大滝詠一論~プロの作詞家・松本隆を起用したプロデューサーとしてのクールな視点

OTAKI Eiichi and MATSUMOTO Takashi

『レコード・コレクターズ』2001年4月号所収。
WEB版につき雑誌収録のテキストとは若干異なります。無断転載はご遠慮ください。

むろん仮定の話だが、大滝詠一のファンを東京ドームあたりに集めて、「大滝詠一の代表作を挙げよ」と質問したら、「春よ来い」「十二月の雨の日」「はいからはくち」といった曲名を口にする人もかなりの数に上るだろう。おっと、そいつははっぴいえんどで大滝詠一じゃありません。「作詞・松本隆/作曲・大滝詠一」に違いはないが、バンド時代の楽曲とソロ時代の楽曲は区別されてしかるべきだ。が、「バンドだろうがソロだろうが、大滝詠一が書いて歌ったという事実にゃ変わりねえぞ」という反論も可能である。

いやはや問題はここにある。編集部から与えられたテーマは「『ロング・バケーション』の歌詞について」というものだった。そこで、歌詞を意識しながら『ロンバケ』を聴き直してみた。『ロンバケ』の歌詞を語ることは松本隆を語ることである。ところが、そんな文学的作品論に訴えると、大滝詠一という巨大なアーティストの全体像が見えなくなってしまう。全体像を見失わないようにするために、過去に遡りつつ『ロンバケ』を位置づけようとしてみたが、今度ははっぴいえんど時代まで含めるか否かが問題となった。言い換えると、「松本=大滝作品群をどう位置づけるか」あるいは「松
本隆と大滝詠一の関係をどう捉えるか」がきわめて本質的な問題として立ちはだかってきてしまうのだ。

結論から言えば、はっぴいえんど時代まで含めて大滝詠一の作品群を捉えなければ意味がない。というのも、『ロンバケ』は、音の面でも言葉の面でも、“はっぴいえんど”に対する大滝詠一の最終的な訣別宣言だったからである。

“はっぴいえんど”は細野晴臣と松本隆のプロジェクトだった。こんなことを言うと、「なに寝ぼけたことを言ってるんだ」と野次でも飛ばされそうだが、冷静に見れば、それ以外の見方はできないと思っている。

はっぴいえんどのデビュー・アルバム『はっぴいえんど』(通称「ゆでめん」1970年リリース)を代表するチューンは、大滝詠一作曲の「十二月の雨の日」であり、この曲における大滝詠一の歌唱と鈴木茂の演奏がはっぴいえんどを世に知らしめた。ボーカリスト・大滝詠一ははっぴいえんどの「顔」だったし、松本隆とともにスポークスマン的な役割を演じたことも多い。だが、それは、はっぴいえんどというバンドの一員としての行動にすぎず、バンドの舵はあくまでも細野晴臣と松本隆によって握られていたのである。もちろん、大滝詠一自身は、そのこと自体に不満を抱いていたわけではない。むしろ、積極的にはっぴいえんどの一員として行動していたといっていい。

歌詞(言葉)の面では圧倒的に松本隆が主役だった。このことは『風街ろまん』(1971年リリース)でいっそうはっきりした。直接的には渡辺武信(詩人)の影響下にあったものの、松本隆の言葉はたんなる「詞」にとどまることを拒んで、東京という都市のポップを構築するための武器に仕立て上げられた。松本隆の情熱に導かれるようにして、大滝詠一も細野晴臣も鈴木茂も、全力で「風」と「街」の世界を描いたのである。このアルバムに注がれた各メンバーのエネルギーは尋常なものではなく、そのおかげではっぴいえんどはバンドとしてのアイデンティティを失い、やがて解散にいたったほどである(はっぴいえんどの実質的な活動は、1972年いっぱいで終わる)。

松本隆によるこうした「言葉のプロデュース」は、その後も尾を引くことになる。たとえば、大滝詠一が最初のソロ・アルバム『大瀧詠一』をリリースしたのは1972年で、まだはっぴいえんどとしての活動も並行して行われていた時期だ。音としては「はっぴいえんどの大滝詠一」から「ナイアガラの大滝詠一」に向かう過渡期にあったが、歌詞の面ではやはり「はっぴいえんどの大滝詠一」という印象は拭いきれなかった。大滝自身が作詞した「あつさのせい」や「びんぼう」などには、独自のノヴェルティ・ソング指向がすでに強く現れてはいたが、松本隆が作詞した「それはぼくぢゃないよ」「乱れ髪」「水彩画の街」には、はっぴいえんどの「朝」や「空色のくれよん」に通ずるメランコリックな世界が展開し、聴き手はそこに松本隆(=はっぴいえんど)の都市論や恋愛論を読みとってしまうのであった。ノヴェルティ・ソング指向の端緒も、『風街ろまん』に収録された「颱風」にあることは事実だが、「颱風」が『風街ろまん』のなかで例外的に大滝詠一的だったのだ。言い換えると「颱風」ははっぴいえんど的ではなかったのである。

おそらく大滝詠一自身が「はっぴいえんどの大滝詠一」の不自由さをいちばんよくわかっていたはずである。はっぴいえんど解散後に制作されたセカンド・ソロ・アルバム『ナイアガラ・ムーン』(1975年リリース)は、ニューオリンズ指向のロックンロールをベースとしたノヴェルティ・タイプの曲を中心に構成され、松本隆がはっぴいえんど時代に生みだした世界とはまったく異質の世界を切り開いた。松本隆の詞を排除することによって、大滝詠一は初期ナイアガラ・サウンドを確立することに成功したのであった。

このままいけばすべてが順調だったかもしれない。ところが、大滝詠一は、所属していたエレック・レコードの倒産、それに伴うシュガー・ベイブの解散、その後の日本コロムビアとの契約(年間のリリース数四枚)など、レーベル経営上の環境変化を経験せざるをえなかった。

1976年には『ナイアガラ・トライアングルVOL.1』と『GO!GO!NIAGARA』を発表、さらに吉田美奈子に名曲「夢で逢えたら」(大滝詠一作詞・作曲)を提供するなど、端からは精力的な仕事ぶりに見えたが、実際の仕事の重心はレーベル経営やプロデュースに置かれ、ソロ・ワークに割くことのできる時間は限られていた。それでも、『ナイアガラ・ムーン』のノベルティ路線は継承され、レーベル経営に忙殺されるかたわら『ナイアガラ・カレンダー』(1978年リリース)のような佳作も発表したが、もはや「ポップス万華鏡」的なアプローチだけでは、時代に正面から向き合うことはできなかった。

『ナイアガラ・ムーン』はたしかにノヴェルティ・タイプの作品ではあったが、同時に日本のポップス史に欠落した部分を埋める試みとしてのトータリティを備えており、その点で時代を先導するものであった。が、『ナイアガラ・ムーン』以降のソロ・アルバムを見ると、たしかに形式的にはコンセプチュアルではあったが、実質的には“ひとりオムニバス”的な色合いが濃く、アルバムとしてのトータルなイメージを強く主張するものではなかった。だから、一部の熱烈なファンに訴えかけることはできても、新しい聴き手を獲得することはできなかったのだ。新しい聴き手を獲得するには、なによりも時代にフィットする「言葉」が必要だからだ。

大滝詠一は松本隆による「言葉の支配」から自由になることによって『ナイアガラ・ムーン』を生みだすことができた。だが、それは、メランコリックなバラード・メイカーという大滝詠一の持つもう一つの側面を切り捨てて初めてできたことだ。大滝詠一もバラードの詞を書くことはできる。しかし、その多くは、幾層にも重なるポップスという遺産を、歌詞という面から継承したものだった。もっと端的にいえば、過去における言葉のパターンを微調整しながら組み直すことで大滝詠一の詞は成り立っていた。時代に対する言葉のフィット感は二の次だったのだ。

第2期ナイアガラ(コロムビア時代)が幕を下ろし、しばしの充電期間後に発表されたのが『ロンバケ』であ
った。この間に大滝詠一にどのような心境の変化があったのかはよくわからないが、松本隆との共作を決意するまでは、かなりの逡巡があったに違いない。プロの作詞家として、すでに無数のヒット曲をものにしていた松本隆だが、大滝詠一にしてみれば松本隆との共同作業は危険をはらんでいた。なぜなら、松本隆による「言葉の支配」を経験していたからである。せっかく書いた楽曲が、大滝色ではなく松本色に染まってしまうおそれがある。

松本隆と真に訣別することが大滝詠一にとって最大の課題のひとつだったからこそ、大滝詠一は自分で詞を書くよう努めた。が、松本隆の世界から離れようとすればするほど、大滝詠一は言葉の世界を迷走せざるをえなかった。第2期ナイアガラが失敗した理由のひとつも、おそらくそのあたりにある。

『ロンバケ』の制作を控えて、大滝詠一には他に選択肢はなかった。自分の音へのフィット感と時代へのフィット感を両方満たす作詞家は他にはいない。悩み抜いた結論は、松本隆を「作詞家として起用する」ことだった。言い換えると、プロデューサーとしての大滝が、プロの作曲家として自分自身を、プロの作詞家として松本隆を起用し、プロのシンガーとしての自分自身に歌わせるという枠組みを作ることによって、大滝詠一と松本隆の関係ははじめてクールなものになる。過去というしがらみから自由になる。「はっぴいえんどの松本隆とはっぴいえんどの大滝詠一」ではない、新しい自律的な関係が生まれるのだ。

結果的に、松本隆との共同作業は大成功だった。全十曲中、大滝詠一作詞の「Pap‐Pi‐Doo‐Bi‐Doo‐Ba物語」を除く九曲を松本隆が手がけているが、そこにはもはや、“はっぴいえんど”というアンダーグラウンドなロック・バンドの残り香を嗅ぎ取ることは困難だ。「カナリア諸島にて」に代表されるようにリゾートと
いう名の恋の舞台がさえちりばめられ、過去も未来もすっかり溶けあった刹那の世界が豊かに広がっている。

松本隆の言葉と大滝詠一の音は、対等かつ心地よい緊張関係を保ちながら絡み合って、普遍的なポップスのバイブレーションを創りだしているのである。これこそが、“日本のロック”ならぬ“日本のポップス”だといわんばかりの作品に仕上がっている。

こうして大滝詠一は、はっぴいえんどに最終的な決着をつけることができた。松本隆をプロの作詞家として呼び込むことによって、松本隆に決着をつけることができたのである。松本隆もおそらく似たような思いだったに違いない。“はっぴいえんど幻想”は、まさにこの時終止符を打たれたのであった。

※作曲家・作詞家・プロデューサーとしての大滝詠一は、本人によって「大瀧詠一」という別名で表記されているが、本稿では不要な混乱を避けるため、「大滝詠一」という表記に統一している。

『レコードコレクターズ』2001年4月号

『レコードコレクターズ』2001年4月号

 

批評.COM  篠原章
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket