沖縄の真実(7) 大田昌秀『沖縄のこころ』の闇

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昨年5月28日、ホテル・ロワジール那覇のエントランスをくぐろうとしたら、中から品のいい 柄のかりゆしウェアを着た老人が出てきた。足取りは軽く、矍鑠(かくしゃく)としている。すれ違いざまに会釈されたから、こちらもつられて返したが、はに かんだような笑顔のその老人が元沖縄県知事・大田昌秀氏だと想いだすのに少々時間はかかった。知人でもなんでもないが、1995年頃、那覇・栄町の酒場で 偶然隣り合わせになり、名刺交換したことはあった。大田氏もぼくの顔に見覚えがあったわけではなく、すれ違いざまに目があったから会釈したのだろう。

 1971年に大江健三郎氏と共著で出版した小冊子 『沖縄経験』以来(ぼくはそのとき中学生だった)、大田氏の著作は何点も読んでいる。「すぐれた歴史家」という評価もあるようだが、専攻はジャーナリズム 論・メディア論であり、文体もアプローチも学者というよりジャーナリストそのものである。啓蒙書の類しか読んでいないのでたいそうなことはいえないが、読 みやすくわかりにくい。シンプルかつコンプリケイティッドというのが彼の本来の資質かどうか知らないが、琉球大学教授〜県知事というキャリアを積むことが できた理由も、おそらくそのあたりにありそうだ。

 ここ数年、「沖縄のこころ」という言葉が気になって いる。「東京のこころ」とか「鹿児島のこころ」とはけっしていわないが、「沖縄のこころ」は自立したタームとして、あたりまえのごとく使われる。「お前の いうことは<沖縄のこころ>に対する冒涜だ」といわれたこともある。「沖縄のこころ」といわれてしまえば、沈黙せざるをえない気分になる。「沖縄県民の総 意である反戦平和への願い」を表す言葉だからだ。「総意」を批判することは許されない。

 が、「待てよ」とも思う。ぼくが沖縄県民だったら、 自分の願いや思いを「沖縄のこころ」として括られることを潔しとしないだろう。ぼくがひねくれものだからではない。平和への願いは誰しも共有はしている が、一人ひとりそのニュアンスは違う。まして平和を実現するための方法論は千差万別だ。「こころ」が集団の総意として鉄壁になる瞬間があるとすれば、それ はナショナリズム以外なにものでもない、と思うからである。個人の自由を封殺するナショナリズムを囃したてるわけにはいかない。それが第二次大戦を通じて 人びとが学んだ唯一最良の経験である。「反戦平和への願い」が総意であるとして、そこに括られるのを拒もうとする人たちを排除するとすれば、それこそナ ショナリズムの時代が再現されてしまう。反戦平和への願いに逆行する。

 「沖縄のこころ」は沖縄県民の切実な願いなのだ、政 治の話なんかじゃない、という批判もあるだろう。たしかに「沖縄のこころ」といえば聞こえはいい。が、それはあくまで文学の世界での話だ。たとえば「この 民謡には沖縄のこころが感じられる」という使い方をしているうちはいい。それは主観に過ぎず、読者は自分がその思いを共有できるかどうかを勝手に判断す る。ところが、政治の現場などリアルな世界でその表現を使えば、ナショナリズムやファシズムの臭いが漂ってくる。理知を感情で制御する政治的思惑も見えて くる。ぼくにとって、それは我慢のならないことだ。

 第二次世界大戦中、小林秀雄は日本文学報告会(大政 翼賛会の文学バージョン)の理事を務め、中国を行脚した。「無情」とか「宿命」といった小林秀雄の「日本のこころ」を表すキーワードは、彼が文学報告会の 理事として舞台に立った講演のなかで使われたとたんに政治的アジテーションに変わり、人びとを戦のなかへと駆り立てる。「日本人の宿命」だから天皇のため に国民が死んでもいいのか。追いつめられた文学者のキンキーな心情にすぎないものが(それ自身は興味深いが)、国民のいのちを奪ってよいのか。「〜のここ ろ」がナショナリズムの一表現として機能したひとつの例である。

 「沖縄のこころ」という表現が使われ始めたのは1970年代のことだ。起源をたどっていけば一冊の本につきあたる。大田昌秀著『沖縄のこころー沖縄戦と私ー』(岩波新書・1972年)である。

 本文の内容に即していえば「良書」である。沖縄戦の 一側面が、鉄血勤王師範隊(学徒隊)の一員として前線に動員された19才の大田氏の、素直かつ客観的な目線で描かれている。感情の爆発を抑えきれない場面 もあるが、トータルでいえば沖縄戦という不幸に実にクールに向き合っている。鉄血勤王隊という立場にあったために、民の側ではなく軍や軍人の側に立った描 写が圧倒的に多いが、気鋭のジャーナリストによる良質の戦記といってもいいかもしれない。伊江島で戦死した著名な従軍記者、アーニー・パイルの長い引用が あるところも、大田氏の指向性を表している。

 もっとも印象的なのは、昭和19年の段階ですでに沖 縄戦が完全に予想されており、県の指導層、上級官吏、教員などが次々に島を逃げだす状況のなかで赴任してきた最後の勅任知事・島田叡(戦死)の段。「赴 任=死」がほぼ確実に予想された昭和20年1月に赴任した島田の人間としての覚悟と民の側に立った行政官としての能力を、大田氏は高く評価する。

 同様に、学生のことを徹頭徹尾尊重した官立沖縄師範 学校校長・野田貞雄(戦死)の評価も高い。野田は、昭和19年に内地に出張する折、大田氏を始めとする学生たちから「(激戦地となる)沖縄にはもう帰って こないでください」と懇願されたにもかかわらず、戻ってきたという。教育者としてのその高潔な姿勢と包容力が大田氏によって温かく記述されている。

 いうまでもなく島田も野田も沖縄出身ではない。島田は神戸、野田は熊本出身である。

 司令官・牛島満中将(戦死)、長勇中将(戦死)、高 級参謀・八原博通大佐などの戦略・戦術についても「戦争遂行」という観点から冷静に評価している。牛島中将や長中将を非難し罵倒するような表現は一切な い。八原の持久戦という戦略・戦術が採用されれば沖縄戦の犠牲者はもっと少なかったろうとも、大田氏は述べている。戦争は悪だが、そこに参画していた軍部 の指導者や兵士たちが、与えられた条件下でどのように行動したのか、冷静に記録しようとするジャーナリスティックな観察眼が、逆に沖縄戦の一面を浮き彫り にし、「戦争」という濁流に二度と巻きこまれてはならない、という普遍的な教訓をぼくたちに教えてくれる。

 ところが、この「良書」は、「沖縄のこころ」という 言葉をナショナリズムという闇の中に引きずりこんでしまうようなとんでもない欠陥をも備えていた。それは「はじめにー戦争を拒否する沖縄のこころ」(9頁 分)「おわりにー人間としての証を求めて」(同じく9頁分)が存在していることによる。トータル220頁の新書のうち、本文に属さないこれら18頁分が、 本書の性格を決定している。良質な戦記が、この18頁によって政治的プロパガンダに変質してしまったのである。

 「はじめに」で展開されている「県民の自律性=県民 自治が求められている」という大田氏の主張が、本文といかなる関係があるのかほとんどわからない。「沖縄のこころは県民の主体性である」という論理も理解 しにくい。歴史的に日米に従属を余儀なくされた沖縄は、今こそ主体的に立ち上がらなければならない、という論旨を尊重するとしても、本文との連携は見えて こないし、沖縄の未来も見えてこない。戦前・戦中に「沖縄としての主体性」さえ発揮していたら、沖縄戦は回避できたのだろうか?沖縄の未来は「平和思想」 さえあれば描けるのだろうか?「本土復帰」は必ずしも基地問題や悲惨な戦争体験を背景に選択されたわけではなく、米軍統治のシステムから脱却し、日本とい う政治システムや経済システムに移行したいという積極的・合理的な理由もあったのではなかったのか? 本文とは直接的な関係を持たない独立した政治的プロ パガンダが巻頭に添えられている、と考えるほかないのである。

 だが、「はじめに」はまだいい。本書が出版された1972年はまだ「反戦・反米」が知識人の金科玉条だった時代だったから、大田氏もその時代的な潮流から逃れられなかったと好意的に解釈できないこともないからである。問題は「おわりに」だ。

 「おわりに」では、その大部分が「久米島守備隊住民虐殺事件」 に割かれている。沖縄戦の終盤に、日本の守備隊が「スパイ活動」をおもな理由として久米島の住民を処刑した事件である。この事件は、守備隊のリーダーだっ た鹿山正という兵曹長が処刑そのものを認めているので、事実関係については争う余地はない。ただ、鹿山元兵曹長は、守備隊リーダーとして当然の判断だった という立場を表明している。この事件がメディアで顕在化したのが、ちょうど本書が出版された1972年のことだったので、久米島出身の大田氏は「日本軍国 主義」または「日本」の体質を象徴するものとして告発したつもりだったのだろう。「沖縄差別」「沖縄人差別」が事件の根幹にあると大田氏は主張したかった のだ。

 だが、これも本文の記述には直結しない。本文では、 沖縄や沖縄人を尊重する軍人、政治家、官吏、教員はいたが、戦争という激流には抗しきれなかったといった歴史記述が展開されているのであって、沖縄や沖縄 人を差別した戦争というニュアンスを本文に見つけるのは難しい。久米島での事件をもって、日本・日本人全体が沖縄・沖縄人を全体を差別していると結論づけ るのも無理がある。ある中国人が日本で強盗をはたらいたから、中国人はみな強盗であると結論することはできないと同様、この不幸な事件をもって日本の沖縄 に対する差別構造を導きだすことは不可能である。久米島に対する大田氏の故郷愛はわかる。だが、このように感情に支配されたエッセーを巻末に付すことに よって、本書の意義はまったく見えなくなってしまったのだ。

 先にも触れたように、本書の出版以降、「沖縄のここ ろ」は、他の言論を封殺すると同時に沖縄ナショナリズムを表象する言葉に“成長”していった。日本(人)の沖縄(人)に対する差別を主張する際に用いられ ることも多い。大田氏の『醜い日本人』(サイマル出版会・1969年)は日本と日本人に対する差別の書ともいえるが、その点はあえて触れるまい。大田氏自 身も自身が発した「沖縄のこころ」に縛られているのではないかと思う。一見美しいが、実は感情の過剰な発露に過ぎない言葉に縛られることによって、思想を 失っている。功罪を論じれば、『沖縄のこころ』という書は、明らかに問題解決を「闇」の側に導く「罪」の働きをしていると考えざるをえない。

批評.COM  篠原章
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