普天間基地と福島原発〜いよいよヤバクなってきた

基地問題をなるべく扱わないようにしている。専門外という意識が強いせいもある。政治的引力に引き寄せられるのを恐れるせいもある。が、この問題に関する「決定打」はすでに放たれてしまっているのだから、篠原などがしゃしゃり出る幕はあまりない、という判断が最大の理由である。決定打とは、大久保潤さんの『幻想の島・沖縄』(日本経済新聞社・2009年)や守屋武昌氏の『「普天間」交渉秘録』( 新潮社・2010年)のことだ。

沖縄にとって米軍基地が最大の足枷となっていることに疑いを差し挟む余地はない。沖縄戦〜米軍支配という苦難の歴史を通じて沖縄の人々が強いられた犠牲にも想像を絶するものがある。が、基地問題の本質は「安全保障」にも「沖縄の心」にもなく、その本質は政治的・経済的動機にあり、という主張は今や暗黙の了解になっていると思う。程度と形式の差こそあれ、その構図はパレスチナ問題と同じである。

沖縄には保守も革新もない、あるのは旧態依然たる利権と利権追求という構図である、という大久保さんや守屋氏の指摘は実に的確である。 日本や沖縄はもちろんのこと、世界を牛耳ろうという、これもまた旧態依然たる米政府・米軍の思惑が事態をいっそう複雑にしている。米政府・米軍は、米議会や米世論に阿るだけではなく、沖縄の指導者層に阿ねることも忘れない。沖縄の指導者層が「県内移設反対」を唱えれば、米軍は軍事上の理由からという名目で 「県内移設」を主張する。一見対立しているかのように見えるが、米軍は沖縄の本音を代弁しているだけである。連係プレイなのである。残念なことに、建前は「県内移設反対」、本音は「県内移設推進」(=補助金の獲得)というのが現実なのだ。ふたつの主張の間で右往左往する日本政府のだらしなさを印象づけることで、沖縄も米軍も最終的な利得を確保する隙を狙っている、というと言い過ぎのように聞こえるが、これまでの経緯を見れば、こうしたシナリオが背景に用意 されているのはほぼ確実である。

国務省日本部長(当時)のケビン・メア氏が、2010年12月に「沖縄はゆすりの名人」と発言して物議を醸したが、表現の不適切さに問題はあるとしても、本来日本びいきのメア氏の発言は、この問題の本質に触れていたといえる。メア氏は利権の構図に引きずられる沖縄の基地問題に飽き飽きしていたのである。もっとも、米政府・米軍が沖縄の利権構造を支えてきた最大の“功労者”であることもまた疑いない。功労者というより、利権をえさに沖縄を操ってきたのである。

「沖縄の自立」が求められる中で、自立とは逆行する <補助金漬け>諸政策が追求されていることが、実は基地問題・沖縄問題の核心である。言い換えれば、沖縄の悲劇は米軍基地そのものによって生みだされているのではなく、基地という政治的・経済的利権によって生みだされているのだ。要するにカネの問題、カネの絡んだ政治の問題なのである。このことは半ばタブーである。大久保さんや守屋氏が言いださなかったら、おそらく封印されていただろう。

旧態依然たる経済的・政治的構図は、沖縄の人たちが ほんとうに豊かになろうとする権利や自立の契機を奪い続けている。日本でもっとも厳しい所得格差、低い貯蓄率と高い借入金比率、DVの蔓延と寂しい教育水準。挙げ連ねれば沖縄の暗部はいくらでもある。一部の富裕層(沖縄では公務員も共稼ぎであれば間違いなく富裕層である。おまけに公務就業者比率も際だって高い)と彼らと利害を共にする企業は潤い続けるが、そのサークルからはじかれた多数の人々は「癒しの島」のイメージとほど遠い現実に打ちのめされ続けている。緊密な親族関係や緩やかな社会関係がクッションになって、事態の深刻さを覆い隠しているに過ぎない。コトは相当にヤバイのである。

本質は上記のようにきわめてシンプルだが、政治力学的にややこしい普天間問題が決着しないうちに、震災と福島原発問題が起こった。正直言って、魯山人は震災復興財源を確保する必要がある以上、新たなる沖縄振興計画は指導者たちのもくろみ通りに進まないのではないか、と信じた。もう沖縄関係予算の聖域扱いはあり得ない、補助金漬けからの脱却のチャンスだと色めき立った。

ところがどっこい、である。現状では、聖域扱いに何の変化もないし、ヘタをすれば、“県による自主振興”という名の下により“手厚い”振興計画となる可能性すらある。自立という美名を隠れ蓑とした補助金漬け行政の拡大継続・拡大再生産である。

が、それはそれで予見できないことではなかった。  普天間問題の経緯からいって、追い詰められた日本政府(民主党政権)は、恥も外聞もなく大盤振る舞いすることは予想されてしかるべき。魯山人はたしかに 「震災で状況は一変した」という誤認を犯してしまったが、考えてみれば、普天間問題は政権のアキレス腱であり、「米海兵隊の抑止力」を過大視する限り、大盤振る舞いという選択肢以外はあり得ないのである。

おまけに、これに尖閣問題も絡んできた。

昨年あたりから、石垣や宮古など八重山地方では、「尖閣諸島は日本固有の領土です」といった内容のポスターや立て看を街のあちこちで見かける。それも、八重山はいつから右翼の島になってしまったのか、と心配になるほどの「量」がばらまかれている。が、これは右翼団体の差し金などではなかった。沖縄の指導者層の意向が反映している。その証拠に、沖縄県が新たに策定した振興計画(2011年4月)には、沖縄固有の課題として「離島の国益貢献」という項目が加えられている。「沖縄の心」の反対語とも言えそうな「国益」という言葉が、沖縄という土地でこれほど真顔で主張された例を知らない。補助金を引き出すためにはなりふり構わないということか?いったいどうなっちゃってるんだ。『朝鮮・琉球航海記』(原著1818年・岩波文庫)に生き生きと描かれているように、当時最高水準のインテリジェンスを具えていた英国海軍の将校、ベイジル・ホールを唸らせた琉球紳士たちの節度と教養はいずこに消えてしまったのか。

ここまではまだいい。「いい」というのは、沖縄の指導者層の立場を認めたという意味ではない。あくまで「想定外」ではないという意味である。問題は、ここに来て「想定外」の展開が見え始めているという点である。それは、普天間基地問題と福島原発問題との関係である。

福島原発の処理については、米政府の野望が見え隠れしている。浜岡原発の原子炉停止措置は国民感情を配慮してのことではない、米政府の意向を受けた結果である、米国は原発廃炉ビジネスで一儲けしようという魂胆に違いない、という内田樹さんの指摘は大いに説得力がある。

基地や兵器のメンテナンスが、GEを始め米企業を大いに潤わせているのは周知のことだが(その支払い財源の一部は日本国民が納めた税金である)、それに加えて原発ビジネス・代替エネルギービジネスも、GEを始めとする米企業に巨額の儲けが流れこむ仕掛けとなっている。これもまた日本国民の納めた税金が財源になるはずである。米政府・米軍は、危機と混乱に乗じて、日本から受ける利益を最大化する行動に出たといってよい。「おともだちプロジェクト」とはなんともふざけた話である。冗談ではない。おまえらカネの権化じゃないか。

つまりこういうことだ。米政府は、普天間基地問題についても福島原発問題についても、日本政府の当事者能力の欠如を強く印象づけるよう戦略的に行動し、普天間では米国の防衛費肩代わりという利得をえる一方、福島では廃炉ビジネスという新しいビジネスの利権を確保しようとしているのだ。両者は米国の利得という点で繋がっているのである。

管政権は躍起になって「米国の意向」を否定するが、 小沢一郎氏や西岡武夫氏などいわゆる「民族派」の議員たちが、ここにきて菅下ろしを先鋭化させ始めたのも、米側の思惑を実現させないための「反撃」であ る。彼らの認識は「菅は米国の傀儡」というところにある。それはおそらく正しい認識で、たんなる「菅憎しの権力闘争」ではないのだ。

アメリカン・ポップ・カルチャーがなかったら、篠原の今はない。だから、アメリカに対する思いは複雑である。内なるアメリカにまだ決着をつけていない。だからといって、「いのち」が直近の問題になっている今、「いのち」を軽視し続けてきたアメリカの横暴と、それと利害を共にするニッポンや沖縄の指導者層の利得行動を許していいはずはない。

脱原発は篠原にとって「既定の路線」である。浜岡原発の停止も大歓迎である。が、喜んでばかりはいられない。気を抜けば、米政府・米軍に血を吸われっぱなしになってしまう、というのがわがニッポンの置かれている状況なのだ。なんともヤバイ展開である。もういい加減そういうのやめようよと、声を大にしたい。篠原もヤンバルクイナの写真を撮って嬉々としているだけではないのである。最低限のことは考えている。

なんだか民族主義的な反米サヨクになった気分だが、 なにも原発推進の民族派と手を結べといっているわけではない。基地移設と脱原発政策の主導権を米国やその利害関係者に握らせない。そのための戦略と戦術をしっかり確立する覚悟と智恵が求められているのである。 このままではボクたちの未来は描けなくなる。 闘いは始まったばかりだが、実のところ時間はあまりない。

※写真は嘉数高台から見た普天間基地と宜野湾市内。2010年9月撮影。

嘉数高台から見た普天間基地

嘉数高台から見た普天間基地(2010年9月撮影)

嘉数高台から見た宜野湾市内

嘉数高台から見た宜野湾市内(2010年9月撮影)

批評.COM  篠原章
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