」という言葉を朗々と歌い上げている。さらに決定的なことは、これまで日本(本土)の伝統にはない琉球音階を使った作品ばかり発表してきた喜納昌吉が、日本(本土)で発展し、演歌などで多用されるようになっている「呂陰音階」あるいは「ヨナ抜き短音階」に挑戦して楽曲を創ったということだ。これを聴いて、なかには「琉球人だった喜納昌吉が日本人になってしまった!」という印象を抱くリスナーも少なからずいると思う。「喜納昌吉は沖縄を捨てた!」「喜納昌吉は変節した!」という批判も起こりうるかもしれない。
DNAを調べたら純粋な日本人だった!
9月4日の発売日にシュビア赤坂で行われたコンベンションおよび記者会見でもこの点に関心が集まり、沖縄県内で発行される新聞の記者からは「なぜこの歌を歌うことになったのですか」という質問が飛びだしている。
喜納昌吉は、「富士山Japan」はもともと他のアーティストへの提供楽曲として書かれたものであること、依頼を受けて作曲の段階で煮詰まっている時期に、誘われて富士山に登ったら富士山からちょっとした「啓示」を受けたこと、事情により企画がお蔵入りした後、関係者から喜納本人が歌うよう強く勧められたことなどを経緯として説明し、次のように「動機」を話した。
「喜納昌吉は沖縄では受け入れられてこなかった。今年になって退役した米軍人からDNA検査を勧められ、実際に検査をしてみたら〈純粋な日本人〉であることがわかった。今まで生粋の琉球人のつもりで生きてきたが、日本(ヤマトゥ)人であるといわれてもの凄くショックを受けた。でも、自分が沖縄に受け入れられなかった理由もわかった。喜納昌吉はヤマトゥだったからウチナーで受け入れられなかったんだと」
記者諸氏は納得していないふうだったが、喜納昌吉は自身の気持ちをおそらくかなり率直に話したのだと思う。だが、「DNA検査」の話は喜納昌吉の人生の長いストーリーのほんの一部を象徴的に紹介したにすぎない。おそらくDNA検査がなくとも喜納昌吉は「富士山Japan」を歌ったに違いない。「喜納昌吉の心についていけない沖縄」と「喜納昌吉の立ち位置を政治的に固定したい日本」の問題を喜納昌吉はまったく説明していないから、「富士山Japan」を歌うに至った本当の経緯が見えにくくなっているのだ。
喜納昌吉のコスモポリタニズム
これに対して、「それはおかしい。喜納昌吉は琉球民族の自己決定権を唱えているではないか?コスモポリタンではなくナショナリストだ」という反論もあろう。が、それは一面的な見方にすぎない。喜納昌吉は、「日本に対峙する沖縄(琉球)」という図式を活用しながら、「自らを統治する」「人として自律する」という覚悟と経験を沖縄の人びとに求めたのではないか。たしかに喜納昌吉は「沖縄VS日本」という対立の図式を描いた。これを「米軍や日本政府の造りあげた支配体制への反発・反抗」と捉えるのは簡単だ。しかしながら、歴史が証明するように、現実には「反発や反抗あるいは革命が成就すれば大衆の幸福が訪れる」という保障は一切ない。特定の権力への「反発・反抗」あるいはその裏返しとしての「盲従・依存」という視点に留まっていたら、次なる新しい支配体制が確立したとき同じことが繰り返されるだけである。喜納昌吉のいう「琉球民族の自己決定権」とは、他律的(受動的)でない姿勢を沖縄の人々に求めるものであって、対立を煽り、対立状態を続けることを推奨するものではない。もちろん政治的な策略でもない。「自律的な人間」の集合体を築き、日本(ヤマトゥ)を含めたあらゆる人々、あらゆる地域と平等で対等で自由な関係を確立するための出発点なのである。
かといって、ぼくは喜納昌吉のこうした理念あるいは理想をまるまる受け入れたいとは思わない。理念や理想はしばしば現実に敗北し、人々に夥しい犠牲を強いることがあるからだ。が、はっきりいえることはある。喜納昌吉に狭量で排他的なナショナリズムを感じたことは一度もない。喜納昌吉が「対決の連鎖と拡大」を推し進めていると感じたことも一度もない。彼は人を愛し、この世界を愛し、人々の不幸が少しでも和らげられることを願っているからこそ、やりきれないエピソードがこめられた「ハイサイおじさん」を満面の笑顔で歌い、彼の理想を体現する「花」を泣きじゃくりながら熱唱してきたのである。喜納昌吉は、人々と世界に対してつねに公平であり、美徳も悪徳も等しく受け入れる男である。この点は掛け値なしで保証してもよい。
喜納昌吉を理解できなかった沖縄
だが、人々は喜納昌吉の歌は口ずさんでも、彼の心の裡(うち)まで理解しようとはしなかった。無論、喜納昌吉自身にも原因がある。彼の発する言葉が刺激的で挑発的だったからだ。早口でまくし立て、トピックは高速で変転していく。ときとして強い怒りをこめ、論敵に対して容赦ない言葉を浴びせかける。喜納昌吉と向き合い、自分の心の闇を突かれた者は、「触らぬ神に祟りなし」といった姿勢を取るようになってしまったと思う。思想的あるいは党派的な思惑から喜納昌吉に近づき、彼を利用しようとする者は残ったが、その心を理解する者はけっして多いとはいえなかった。「沖縄では受け入れられなかった」という喜納昌吉の言葉は、率直な感情の吐露であったと思う。
2014年の知事選挙の翌日11月17日のことだ。翌年1月に出版される小著『沖縄の不都合な真実』の最終校正に勤しんでいたぼくは、なぜだか居ても立ってもいられない気持ちになり、朝目覚めるなり羽田発那覇行きの午前便を予約し、あまり親しくもなかった喜納昌吉に会いに行った。国際通り沿いにある事務所に赴き、少しばかり消沈した喜納昌吉の顔を見るなり、なんとも不躾な言葉を投げかけてしまった。
「喜納さん、おめでとうございます。7821票も取れましたね」
嫌味ではない。あのときぼくは本気でそう思っていた。そのひと言がいいたくてわざわざ沖縄まで足を運んだのである。4人も立ったあれだけ厳しい選挙で喜納昌吉に投票した人々は、喜納昌吉の心情を心から理解していたに違いない。真の理解者が7821人もいるというのは誇るべきことだ。喜納支持者は、既成の価値観から解き放たれた人々である。
喜納昌吉は一瞬戸惑ったような表情を見せたが、「7821票しか取れなかったと思っていたけど、たしかにその通り。7821票も取れたってことなんだね。捨てたもんじゃないな」といってすぐに笑顔を取りもどした。
知事選敗戦から学んだもの
実際は酷くショックだったと思う。約70万人の投票者のうち、喜納昌吉に投票した者はわずか1・1%だ。が、喜納昌吉はこの選挙を通じて多くのことを学び、その後大きく「進化」したというのがぼくの見方である。「沖縄VS日本」「琉球民族VS日本民族」といった図式にこだわるよりも、対立軸を解消するために何をなすべきかということを重視するようになった。「Aを取るのか、それともBを取るのか」という二者択一の議論では何も生まれない。日本であろうが沖縄であろうが、皆が等しく美徳も悪徳も抱えている。善悪を決めるのが我々の仕事ではない。善悪を超克する視点を生みだすことのほうが重要だ。そのためには自分自身が文化的にもっと開かれなければならない。喜納昌吉がそう考えるようになったとしてもまったく不思議ではない。喜納昌吉はコスモポリタニストとして「仕切り直した」のだ。まさにリブート=再起動の始まりである。
その1つの成果が「富士山Japan」なのだとぼくは考えている。沖縄というステージに拘るのではなく、より広いステージへ。政治というステージではなく、「歌」(文化)というステージへ。琉球音楽というステージではなく、日本音楽というステージへ。「琉球を放逐された昌吉が日本の象徴である富士山を乗っ取ろうとしている」という見方もありうるが、喜納昌吉の実像はそれほど小さくない。強靱になったコスモポリタニズムを新しいステージで実践しようとしていると見たほうが適切だ。文化と文化の軋轢や相剋を強調するのではなく、文化と文化の境界を取り払う作業に転じたのである。
「富士山Japan」に対して、「ナショナリズム」「民族主義」「転向」「変節」「背信」といった、ネガティブな言葉を使ってその真価を歪めるような言説を展開する人々は出てくるだろう。
「日本人のDNA」という発言に対しても同様の批判が向けられるだろう。だが、言葉を表面をなぞることに意味はない。彼は「琉球人」の誇りを捨てたのではなく、沖縄と日本の境界に立つことをあらためて自覚したのである。もっといえば「血統」へのこだわりを自ら解放したのだ。
五輪に向けて疾走する喜納昌吉
喜納昌吉は近く38度線で歌うという。日韓対立が深刻化するなかで彼が歌うのは、韓国政府のためでもなければ、北朝鮮政府のためでもない。国境という存在や国家間の係争がもたらすを不幸を乗り越えるための文化的な営みである。彼の歌は世界じゅうの人々の心に向けられており、取り残された少数者に福音をもたらそうとするものだ。同時に韓国や北朝鮮の指導者に対する鋭い刃ともなりうる。特定の党派的・思想的な背景は一切ない。
そして来たるべき2020年。アトランタ五輪、北京五輪などの舞台で熱唱してきた喜納昌吉は東京五輪・パラリンピックのために歌うはずだ。五輪を通じた世界平和観やその土台にある国連中心主義に懐疑の目を向ける人は多いが、五輪は多くの人々が「世界主義」(コスモポリタニズム)の理想に自らを重ね合わせることのできる希少な機会である。
喜納昌吉は2020年も「富士山Japan」と「花…令和バージョン」を力強く歌いつづけるだろう。経済的豊かさと背中合わせに訪れたグローバリズムがもたらす荒廃と過剰な政治的なリアリズムがもたらす分断の波に、喜納昌吉は1人の歌手として闘いを挑んでいる。歌手として闘うと決めた喜納昌吉に、政治的な立場からの批判を加えることに意味はない。この世界をLove & Peaceのコスモポリタニズムによって救い出そうという喜納昌吉の闘いを嗤うことは簡単だが、閉塞された状況のなかで荒廃と分断の辛苦に喘ぎ、ようやく命を繋いでいる人々に手を差し伸べられる機会と手段は限られている。今こそ「音楽の力」を見せつけるときだ。
喜納昌吉71才。いよいよ最後の闘いが始まった。
※1 シングルそのものはいくつもリリースされているが、多くは民謡などのカバーか既発作品のセルフカバー。自作オリジナルの「新曲シングル」のリリースは、「ハイサイおじさん」(1977年)「花」(原題「すべての人の心に花を」・1980年)に次いで、「富士山Japan」が3作目となる。1978年に「東京讃美歌/島小ソング」が出ているが、発売当時「東京讃美歌」は照屋林助作品とクレジットされていたので、ここでは自作オリジナルにカウントしていない(後日、喜納昌吉作品に変更されている)。1980年6月には「花」を含むアルバム『ブラッドライン(Blood LIne)』がリリースされ、同時発売でシングル「すべての人の心に花を/ヤンバル」が発売されている。このアルバムおよびシングルのリリース時には、「花」ではなく「すべての人の心に花を」が正式タイトルだった点には注意を要する。なお、LP『ブラッドライン』とシングル「すべて人の心に花を」は、ポリドール内の日音のレーベル「TIME」からのリリースである。こちらで確認したところでは、TIMEレーベルのファースト・リリースは、元寺内タケシとブルージーンズのメンバーだった西村協の「シー・ユー・アゲイン」(1980年・DZQ1001)だと思われ、シングル「すべて人の心に花を」(DZQ1002)がセカンド・リリースだった。TIMEレーベルからのLPのリリースは、『ブラッドライン』(28MZ1001)以外に確認できなかった。
※6 東海林良には、柳ジョージ「祭ばやしが聞こえるのテーマ」、小林旭「さらば冬のカモメ」、石川さゆり「沈丁花」、西城秀樹「あなたと愛のために」、中村雅俊「表通りは欅通り」、渡辺真知子「唇よ、熱く君を語れ」、木之内みどり「横浜いれぶん」「無鉄砲」「一匹狼 (ローン・ウルフ)」の三部作などのヒット作があるほか、萩原健一、内田裕也、ジョニー大倉などのロック・シンガーにも多くの楽曲を提供している。