『はだしのゲン』再読—-「正義」の物語か「暴力」の物語か

毎年8月6日の原爆忌が近づくたびに、「戦争の愚かさ」を告発したマンガ『はだしのゲン』(中沢啓治作)が脚光を浴びるのが「年中行事」になっている。2025年は『はだしのゲンはまだ怒っている』というドキュメンタリー映画(込山正徳監督)まで公開され、一部で評判になった。『はだしのゲン』は今や平和教育に不可欠の「教材」となり、映画『はだしのゲンはまだ怒っている』も、広島県知事推奨・文部科学省選定というお墨付きをもらっている。

一方、保守論壇は『はだしのゲン』とこの作品から派生した思想的主潮流を、左翼偏向にまみれたものとして批判を重ねてきた。だが、この種の批判もまた、ナイーブでシンプルすぎるイデオロギーに支配された一面的な読み方だ。礼賛論も否定論も、『はだしのゲン』が抱える多層的な構造を見落としている。

私はかねてから、両者にひとしく違和感を抱いてきた。なぜなら、『はだしのゲン』は実は二つの異なる物語を語っているからである。前半は、戦争の愚かさを告発し、言葉と理屈によって人間は過ちを正せるのだという「平和と希望の物語」である。父・大吉は戦争を拒み、ゲンは怒りを言葉に変えて社会に訴えようとする。だが後半では、その希望が一つずつ壊れていく。正しいことを言っても、世界は動かない。正義は力の前で踏みにじられ、弱い者は守られない。

後半で前面に出てくるのが、ゲンの子分・隆太である。多くを語らず、しかし力によって結果を引き寄せる存在だ。隆太はピストル=暴力こそが事態を改善すると信じて行動する。

この隆太という人物の造形に、私は深作欣二監督『仁義なき戦い』(一九七三年)の影を見ずにはいられない。同作は、まさに被爆地・広島を舞台に、第一次・第二次広島抗争を素材として、焼け跡から立ち上がった男たちが、いかにして暴力によって戦後を生き延びたかを描き切った。中沢啓治と深作欣二は、ほぼ同時代に、同じ広島という土地から、似た問いを引き出している。すなわち──正義が無力化したあとの世界で、人はいかに生き残るのか、という問いである。

『はだしのゲン』が連載されていた『少年ジャンプ』誌上で、隆太がピストルを握りしめていたまさにその時期、映画館では菅原文太と金子信雄が血みどろの抗争を演じていた。両者は無関係ではない。広島という土地が、戦後日本にもたらした想像力の二つの顔である。一方は反戦平和の象徴として語られ、もう一方は東映実録ヤクザ映画の舞台となった。だが、根っ子は同じである。原爆と焼け跡が剝き出しにした、言葉が効かない世界の現実である。

隆太に焦点が当たることで、『はだしのゲン』は次第に「正義を語る話」から「生き延びるための話」へと移っていく。この転換こそが、本作を〈名作〉にし、同時に危険な作品にもしている。作者の思想がぶれたのではない。言葉が無力化する地点まで、現実を描き切ってしまった結果である。

宗教社会学者・大田俊寛は、被害の記憶があまりに正義の位置を独占すると、それはやがて「疑ってはいけない正しさ」に転化し、他の経験や別の現実を押しのけてしまうと指摘する。「ゲン」後半が描く世界は、まさにこの危うさを含んでいる。正しい怒りはある。だが、その怒りだけでは社会は動かない。その隙間を埋めるように、力が入り込んでくる。中沢啓治はそれを覆い隠さなかった。

ところで興味深いのは、『はだしのゲン』連載誌の変遷である。一九七三〜七四年に『少年ジャンプ』(集英社)で連載された前半部分(単行本第一〜四巻)は、漫画という表現でしかなしえない手法で原爆の実態を描いた「平和と希望の物語」として、広く読者を獲得した。

ところが『ジャンプ』連載が打ち切られた後、後半部分(第五〜十巻)は、『市民』(旧ベ平連系市民団体発行)、『文化評論』(日本共産党発行)、『教育評論』(日教組発行)と、左派系媒体を渡り歩いて連載された。

ここに、本作をめぐる最大の皮肉がある。「平和」を標榜する党派や団体の機関紙誌で、正義が通用しない世界、暴力のみが意味を持つ苛酷な現実を描いた物語が連載されていたのだ。掲載側がこの転換をどこまで自覚していたのかは、いまもって判然としない。あるいは、ゲンの怒りは自陣営の怒りと同じものだと素朴に信じ、隆太の暴力を読み飛ばしていたのかもしれない。

しかし読み飛ばされたところにこそ、本作の核心がある。学校教育が必要とするのは「戦争は悪い」「平和は尊い」という、明確で希望につながる教訓である。マスメディアと、それに接する大衆が好むのも、こうした単純な教訓だ。後半の『ゲン』は、その教訓をいとも簡単に裏切ってしまう。平和を唱えるだけでは足りない。正しい言葉が通じない場面が現実には存在する。そして、ときに力がすべてを決めてしまう──この認識は、間違っているどころか、あまりに現実的である。だからこそ、日本の教育や言論の場では扱いづらい。制御できない読みを生み、教える側の足場を揺るがしてしまうからである。

『はだしのゲン』は反戦の教科書ではない。言葉が効かない世界で、人はいかに生き延びたのかを描いた、戦後史の冷静かつ冷徹な記録である。中沢啓治と深作欣二は、広島という土地から、戦後日本がついに正面から引き受けなかった問いを差し出した。本作が今もなお「危険」なのは、理想を否定せず、しかし理想だけでは足りなかった現実を、覆い隠さず描き切ってしまった点にある。

暴力の物語が「平和」を標榜する媒体で連載されたという皮肉──この皮肉こそが、戦争と平和の真実を映し出している。

批評.COM  篠原章
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