報告と感想 :「すべての武器を楽器に ♪ クロス・フォーラム2025 ♪ 」に参加して

 

11月16日に開催された「すべての武器を楽器に♪クロス・フォーラム2025 終戦・被ばく80年×少女暴行事件30年」に出席し、「普天間・辺野古問題の核心―止まれない国と終われない抵抗」というテーマで登壇してスピーチした。

登壇者のほとんどが沖縄出身の論者。彼らの多くが政府の沖縄政策に対して対決する意思を示すなかで、本土出身のぼくは、「政府の沖縄政策には大きな疑問を抱いているが、沖縄の側にも問題はあり、政府と激しく対決することはけっして解決には繋がらない」との立場を取る、ほぼ唯一の論者だったと思う(那覇市議の上里直司さんはぼくの立場に近いが…)。直前に論題変更を求められたこともあり(当初は「公民権運動とコザ暴動」といった話を準備していた)、他の登壇者や聴衆に十分届くような話はできずに終わった。

歴史的経緯を顧みると、「政府と対決してその方針を一変させればすべて解決する」と考えたくなるのもわかるが、だからといって、1990年代末に、辺野古受け入れを表明した比嘉鉄也名護市長、その後任として政府と交渉した岸本建男市長、このふたりをサポートしながら辺野古受け入れを容認した稲嶺惠一沖縄県知事の数々の「苦渋の決断」を、批判したり、軽視したりすれば、「沖縄には民主主義がない」というブーメランが返ってくることになる。なぜなら、こうした政治家たちも民主的な投票によって、沖縄県民・名護市民に選ばれているからだ。

「本土の側に構造的沖縄差別」の姿勢がある以上、「政府に屈した首長は単なる傀儡(米国の公民権運動のなかでしばしば用いられたことはでいえば「アンクル・トム」)だ」というなら、「傀儡」の根拠を明確に示さないといけない。思想的には同調できない点もあるが、石原昌家さん(沖縄国際大学名誉教授)は、「諸悪の根源は日本にあり」とする論拠をいまも地道に探し求めているという点で、実に尊敬に値する研究者である。が、他の登壇者のほとんどが、風聞や憶測、政治的な思惑などに立脚して持論を展開しているように思われてならなかった。

政府と対決するなら、沖縄の内にある矛盾や自己撞着を認め、それを深く分析したうえで政府を批判してほしい。ぼく自身も政府の方針の矛盾を抉り出しながら、オール沖縄や沖縄独立論を批判しているつもりだ。政府や自民党の幹部にとって「耳障りのいい話」だけを展開しているわけでは、けっしてない。

とはいえ、ぼくのような「異論」を受け入れてくれた(聴いてくれた)登壇者と聴衆の方々には感謝したい。これまで沖縄で開催されるシンポのほとんどは、右も左も「同調者の意思確認」「傷のなめ合い」だった。異論を唱える論者をまじえた、このようなかたちでのシンポジウムができるようになっただけでも、沖縄の状況は改善されたのではないかと思う。

※シンポジウムにおける篠原配付資料のリンク(朝日新聞掲載「日本のシステム問う沖縄の〈独立〉構想」-1996年)

 
批評.COM  篠原章
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