ジャニー喜多川の「少年愛」は犯罪か?
BBCのドキュメンタリーをきっかけに、亡くなったジャニー喜多川に対する「告発」が続いている。
だが、バランスのとれた視点は、ほとんどどこにも見られない。ぼくの知るかぎり、三浦小太郎さんが注目した漫画界の「ボーイズラブ」という問題提起ぐらいだ。これは少女(女性)の想像力の世界と密接な繋がりがある。
入り乱れていると思うのは、
1.少年を被害者とした「性被害」という視点
2.少年に対する成人男性の肉体的な性的関心
3.成人男性の少年に対する「少年愛」という視点
4.少年の成人男性に対する性的関心
などのポイントである。
ジャニー喜多川のもたらした「性被害」の背景には、ジャニー自身の「少年に対する肉体的な性的関心」や「少年愛」がある。これは、ジャニーの性的嗜好であると同時に目下話題になっているLGBTQ法案とも関係が深い。「多様性の尊重」という人権の根本概念に直結する。
ただし、ここで問題なのは、相手が少年(中学時代のカウアン・オカモト)であって、「成人男性(ジャニー喜多川)に対する性的関心」を持っていないと見られるところだ。明らかに児童福祉法違反であり、各県ごとに定められている淫行条例違反である。はっきりいって刑法犯だ。「淫行」とは汚い言葉で、ジャニーにその意識はなかったとは思うが、「後ろめたさ」はあったとは思う。でなければ、(フォーリーブスの)北公次などの「告発本」(北公次『光GENJIへ〜元フォーリーブス北公次の禁断の半生記』)を無視するような反応は示さなかったはずだ。身に覚えがなければ、名誉毀損で訴えるという手段を行使したと思う。
「淫行」というと一時的・肉体的な犯罪行為に思えるが、被害を受けた少年の側からすれば、生涯付いて廻る「心の傷」がある。ジャニーが相手をモノ扱いしたのかどうか立証できないが、カウアン・オカモトの場合十数回に及んだというから、そこに「愛」はあったかもしれない。その場合「情状酌量の余地」はあるだろうが、「とっかえひっかえ」という疑いは拭いきれない。
「少年愛」という切り口に注目すると、トーマス・マン『ヴェニスに死す』(1912年。のちに映画化された。1971年公開の『ベニスに死す』)が良く知られているが、ギリシア・ローマ時代を経て近代に至るまで「愛のかたち」「性のかたち」としては「あり」とされている。日本でも、奈良時代以降「男色」という性文化が定着しており、江戸時代の「陰間茶屋」や徳川綱吉の「お小姓好き」は有名だ。
戦後日本では、稲垣足穂、三島由紀夫、川端康成、折口信夫など多くの作家が、「少年愛」をテーマとした作品を残しているが、対立概念としての「LGBTQの人権」と「少年(少女)の人権」のあいだの関係は、「未成年に対する性的暴力は、その後のPTDS(あるいは暴力の連鎖)を考えるとけっして許容されない」という常識に置き換えられている。もはや「少年の成人男性に対する性的関心」が顧みられることはけっしてないだろうし、同じように経済的・社会的動機に着目した「少年の成人男性に対する性的関心」もすっかり覆い隠されており、「性文化の多様性の否定」だという反論はどこにも見られない。
ジャニーズ事務所は、長いこと女性のための男性アイドルの宝庫だったが、ジャニー喜多川の少年に対する「愛と美のまなざし」がその背景にはある。男女問わず「性被害者」の人権が「愛のかたち」より重視される時代が到来するとは、ジャニー喜多川もまるで考えなかったのではなかろうか。