正月考
「正月」というのは、考えてみれば不思議な“制度”だ。暦が一枚めくられただけで、人は昨日までの失敗や停滞を「去年のこと」として棚上げし、今日からは新しい自分が始まると半ば本気で信じる。合理的とは言い難いが、この非合理さこそが正月の本質なのだろう。
もっとも、社会の側は正月だからといって態度を変えたりしない。会社は去年と同じ組織図を維持し、役所の書式は変わらず、物価も税金も新年だからといって急に安くなるわけではない。変わるのはカレンダーと挨拶文だけだ。それでも人々は「心機一転」という言葉を使い回し、何かが始まったような顔をする。この集団的な演技を、ぼくは嫌いではない。
正月の挨拶には独特のフェイク観がある。「本年もよろしくお願いします」という言葉は、具体的な中身をほとんど持たない。だからこそ安全で、広く流通する。誰もが同じ言葉を使い、同じ所作を繰り返すことで、社会は一度だけリセットされたフリをする。実際にはリセットなど起きていないが、「起きたことにする」ことで一年を回し直す。この擬似的な再起動がなければ、ぼくたちは惰性の重さに耐えられないのかもしれない。
新年に「目標」を立てる人は多い。だが、その多くは春までに忘れられる。これは意志の弱さではなく、目標というものが本来、日常の中でしか定着しない性質を持っているからだ。正月に立てた目標が消えるのは、正月が非日常だからである。非日常で生まれた決意は、日常の摩擦にかぎりなく弱い。
それでも正月が無意味だとは思わない。むしろ逆で、正月は「何も変わらないことを確認する」ための儀式なのだ。年が改まり、挨拶を交わし、それでも世界が連綿と続いていることを確かめる。その確認作業が終わって、ようやく人は現実と折り合いをつけられる。
新春に必要なのは、大きな希望でも派手な決意でもない。去年と同じ現実を、少し距離を置いて見直す視線だろう。正月は未来を語るための時間というより、現在を点検するための間(ま)である。この間をどう使うかで、その年の思考の質は、案外決まってしまう。
今年もまた、世界は連続していく。だからこそ、焦らず、期待しすぎず、しかし目を逸らさずに一年を始めたい。正月とは、希望を抱く日というより、覚悟を静かに整える日なのである。
