あの日、眩しかった沖縄音楽のために(オリジナル原稿・1999年)

日本ポピュラー音楽学会沖縄大会(1999年12月4日)におけるシンポジウム講演用メモ「ウチナーポップとヤマトゥポップ」(未定稿/1999年@沖縄県立芸術大学)を再掲・公開することにしました。再掲・公開にあたって現在の心境を反映させたタイトルに変更し、「あの日、眩しかった沖縄音楽のために」としました。
前半部分の沖縄戦後ポピュラー音楽史の分析については、今もなおかび臭くなっていないと考えています。終盤の提言部分については、沖縄県内の自治体が、部分的に政策立案の参考にしたと思われますが、こちらの言葉足らずのせいもあったのか、十分理解されないまま政策化されてしまったように思えます。今の篠原からすると、内容的に納得できない点もありますが、時代的背景を尊重して、ほぼオリジナルのままアップすることにしました。
あの日眩しかった沖縄音楽は、いったいどこにいってしまったのでしょうか。

【アメリカ文化体験の共有~1960年代まで】

戦後日本と戦後沖縄で共通に認識できる文化的基礎、それは米軍基地からにじみ出してきたアメリカン(ポップ)カルチャーだと思います。程度の差こそあれ、おそらく1960年代まで日本も沖縄もアメリカ文化に対する距離感には等質のものがあったと考えています。ライフスタイルの細部までアメリカン・カルチャーが(ときには「誤解」という名の異質性や柔軟性を伴いながら)根を下ろした沖縄ほどではありませんが、日本本土でもアメリカ文化に対するアンビバレントな思いは、大衆文化に広く影響を与えてきました。それこそ「カムカムエブリバディ」の英会話ラジオ講座から宇多田ヒカルや和製ヒップホップ・カルチャーに至るまでアメリカ文化抜きに日本のポップ・カルチャーは語れません。加藤典洋(『日本の無思想』)などに代表される最近の日本論も実はこうした認識と同じ土俵で語られています。

そこでぼく自身は基本的に次のように考えているわけです。日本の戦後文化が決定的な影響を受けた外来文化は、

  1. 天皇制ヒエラルキーのもとで一部に蓄積されてきた「富」と「人材」
    (こうした「富」や「人材」には猪瀬直樹が『ミカドの肖像』で奇しくも指摘したような天皇制ヒエラルキーを利用して成り上がってきた新興企業家たちの生みだしたものも含まれます)を媒介として「輸入」されたヨーロッパ文化とアメリカ文化
  2. 基地からにじみ出してきたアメリカ文化

の2系統あると。

いうまでもなく(1)と(2)はリンクしていますが、沖縄では(1)の部分が欠如していたことになります。日本のメディアを通じて(1)の部分も沖縄に入っていたと思いますが、それはやはり少数派ですから、沖縄ではもっぱら(2)という経路で入っていたと判断してよいわけです。ここで(2)について空間的に表現すると東京では「六本木」や「赤坂」であり(両方とも米軍施設の下に育まれた新しい街です)、沖縄では「コザ」が対置されることになります。

六本木や赤坂から生まれた代表的なポップ・カルチャーが、ジャズやカントリー、ハワイアンを基盤として60年代後半に花開いたグループサウンズ~日本のロック(そして現在の日本のポップス)の流れです。コザから生まれたのはご承知のように戦後の新作民謡であり、林助に代表されるアメリカン・ポップスと沖縄民謡を折衷した原ウチナーポップ、さらにはアメリカ経由のブリティッシュ・ハードロック(いわゆるオキナワン・ロック)です。ちなみに六本木や赤坂は、まさに(1)と(2)の交差点であったわけです。米兵がたむろする歓楽街(今は忘れられていますが、六本木も赤坂も基地の街だったのです)に旧華族・旧財閥一族、新興成金の子弟、そしてアメリカン・ポップスやハリウッド映画に憧れる少年少女たちが集い、テレビ局(赤坂はTBS、六本木はテレビ朝日)が立地したことも大きな要因となって、戦後日本のポップ・カルチャーが醸成されていくわけです。

細かい点は省略しますが、60年代までは沖縄と東京のポップ・カルチャー・シーンは、アメリカン・ポップ・カルチャーに対する距離感という点から見ればほぼパラレルに推移したといえると思います。ただ、東京には経済的・政治的・社会的機能が集中していたということ(もっといえば相対的に沖縄に比して豊かであったということ)、一方沖縄ではアメリカン・ライフスタイルがよりリアルであったということから、具体的な展開の諸相は違って見えますが、事態の本質は同じだと思います。アメリカに対してより徹底的な忍従を強いられた沖縄と柔らかい服従にとどまった東京ではまるで違うという主張もありうると思いますが、文化的な位相ではたぶんほぼ同じです。

【“沖縄ポップ”との遭遇~1970年代】

東京と沖縄との「乖離」が問題となってくるのは60年代末以降です。戦後経済成長の果実を利用できる東京と、利用できない沖縄とのあいだで格差が生じたとえば簡単ですが、事態はもっと複雑です。60年代末以降、東京の側は、加工貿易型のビジネスに徹していくプロセスで文化的なバックグラウンドを忘却してしまいました。アメリカを受け入れる以前の文化的土台をも含めてです。基地が恒久化されつつあった沖縄の側は忘却できるような状況にはなかった。幸か不幸かそれが沖縄のポップ・カルチャーに対する評価の条件を準備したことになります。

アメリカをどのように受け入れ、どのように拒んできたのかを知ることは、カルチャーの問題を考えるときにきわめて重要なことです。だが、日本ではその痕跡が消滅してしまい、反対に沖縄にはこうした痕跡がいたるところに現実として残されたわけです。

このことにいち早く気づいたミュージシャンが細野晴臣であり久保田麻琴でありました。評論家では竹中労でしょう。むろん、彼らはぼくの語るような意義を自覚的に開陳しているわけではありませんが。

細野や久保田の場合は、沖縄だけではなくハワイやニューオリンズにも広く素材を求めましたが、竹中は徹底して沖縄にこだわった。こだわりの結果、アメリカとの関わりを越えて沖縄民謡全体を評価する一連の仕事に取り組んだわけです。蛇足ですがそのおかげで沖縄民謡が今も生きながらえているといってもよいと思います。

「純粋なポップ・カルチャー」などというものはありえません。ポップ・カルチャーはつねにチャンプルーです。外来カルチャーの影響を取り込みながら変化してはじめて価値が生まれるというのがぼくの考え方です。問題はどこまで主体的に取り込むかでしょう。外来文化によって完全に「征服」されてしまっても、ひたすら「守り」の姿勢を堅持しても、新しいポップ・カルチャーは生まれません。60年代~70年代沖縄はこれを見事にやってのけたという意味で、日本のポップ・カルチャーを見直す際にも大きな手掛かりを与えてくれるのです。戦後沖縄音楽の評価は<大衆文化の普遍的なダイナミズムの評価>と同義なのです。その手掛かりを発見したのが、細野晴臣であり竹中労だったといえるでしょう。

70年代後半に喜納昌吉、紫、知名定男がヤマトデビューを果たしますが、セールス的に長続きしたわけではありません。というのは沖縄音楽のダイナミズムに気づく人はあっても、そのダイナミズムを自分の問題として受け止めた人が少なかったからです。また、沖縄の側も努力を自覚的に行わなかったといえるでしょう。ヘーゲルの「普遍と特殊」の概念をもちだすわけではありませんが、すべての「普遍」が「特殊」から演繹されるとすれば、沖縄もヤマトも「特殊」のみにこだわりすぎたのです。あるいは沖縄音楽の普遍的な意義に気づかなかったのです。もっともウワバミのようなヤマトの歌謡界正統が、沖縄を「たんなる一素材」に押しとどめてしまった可能性も否定できません。ヤマトの歌謡界は今も、外来要素を自分で作り出したかのような顔をしてあらゆるものを呑み込んで消化してしまいます。たしかにこれは一種のダイナミズムではありますが、結果として生まれる音に責任を持つ態勢が構造上ありません。外来文化のたんなる模造品に終わってしまうこともしばしばでした。

【再評価された沖縄ポップ:大衆文化のダイナミズム~1990年代】

沖縄ポップが再び評価されたのは、90年代に入ってからです。80年代はむしろ暗黒の時代、90年代を準備するための時代だったといえるでしょう。ワールド・ミュージック・ブームが背景にはありますが、ワールド・ミュージック・ブーム自体がアメリカン・ポップスや日本歌謡の閉塞状況を表していたといえるでしょう。アメリカン・ポップスも日本歌謡も内部の再生産だけでは生き残れない時代を迎えて、新たなるイノベーションを別天地に求めたわけです。レゲエ、サンバ、サルサなどもアメリカン・カルチャーと非アメリカン・カルチャーとの対峙と融合の結果生まれたものですが、80年代後半にはアラビックや東欧ポップなどにまで触手を伸ばし、さらにはアフリカンやエイシアンも取り込まれます。

90年代に本土デビューしたりんけんバンドを始めとする沖縄ポップも基本的にはワールド・ミュージック・ブームと同じ流れの中で再評価されます。このとき再評価のコアにあったのは「異文化をもわがものとする大衆文化のダイナミズムとその普遍性」だったと思います。沖縄に自覚的に影響を受けた上々颱風、琉球音階に影響を受けた楽曲を発表したサザンオールスターズ、坂本龍一、THE BOOMなどはむろんのこと、広く捉えれば大阪的土俗性をダイミックに表現したモダンチョキチョキズ、ジャパニーズ・ネオ芸能とでもいうべき境地を示した米米CLUBやウルフルズに至るまで、りんけんバンドなどが提示したダイナミズムと深い関連があります。

ただこうした流れも、ヤマトと沖縄との双方向の対等なコミュニケーションが生まれにくいためにさらなる発展を遂げにくくなっているのが現状です。ひとつは沖縄のミュージシャンが<東京へのまなざし>によって自らの創造性を縛り付けているということに原因があります(日本のミュージシャンがアメリカ市場で売ろうとして売れないのもこれと同じ理由です)。これと表裏一体ですが、「沖縄の音楽は沖縄人にしかどうせわからないさー」式の諦めにも似た姿勢が一方に散見されるのもまた問題でしょう。また、沖縄の人々が、政治的・経済的に弱体な構造も手伝って「地元の音楽はタダ」という反市場原理的な体制を無条件に受け入れてきたことも原因のひとつと思われます。

もちろんヤマトの側にも問題はあります。たとえば音楽産業そのものの硬直性です。日本の音楽産業は、採算ラインをきわめて高いところに設定し、本来の意味でのコスト削減努力を怠っているため、3万~10万枚の作品を切り捨てざるをえないのです。市場というのは実は単層構造ではなく多層構造です。どんなに売れても3万枚の市場、どんなに売れても10万枚の市場、どんなに売れても100万枚の市場といったようにさまざまな分化したマーケットが集まって音楽市場を形成しているのです。日本中の誰しもが口ずさむ音楽だけが「売れる音楽」なのではありません。3万枚市場で3万枚売り切ることを「売れた」というのです。音楽は商品でありながら文化的公共性を当初から担ったメディアである以上、音楽産業の側もこれを自覚して、3万枚市場には3万枚市場なりの「製造過程」「販売過程」を準備して採算ラインを設定すべきなのに、こうした努力をほとんど怠ってきました。どんなに売れてもせいぜい10万枚という沖縄音楽を100万枚以上売る小室哲哉の音楽と同一視できないのです。幸いにしてダウンロード・ポップの時代になりました。ダウンロード・ポップの世界では、製造コストと販売コストを従来より削減できます。もしこれが一般化すれば、マイナーマーケット向けの作品を効率的に販売する可能性も強くなります。

また、沖縄をたんなる素材としてしか見ないアーティストのインスタントな沖縄風作品も、結局は沖縄音楽に対するネガティブな効果をもたらします。固有の音階によって「沖縄音楽の伝統は日本とは違うんだね」といった意識をリスナーに与えることのプラス面を強調する人もいますが、沖縄音楽はもっと歴史的・同時代的な深みのある提案ができるはずで、結果として沖縄風ジャパニーズ・ポップは沖縄音楽の過小評価をもたらすおそれもあります。この手の音楽をウチナーンチュは拒んでもらいたいなというのが正直な気持ちです。THE BOOMの「島唄」が民謡酒場の定番となっていることなど信じられないことです。日本人がカントリーのコピーを上手にやってアメリカ人に喝采されるとしても、そのアーティストがカントリー・ミュージックに対しても日本のポップスに対してもポジティブな影響を残さないのと同じことです。ペロッグ音階(琉球音階)だけが沖縄ではないはずで、そのあたりを十分認識した上で沖縄にアプローチする日本のミュージシャンは希ですから、日本・沖縄のミュージシャンがいろいろな局面で共同作業することが望ましいと思います。

【ふたつの可能性~新しいミレニアムに向けて】

今後の可能性として注目しているのは、70年代的ピュアリティをもった沖縄音楽と洗練されたエンターテインメントとしての沖縄音楽です。90年代末の日本から見た日本の原風景は江戸時代でも明治時代でも1930年代でもけっしてありません。おそらく1960年代~1970年代前半にあると思います。それだけ世代交代が進んでいるということです。文化的・社会的輪郭(諸関係)が今よりもはるかに単純で明快であり、希望に満ちていたあの時代です。主役も脇役も英雄も悪漢も不明確な現在とは大違いです。利潤至上主義に見切りをつけ、環境原理に移行しようとする新しいミレニアムベースともなりうる時代でもあります。沖縄からは、その風土のせいか60年代~70年代前半のイメージをよい意味で今も守り続けているアーティストがいます。たとえばKiroroです。彼女たちの音楽は聴いているこちらが恥ずかしくなるほどピュアです。ぼくが個人的に応援する「やちむん」「しゃかり」というグループも同じようなピュアリティがあります。

「やさしくて手触りのある、しかも希望に満ちた時空間」への憧れは人間にとって共通ですが、この世界を上手に表現することは意外に難しいものなのです。日本の現代ポップスでは容易に対応できません。ところが、沖縄ではごく自然に表現できるのです。こうした世界を追体験したい潜在的な需要者はそれこそ百万単位で存在すると思いますから、沖縄ポップはこの点において可能性があると判断しています。またポピュラー音楽の芸能としての普遍性を表現できるアーティストも沖縄にはまだまだ存在していると思います。なにも安室奈美恵やMAXやDA PAMPや解散したSPEEDのことをいっているのではありません。地に足が着いた芸能の伝統を感じさせながら新しい音楽体験を示しうるアーティスト、たとえばティンクティンク(りんけんバンドジュニア)などがそれです。伝統と斬新の折衷ですね。ともすれば嫌味になる手法ですが、沖縄にはそれを上手に表現しうる潜在力があると思っています。真の意味での「ネオ芸能」を提案することは新しいミレニアムにおける沖縄ポップの宿命です。

【産業としての沖縄ポップの育成】

ただ、こうした音楽を東京経由で発信していこうとするのは、むしろ時代遅れかもしれません。マーケットとしての東京は確かに最重要ですが、インターネット社会では必ずしも東京発か沖縄発かは問われません。リスナーが自分にフィットする音楽かそうでない音楽かをネット上で選択するだけです。ある意味では世界中のポップスが競争相手となりますし、データベースが相手ですから時代を超えた選択(たとえば60年代の音楽)がなされることもあるでしょう。この選択に際して鍵になるのは地に足の着いたオリジナリティだと思っています。500万枚、300万枚という顔の見えにくいセールスを誇示する時代も終わりです。こうしたオリジナリティを形成しうる風土や環境の整備こそ問題になることでしょう。沖縄はその意味で依然として優位性をもっているのですが、その優位性を生かすも殺すもかなりの程度「沖縄次第」だと思います。

もし音楽を「育てたい産業」だと沖縄が思うのであれば、競争上の「遅れ」をとりもどすための条件整備が、公的機関によって行われるのも許されると思っています。今さら競争力がつきようもない第一産業や第二次産業への補助金をカットして、音楽や芸能に回すべきでしょう。それも市場でのセールスに有利な形でです。市場での販売を目的とした沖縄産ポップ・カルチャーには、一定の条件を付しながら制作費や販売費の一部を補助するなどして積極的に支援すべきです。競争力を獲得しそうな後発産業が政府の保護を受けるのは資本主義経済の発展プロセスを見ても完全に正当化されます。沖縄の芸能・音楽には自由貿易地域よりもはるかに可能性があるはずです。また、古典芸能家を公的資金で育てるのも悪くはありませんが、それよりも古典芸能を初等教育に積極的に導入したほうが効果的でしょう。今さらミニ東京やミニ日本を目指すのは愚の骨頂です。東京や大阪にできないカルチャー・ビジネスに活路を見いだす意味でも、制度的な面での抜本的な改革が、オキナワン・ポップ・カルチャーの時代にとって不可欠であることはほぼ間違いないと考えています。

批評.COM  篠原章
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