知念ウシ・高橋哲哉 VS 山添中学校生徒
沖縄の基地問題について発言をつづけるライターの知念ウシさんと、哲学者で東大教授の高橋哲哉さんが、昨年の沖縄復帰の日(5月15日)に朝日新聞紙上で対談したことはすでに本欄で批判的に取り上げた(知念ウシさんと高橋哲哉さんの対談を批判する)。
知念ウシ
日米安保を求めたのは私たちではありません。私は安保反対ですが、安保がなくなるまで、日本人が基地を引き取って、嫌なら自分でなくしてほしい。高橋哲哉
安保条約も沖縄への基地の集中も、選択したのは日本政府です。日本の有権者の多数がこの状態を容認、支持してきたわけです。だからこの問題は、知念さんが「日本人」と呼ぶ私たち本土の人間の問題です。きょうはそう問われていると受け止めました。知念
高橋さんも、基地を持って帰ってくださいね。高橋
それが「日本人」としての責任だと思っています。(朝日新聞 2012年5月15日)
知念ウシさんは「基地の持ち帰り」を求め、高橋哲哉さんは「持ち帰りましょう」と答えている。まさに基地反対運動の現状を象徴するようなやり取りだ。
ぼくだって「基地の持ち帰り」を宣言することはできる。できれば持ち帰りたい。だが、いちばんの問題は、基地を持ち帰るにしても、それをどうやって実現していくかだ。知念ウシさんが要求し、高橋さんが同意すれば基地問題が解決するわけではない。揚げ足をとっているのではない。「どう実現するか」というビジョンなくして、先に進むことはできないということだ。言いたいことを言うだけなら誰でもできる。幻覚みたいなことをいいつづけることだってできる。そんな言いっ放しの基地反対論が、基地縮小をいかに遅らせてきたか。
知念ウシさんと高橋哲哉さんのこのやり取りは、基地縮小を遅延させる基地反対論のブランニュー・バージョン以外の何ものでもない。アホらしくていまさら取り上げたくもないのだが、あの対談を掲載した朝日新聞が、ご丁寧にも「続編」をつくってくれた。4月19日付「(座談会)15歳と語る沖縄 知念ウシさん×高橋哲哉さん×奈良・山添中の生徒たち」という記事がそれだ。
奈良県の山添村立山添中学校の3年生20人から編集部に手紙が届いた。沖縄戦や米軍基地問題を学んで修学旅行で訪れ、議論したこと、本欄掲載の対談「復帰と言わないで」(昨年5月15日付)を読んで尋ねたいことが綴(つづ)られていた。基地のない村で学んだ15歳は何を思い、考えたのか。紙面で対談した沖縄在住のライター知念ウシさんと哲学者の高橋哲哉さ んが3月末に中学校を訪れ、生徒と語り合った。
(朝日新聞デジタル 2013年4月19日)
要するに知念ウシさんと高橋哲哉さんが奈良県の山添中を訪れて、沖縄の基地問題をテーマに生徒と討論したということだ。GoogleEarthで確かめると、山添中は奈良県と三重県の県境地帯、山間部にある。過疎の村・山添村唯一の中学校だ。総じていえば、山添中の中学生の問題意識が、知念ウシさん、高橋哲哉さんのそれを上回っていた。素晴らしい中学生たちだ。全文をそのまま掲載したいが、著作権の問題もあるので、以下、記事を引用しながら話を進めたい。
稲場翔也
沖縄の米軍基地がいいものじゃないというのはわかります。でもマイナスなこと、だめなことばかりを言っていないで、こうしたらよくなるとか、前向きなことを知りたい。窪田拓未
僕は沖縄の基地とか現状を勉強して理解していたつもりだったけれど、知念さんと高橋さんの記事を読んで、何をすべきなのか、ますますわからなくなってしまった。
ここで掲げられている名前の主はもちろん山添中の中学生だ。素朴だが、問題の本質を突いた「疑問」である。これに対して高橋哲哉さんは次のように答えている。
高橋哲哉
みなさんの村が沖縄と同じ状況になったら、と想像してほしい。近くに巨大な米軍基地があるとか米兵がたくさん周りにいるという状況です。みなさんどう感じますか。遠い沖縄の問題ではなく、自分の問題として考えてみてください。
自分の問題として考えられないからこそ、こうした疑問が示されているのに、高橋哲哉さんはそんな基本的なことにも思いが至らないらしい。高橋さんは「みなさんの村が沖縄と同じ状況になったら」と一般化して 議論を進めているが、これは「沖縄全体が基地に苦しんでいる」という誤解を与えかねない発言でもある。基地があり、米兵が周りにいるのは特定の地域だ。那覇ではもちろん、沖縄市や北谷町でも、米兵が周りにいない地域はある。逆に、横田や横須賀など本土でも周りに米兵が存在する地域はある。たしかに沖縄に基 地は集中しているが、高橋さんの発言は不用意であり、不十分だ。
知念ウシ
私はあの山を見て、(沖縄県北部にある)キャンプ・ハンセンなどの実弾射撃場を持って来られると思いました。どうなるかというと、ダダダダダダって、山に向かって撃つわけ。朝も9時ごろから始まるんです。私はここにいても空を見て、いつのまにかオスプレイを探している。私が住んでいるところではいつも軍用機が飛んでいるから。でもここにはない。基地のフェンスもない。ここは日本なんでしょう?それなのになぜ在日米軍基地がないんだろう。 異常だと思ってしまう。
沖縄に基地は集中している。そのことは間違いない。だが、知念ウシさんはキャンプ・ハンセンの近くには住んでいない。夫が元海兵隊員だということもここでは告げられていない。在沖米軍が沖縄という地域と関 わってきた歴史的経緯や地域的分散の現状は完全に無視されている。ここでも不正確な発言が平気でつづけられている。「ここは日本じゃない」というのは、本土にとっても沖縄にとっても失礼だ。繰り返すが、米軍基地は東京にも神奈川にも青森にも山口にも長崎にもある。基地のある地域の住民にとっては、米軍基地 の負担に変わりはない。逆に東京、神奈川、青森、山口、長崎の大半の地域は米軍基地とはほとんど関係がない。それと同じように沖縄でも基地の存在と無縁の地域も多いことは理解しないといけない。また、最大の人口を擁する那覇市民が日常生活のなかで基地を意識することはほとんどない。たしかにヘリは飛んでい る。が、防衛省の近所に住むぼくの住居の上空もヘリはしょっちゅう飛んでいる。ヘリが飛んでいるからといって、防衛省を意識することは稀だ。ぼくが本や資料を置かせてもらっている都下の家は、米軍補給厰にほど近く20分も歩けばフェンスがあるが、家にいるときにフェンスを意識することはない。那覇市民は、 ヘリが飛んでいると、「米軍基地撤去」と瞬間的に思うのだろうか? フェンスの存在が日常生活をおくる上で頭から離れないのだろうか? 基地のないことを 異常と思う沖縄県民が多数派だという証拠はあるのだろうか?
稲場
基地がないことが異常だと言われて、どきっとした。あるのが普通という感覚と、ないのが普通の感覚の違いがある時点で、本土の僕は、基地問題を自分の問題として考えていないと思いました。窪田
次の世代、次の次の世代になったら、沖縄に米軍基地があるのは当たり前になっていて、誰も問題に思わないかもしれない。今だって関心が起きるのは一時的で、結局、日本人は沖縄の米軍基地問題に関心がないのかもしれない。
高橋さんと知念さんの発言を受ければ、賢い中学生なら当然、このように反応する。「無関心」であることが責められ、中学生たちは自分たちがいけないことをしていると思う。(ニッポン人が)関心がないことが問題を引き起こしているという話になってしまっている。
そりゃ違うだろ。問題になっているのは沖縄の米軍基地の削減をどのように進めるかであって、「基地がないことを異常に思う」ことでも「沖縄の米軍基地に継続的な関心を持つこと」でもない。日米安保や自衛隊 の存在を考慮しつつ、米軍基地を減らすのは、心の問題などではない。まして差別の問題でもない。政治の問題であり、経済の問題である。
高橋
みなさんは沖縄に関心がないわけじゃない。多くの日本人も、実は関心がある。でも、関心がある沖縄と、関心がない沖縄がある。これはどういうことなんだろうか。無関心って何だと思いますか。
何をいっているのかわからない。まさに哲学談義だが、失礼ながら「高橋さん、あなたも自分のいっていることがわかっているのか」とおちょくりたくなってしまう。
馬籠結衣
今の日本は、考えてはいるけれど自分から言い出したり動いたりするのはいや、という人が多いと思います。沖縄の基地問題だって「あかんと思うけど、よくわかんないからええわ」みたいな。今谷
好きなことにはすごく関心があるけど、難しいことは理解できない、だから無関心になっていくんじゃないでしょうか。
まさに中学生たちのいうとおり。でも、無関心ってそんなに「原罪」的な悪いことなんだろうか? 今谷さんの発言にあるように、「無関心なのは利害がないから」で、利害を感じられないのは、歴史と安全保障の 領域に関わる問題だからである。関心がある人だって、あるときは関心を持っていても、別のときには関心がなくなる。その人にとって基地よりも大きな「利害」が存在する局面があるからである。つまり、「関心」というところに焦点を合わせてしまうと、問題の解決からだんだん遠くなっていく。おまけに、関心の 持ち方は、メディアと教育の動向に決定的に左右されるが、そのことにはまったく触れられていない。
杉原智彦
多数決の時は多い方に行きたいというのが、みんなの本心だと思う。争いごとは好きじゃないから。福井日菜
大半の人と違う意見を言ったら、浮いた存在になってしまう。日本人は、みんなと一緒がいい、そういう意識が強いという印象があります。基地は元からあるからしょうがないとか、国が決めたことだからしょうがないとかいうのは、やっぱりある。でも、私はそういう大人にならないようにしようって思いました。
この二人の中学生の発言は、民主主義の根幹に関わっている。民主的な意思決定方式である多数決に疑問が突きつけられている。では、沖縄では、「県外移設」が多数派で、「県内移設」が少数派であるといわれる 事実はどう解釈すればいいのだろうか?昨年の衆院選で沖縄の約72%の投票者が、自民など日米安保堅持の政党に投票したが(比例代表)、こうした投票行動は、沖縄における「基地反対」の動きとは矛盾しないのだろうか。もっと根本的に、なにが多数派でなにが少数派かどうやって区別すればいいのだろうか。意見が多数派と少数派に別れたとき、どうやって問題を解決に導くべきなのか、その糸口はどう見つけたらいいのだろうか。
知念ウシ
気になるのは、みなさんから「難しい」「わからない」という言葉が出ることです。全部知って、初めて意見が言えるとか行動できるということではないと思う。「これっておかしい」だけでいい。おかし い、ショックだ、悲しい、逃げたくなった。まずそういう自分自身に気づく。そこから考える。伝える。全部わからないといけないなんて思っていたら、何もで きません。
そのとおり! 「これっておかしい」という素朴な出発点はやはり重要だ。普天間第二小学校は、「日本一危険だ」とさんざんいわれながら移転しないのはなぜだろうか。 米軍兵士の犯罪率が一般の犯罪率よりも低いのに、そのことがメディアで指摘されないのはなぜだろうか。辺野古の住民が基地移転受入の姿勢を示してきたの に、そのことに触れる人がほとんどいないのはなぜだろうか。問題を難しくししたり、焦点をずらしたりする人がいるのではなかろうか。
今谷
知念さんに質問があります。どうして米軍基地反対運動をするようになったのですか。知念
どうして? どうしてなんだろう……。みなさん、もし沖縄に生まれたらどう育ったか、想像してみてください。私は、基地は生まれた時からあって、当たり前に思っていた。反対運動をするようになったの は自分が子どもを持ってからです。私たちの先祖も苦労させられたのに、次の世代、後輩たちにまでこんな苦労、難儀が当たり前のように引き継がれるのはおかしいと思った。
今谷さん、鋭いな。「どうしてなんだろう」という知念さんの答えを引き出すなんて。知念さんから出て来た言葉は「子どもの将来が不安」。では、基地だけが沖縄における安全・安心な暮らしを奪っているのだろ うか。米軍基地さえ撤去すれば沖縄の安全・安心は保証されるのだろうか? 知念さんのように、「沖縄が構造的に差別されている」ということ強調し、高橋さんのようにそれに同調する人たちが多数派になれば、沖縄の人たちは皆幸せになるのだろうか。 疑問だらけである。
杉原
沖縄は独立するのが一番いいと思いますか。
杉原さんも鋭い。どうしてこんな疑問が出てくるのだろうか?それは知念さんの言い分を検討していくと、その問題にどうしてもぶつかってしまうからだ。
知念
(独立が)一番いいとは思っていません。私が目 指しているのは、安全に暮らせて、こんな世の中を作りたいと思ったら沖縄のみんなで議論して決めて実現できる、誰も抑圧しない、されない社会です。その手段として独立はあるかもしれない。でも沖縄が独立して幸せになるには日本も変わらないと。
これは国家論なんだよな。自治とか自立とか、そういう問題と、中央集権的な国家観の対立。それを議論するのが無駄だとはいわないけれど、経済的な発展や配分の問題に手をつけないかぎり、自治や自立は語れないとぼくは思う。沖縄が沖縄だけで意思決定することはもちろん歓迎だが、経済的な問題も自分たちで引き受けるという覚悟は必要だ。沖縄が最貧県であること と、基地問題は絡めて議論しなければ、問題の決着はない。国家論というところに問題をひきずりだすと、現実的な基地問題は解決しない。そういう視点について、知念さんも高橋さんも触れないのはなぜなのだろう。
今本帆風
高橋さんに質問です。対談記事の最後に知念さんから「(本土に)基地を持って帰ってくださいね」と言われて「それが日本人としての責任」と語っています。これが引っかかっていて。何に対しての責任ですか。
やだなあ、今本さん、ぼくと同じ意見じゃない。素晴らしい。
高橋
沖縄に米軍基地があれだけ集中して、しかも何十年と続いているのは、基本的に日本人がやってきた結果です。沖縄で戦争したことも、米国が施政権を持ったことも。1972年に日本に主権が戻った後も沖縄 の基地負担率は上がりました。つまり日本人が選択して、沖縄の人たちに押しつけてきたと僕は考えています。だから日本人として、責任をとらなければいけな い。そういう意味です。今谷
問題は沖縄の米軍基地じゃないですか。移設しても、移した先の人たちはまた同じ問題を抱えるから、根本的な解決にならないと思う。基地をなくすにはどうしたらいいのか、どうすれば問題を解決できますか。知念
解決したい、そのためにどうしたらいいのか知りたい、という気持ちはすごくうれしい。何か特別なことではなく、日常生活の中で、おかしいと思ったことは家族や友だちや周りに話す。それを、みなさんが今いるところで続けていってほしい。考えながら動き、動きながら考える、そういう大人になってほしい。
高橋さんも知念さんも今谷さんの問題提起にまるで答えていない。はぐらかしているのも同然だ。
高橋さんの「1972年に日本に主権が戻った後も沖縄の基地負担率は上がりました」というのもきわめて一面的な事実の開示である。1972年以降、本土・沖縄とも米軍基地面積は縮小しているが、その削減率をみると、本土のほうが沖縄より高い。高橋さんはおそらくそのことをいっているだろうが、米軍基地・米軍施設の一部は返還されている。沖縄といえどもその基地面積は削減されているということだ。米軍専用施設の7割を占める演習場が返還されれば、一気にその削減率は高まるが、そのためには演習場の大半を利用する海兵隊を削減しなければならない。海兵隊を削減するためには普天間基地移設を推進することがなにより重要だが、普天間基地の移設が遅々として進んでいない。遅々として進まない理由は、政府の対応に第一義的な責任があるが、沖縄側の対応にももちろん責任はある。
海兵隊が日本から撤退すれば、問題は一気に解決するが、海兵隊の撤退はアメリカの国内問題も引き起こしてしまうから、日本や沖縄の事情だけ強調しても問題はなかなか解決しない。海兵隊が撤退するとしても、 その穴埋めとして自衛隊が沖縄にやってくる可能性が高いが、 沖縄には自衛隊移駐に対するアレルギーもある。自衛隊を含めた軍備そのものを認めないという考え方だ。日本の安全保障をどう考えるか。海兵隊なくして安全保障は保てるのか。そのことはまだきちんと議論されていない。結局、基地負担率の低減は、日本の安全保障をどう構築するのかという問題に還元されてしまう。そのことに触れずに、基地負担率だけを取り上げて問題視しても、けっして展望は開けない。高橋さんの議論が一面的だというのはそういうことだ。
沖縄の米軍基地を削減するためには、安全保障・外交について、「日本」として対応を決めざるをえないのだが、それは高度に政治的な議論だ。その政治的な議論の決着を待って、基地移転を進めるとすれば、向こ う数十年、基地問題は動かなくなってしまう。いわゆる固定化が進む。そうなれば、知念さんや高橋さんの考える沖縄の人たちの幸せは遠のいてしまう。高橋さんや知念さんは「基地負担の現状を放置せよ」といっているのに等しい。そのことに気づかないことこそ罪悪だとぼくは思う。
ただし、沖縄が「独立」という選択肢を選べば、知念さんや高橋さんの取り上げる問題はもっと動きやすくなる。独立以外に根本的な問題を解決することはできないといってもいい。独立を選ばないとすれば、「持 ち帰れ論」「持ち帰ります論」には出口はないとぼくは思う。独立するかしないかは沖縄の人たちが決めることだが、「安全に暮らす」ことを求めるとすれば、 基地問題の決着は必ずしもその軸にはならないとぼくは考えている。つまり、独立によって米軍基地は撤去されるかもしれないが、最大の問題である貧困は解決 しない。安全も確保されない。それがぼくの結論だ。
それにしても中学生たちの鋭さには脱帽だ。ぼくにとっても、いい勉強になった。高橋さんや知念さんが「いい勉強になった」と思ってくれれば、この討論は成功なのだが、最後のお二人の言葉を聞くかぎり、不安は大いに残る。
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