ウランダー墓〜那覇の外人墓地

那覇市泊にあるウランダー墓。18世紀に遡る歴史を持つ日本最古の外人墓地である。ウランダーとはオランダのことだが、当時は外国人一般を指す言葉だった。

ここには300人以上が埋葬されているというが、その90%以上が在日米軍人とその家族や関係者のもの、1945年以降のお墓である。

18世紀から戦前にかけてのものが22墓。うち6墓が18世紀のもので、中国人の船乗りたちの墓といわれている。現在は墓碑名・碑文などは読み取れないが、記録の一部は残っている。

最初に埋葬された西洋人は英国海軍の水兵だったウィリアム・ヘアーズ。1816年没(写真左)。この年に来琉したバジル・ホール大佐(ベイジルBasilホール)の部下だった。バジル・ホールは帰国後『朝鮮・琉球航海記』(岩波文庫)を著し、イギリスやヨーロッパに琉球を「後進国だが武器のない平和国家」として広めた人物として知られる。

1848年に没したパリ外国宣教会の宣教師、マシュー・アドネ神父の墓はもっとも立派な外観で献花・清掃も行き届いている(写真中)。

当時の琉球国の抱える最大の国際問題は、フランス人 宣教師(パリ外国宣教会)とイギリス人宣教師(英国国教会)の滞在問題だった。清(中国)、英、仏、薩摩、幕府の思惑が入り乱れるなかで琉球国は前にも後ろにも進めない閉塞した状況にあったという。アドネ神父は、1844年、強大な軍事力を背景として半ば強引に琉球に残留したフォルカード神父の後任として1846年に来琉。2年後に病で倒れてこの地に埋葬された。アドネ神父の病死をきっかけにフランスは琉球への介入を一時中断することを余儀なくされてしまう。世界史と密接に繋がった「死」がここにある。

なお、アドネの前任者・フォルカードは『幕末日仏交 流記―フォルカード神父の琉球日記』(中公文庫) という著書で知られる。それによれば、彼ら宣教師は布教活動どころではなく、外人墓地に隣接する聖現寺(現存)に事実上軟禁状態に置かれていたようだ。ただし、寺院内では並外れた厚遇を受けていたらしい。

パリ外国宣教会に対抗するように英国国教会も沖縄における布教活動の隙をうかがっていた。1846年、医師でもあるベッテルハイム牧師がやはり強引にこの地に留まり、那覇の護国寺を拠点に8年間滞在した。1848年12月8日に生まれた次女は、沖縄本島で生まれた最初のヨーロッパ人と言われている。ベッテルハイムは日本のプロテスタント布教史の出発点に位置するだけでなく、医学・医術の普及にも貢献したといわれている。ペリーが帰航するときに、“黒船”に同乗して琉球を後にした。聖書を琉球語に翻訳・配布 したが、著作は残していない。池上永一『テンペスト』は、このベッテルハイムが素材となっている。

22墓のうち7つがペリー提督の部下たち、黒船の軍人である。ペリーが琉球経由で日本に来航したことを知るヤマトンチューは少ないが、1853〜54年にかけて計5回も来琉している。7つの墓のうちひとつだけ妙に貧弱な墓があるが、これがウィリアム・ボードの墓。婦女暴行のかどで住民に私刑された人物である(ボード殺害事件)。当時の住民感情が墓の外観に象徴されている(写真右側がボードの墓。左側は同僚の軍人の墓)。

米軍占領時代の墓がいちばん多い。米軍人の墓は、十字架に「認識票」が埋め込まれているのですぐにわかるが、家族の墓が多いのには驚かされる。その多くが夭折した軍関係者の子どもたちである。日本人なら、「子どもの遺骨を祖国へ持ち帰る」はずだが、子どもたちは沖縄という、米国から見れば地の果てのような場所に埋葬され、今や花を手向ける者もいない。この他、ウチナーンチュの妻、日系(沖縄系)米軍人の墓と思しきものも少なくない。

身内や関係者が沖縄に残っているケースを除いて、参拝者も稀な外人墓地。観光客はもちろん、地元の人たちもほとんど顧みることのない場所だが、そこには沖縄の近現代史が凝縮されている。

【写真解説】左:英軍水兵・ヘアーズの墓(1816年没)中:パリ外国宣教会・アドネ神父(1848年没)右上:ペリー提督の部下たちの墓(右側がボードの墓)右下:ウランダー墓門柱 ※墓地の一帯は聖現寺(現存)の境内またはその隣接地だったと思われる。

英軍水兵・ヘアーズの墓

英軍水兵・ヘアーズの墓(1816年没)

パリ外国宣教会・アドネ神父

パリ外国宣教会・アドネ神父(1848年没)

ペリー提督の部下たちの墓

ペリー提督の部下たちの墓(右側がボードの墓)

ウランダー墓門柱

ウランダー墓門柱

批評.COM  篠原章
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