求められる沖縄振興策の転換−−−「与えられる自治」から「稼ぎ取る自治」へ
なぜか。それは権限が「執行」に限定され、「設計」には踏み込めないからだ。交付金は、何をするかではなく、与えられた枠内でどう使うか、という自由しか与えない。施工業者にはなれても、設計者にはなれないということを意味する。自治とは本来、「選択」と「執行」が一体化した政治的権能であるにもかかわらず、その中軸である“決定権”が付与されていない。この断絶こそが、一括交付金が自治に転化できない構造的理由である。
しかし、「従属」は政府から一方向的に押しつけられているわけではない。ここにこの制度のもっと深い病巣がある。中央政府(国)の側から見れば、財源配分は地方統治における「アメとムチ」の道具として使いやすい。一方、地方政府(県・市町村)の側から見れば、「中央の方針に従っていれば、失敗した時には中央の責任に転嫁でき、成功した時には自分(首長・地方議会)の手柄にできる」という心理的合理性が働く。その結果、従属は強制ではなく、両者の「都合の良さ」として定着してしまう。自治が成立しないのは、政府の意思ではなく、“責任を分かち合わない制度設計”そのものに原因があると思う。
忘れてはならないのは、分権が必要なのは、民主主義上の抽象的価値のためではなく、「財政技術として合理的」だからであるという事実だ。中央からの財源配分とは情報処理の一種であり、東京から(地理的・心理的に)離れた現場に対する配分ほど、政策判断は誤配に近づく。中央集権は必然的に「全国平均」を基準とするため、地域差に対応する機能を失う。逆に分権とは“局所最適の集合”であり、意思決定が情報源に近づくことで総体としてのコストは縮小する。自治とは理念ではなく、制度の効率性の問題でもある、ということだ。にもかかわらず、交付金制度は自治を“情緒的措置”や“法形式的(たとえば憲法上の)平等”の領域に押しとどめ、財政的合理性という実質に整合しない。
こうしたプロセスを経ると、補助金は財政措置ではなく「政治的鎮痛剤」にすり替わってしまう。負担(地政的リスク・騒音・訓練)は現場にあり、裁量(交渉権・制度変更権)は中央が握る。この非対称構造こそが、沖縄の政治的地位を“未成年型自治”に固定する。自治は権利ではなく能力のことであり、能力は結果によってのみ確認される。しかし現行制度は、責任が誰にも着地しない形で「疑似自治」を演出している。それが実態である。
では出口はどこにあるのか。篠原は、地方交付税、国庫支出金などを含めた補助金体系を見直し、「自治=成果連動」という原則を重視した再設計への転換を提案する。自治を“前払い”ではなく、“後払い”の権能にするのだ。インフラの整備・更新の状況、若年人口の増減、高齢者数の増加、所得の水準と分布、治安、医療・福祉へのアクセスなどの社会指標をコアに置き、それらの改善の度合いに応じて翌年度の裁量権(一般財源化比率・政策オプション・運用柔軟性)を自動的に増減させる手法の導入である。これにより、自治は恩恵ではなく“自力で稼ぐ権能”へと転じる。さらに、成果に応じて増減する制度であれば「可逆性」が担保され、政治的リスクは低減する。挑戦が失敗にならない制度の方が、むしろ自治は育つ。
沖縄問題とは、歴史の是正だけではなく、制度の更新を促す試金石である。地方を“対象”として扱う統治から、地方を「政治的プレーヤー」として組み込み直す統治へ。自治が「測定される政治能力」へ進化するとき、沖縄はようやく「特例モデル」ではなく「先行モデル」になり、日本の統治モデル自体の水準を押し上げることができる。
