細野晴臣&久保田麻琴トークショー@桜坂劇場・那覇(6月24日)
日時 6月24日 (土) 開場 18:30 開演 19:00
場所 桜坂劇場 ホールA
出演 Harry(細野晴臣)& Mac(久保田麻琴)
ゲストライブ 喜納昌吉 大工哲弘 Banjo Ai
ミュージシャン 大工哲弘(唄三線) 久保田麻琴(ギター) 細野晴臣(ベース&太鼓) 高田漣(フラットマンドリン・ギター), 伊藤大地(カホン)
チケット ¥3,000(税込・ドリンク代別)
「星野源効果」もあるのか、「発売即日完売」が続出する細野晴臣のツアー2017の真っ最中だが、沖縄では本公演(6月25日)に先立ちプレイベントが行われた(6月24日)。『細野晴臣&久保田麻琴(Harry & Mac)トークショー 「Road to Okinawa」」』がそれで、公演に合わせて那覇市内の高良レコードなどが企画したイベントだという。細野・久保田の対談そのものは珍しくないが、それが「トークショー」として公開で行われるのはおそらく前例がない。しかも場所が「沖縄」というところも「レア度」を高める。2000年には、細野・久保田とりんけんバンドの照屋林賢が「カラビサ」というユニットを結成し、「Roochoo Gumbo y2k」というシングルを発表すると同時に林賢のライブハウス「カラハーイ」でライブを行っているが、そもそもアーティスト・細野晴臣の沖縄公演自体が今回が初めてである。
さて、そのトークショーだが、桜坂劇場ホールAでは、この日ふたつのライブが用意されていた。15時開演の「むぎ(猫)ONEニャンLIVE」と18時開演の「細野晴臣&久保田麻琴トークショー」の二つである。が、「むぎ(猫)」の撤収後に「トークショー」のセッティングとリハを行うという「ダブル・ヘッダー」には無理があったようで、トークショーの開演時間は大幅に遅れてしまった。劇場前の希望ヶ丘公園方面まで長い行列をつくっていた320人ほどの観客は、40分ほど余分に待たされることになった。
19時半過ぎに始まったトークショー。「開演が遅れてごめんね。むぎ(猫)ONEニャンのライブがあったもんだから、時間が押しちゃってね。ウチナータイムということでお許しを」というMC・久保田麻琴の挨拶から始まり、オープニング・アクトとして、南城市(佐敷町)在住のシンガーで、久保田麻琴がYouTubeで観て感激したというBanjo AIが登場して2曲を歌った。この日のために用意したと思しき「Roochoo Gumbo」と持ち歌の「Okinawa and Foggy Mountain Breakdown」だが、過度な緊張のせいか、歌はともかくバンジョー演奏はたどたどしかった。バンジョーという楽器を使い、沖縄を指向した楽曲を創って歌うというコンセプトはいいのだが、経験の積み重ねは必要だ。
続いて細野晴臣と久保田麻琴の二人がゆったりとステージに登場、ステージに置かれた椅子に腰掛けた。それぞれの椅子の前にはMacが置かれた小さなテーブルも用意されている。待ちかねた観客から大きな拍手が巻き起こる。
久保田麻琴がリードして細野晴臣とトークするという展開だが、前半は「ハイサイおじさん」が主題。よく知られている話だが、久保田麻琴が西表島をバスで観光中、車載ラジオから漏れ出した「ハイサイおじさん」を聴いてぶっ飛んだというのが「出会い」のきっかけ。久保田麻琴は沖縄本島に戻り、那覇市牧志(国際通り)の市場本通り入口付近にあった今は亡き「マルフク・レコード」で「ハイサイおじさん」のシングルを数枚を買い求めたという(レーベルは普久原家のマルフク・レコード。久保田麻琴がレコードを買った販売店のマルフク・レコードとは直接の関係はない)。
帰京して音楽仲間に聞かせたが、誰も好意的な反応を示さない(会話の流れのなかで、大貫妙子の名前だけが具体的に取り上げられていた)。細野晴臣だけが、椅子から転げ落ちそうになるほど感動してくれたという話である。よく知られているように、この「ハイサイおじさん」体験が、久保田麻琴と夕焼け楽団『ハワイ・チャンプルー』(1975年)、細野晴臣『トロピカル・ダンディ』(1975年)『泰安洋行』(1976年)につながり、さらに喜納昌吉の本土デビュー(1977年)につながったというストーリーが続き、「ハイサイおじさん」のインパクトがいかに大きかったかを再確認することになった。
ところで、久保田麻琴が初めて「ハイサイおじさん」を聴いたのは1974年で、その時に持ち帰ったシングルのジャケット(まだうら若き喜納昌吉が写っている)をステージ上でプロジェクションしていたが、ネット上ではこのシングルの発売年は「1976年」とされていて矛盾がある。これは久保田麻琴の記憶違いではなく、誰かが間違えて「1976年リリース」としたものがネット上で連鎖的に拡散したものだ。マルフクの商品には基本的に発売年が記されていないし、これといった記録も残されていないので正確な発売年月日は不明だが、父・喜納昌永の71年のアルバムに収められたものが初出であることは確認されている。74年に沖縄でヒットしているところをみると、マルフクは73〜74年に「ハイサイおじさん」のシングル盤を発売している可能性が高いが、シングルの音源が、初出アルバム音源と同一であるかどうかは確かめていない。
今回のトークについては、打ち合わせらしい打ち合わせはなかったという。そのせいか後半は話が散らかり気味だったが、久保田麻琴が宮古の音楽に惹かれた話がコアになっていた。久保田麻琴は、2009年に「南嶋シリーズ」と題して4枚のアルバムをプロデュースしている(発売元:アルケミーレコード)。波照間、宮古・多良間、宮古西原、池間の古謡を「復元」したものとして民俗学的価値は高い。小泉文夫や照屋林助がやり残した作業を久保田麻琴が引き継いだ恰好だ。同年には、東京青山の草月会館で、CDに収録された古謡の歌い手・踊り手を一堂に集めたイベントも開催されている。久保田麻琴自身は、マレーシアのMac & Jennyなどとのプロジェクト「BLUE ASIA」の一環として、これらの古謡を埋めこんだ「Sketches of Myahk」(2009年)という作品を残している。この作品は2011年に公開された映画「Sketches of Myahk」(大西功一監督)のサウンド・トラックにもなっていた。
総じていえば、沖縄音楽だけでなく音楽一般に対する細野晴臣、久保田麻琴の感覚の鋭さがよくわかるトークショーだったが、YMO、サンディー&サンセッツあたりまで話が広がることを期待していた観客にはちょっと届きにくい内容だったかもしれない。トークの中では、この日の午前中の出来事として、久保田麻琴が朝食をとろうと那覇市内のカフェに入ったら、細野晴臣が先客としていたというエピソードが披露されていた。観客はこうした「ちょっといい話」を聴きたかったはずだ。
二人のトークが終わると入れ替わりに喜納昌吉が、チャンプルーズのキーボード奏者の石岡裕(ゆたか/マネージャー兼任)を伴ってステージに登場した。喜納昌吉は、細野晴臣、久保田麻琴が袖に引っ込んでしまったことに戸惑いを見せ、舞台の袖に語りかけて二人に再登場を求めた。2分ほどで細野・久保田のご両人が現れ、あらためて3人で語り合った。が、3人トークはなんだかぎこちなかった。3人揃えばもっとおもしろいトークができたはずなのだが、開演時間が押すなどして打ち合わせ時間がほとんどなかったせいだろう。滅多にない機会だけに準備不足が惜しまれた。
喜納昌吉は「ハイサイおじさん」「花〜すべての人の心に花を〜」の2曲を熱唱したが、観客が聴きたい唄を聴きたいときに歌うというそのサービス精神はもっと評価されていい。今も「喜納昌吉は変人だ」「喜納昌吉はクレイジーだ」という評価ばかりが目立つが、喜納昌吉はたおやかな感性の持ち主であり、意外に思われるかもしれないが、物事を「公平」に考えることができる人物である。これまでも、「負」の側面に対しては「正」の側面を突きつけ、「正」の側面に対しては「負」の側面を突きつける、といった独特の「バランス感覚」を示してきたが、その事実は理不尽なほど理解されていない。この日も熟した芳香が漂ってくるかのような、実に見事は唄三線を披露したが、あれだけワイルド且つデリケートなパフォーマンスを表現できるアーティストが、沖縄に何人いるだろうか?いちばん残念なのは、沖縄の人びとが喜納昌吉のこうした「真価」にほとんど気づいていないことだ。
なお、「花」が収録された1980年のセカンド・アルバム『BLOOD LINE』(ライ・クーダーが参加したことで知られるアルバム)について、喜納昌吉は当初プロデューサーだった矢野誠と喧嘩したことをステージ上で告白した。この事実は業界的には知られているが、本人が公の場で発言するのは珍しい。矢野が現場を離れ、事実上のプロデューサー役を務めたのは久保田麻琴だった(チト河内とライ・クーダーも協力)。
喜納昌吉のステージが終わると大工哲弘が登場。久々に観る大工さん、随分お年を召したかのように見えたが、おやじ風の駄洒落連発で元気旺盛は実に目出度い。が、最大のトピックは、サポートするミュージシャンだ。ベース=細野晴臣、ギター=久保田麻琴、フラット・マンドリン、ギター=高田漣、カホン=伊藤大地という編成はまさにスーパー・セッション。「月ぬ美しゃ」と高田渡のカヴァー「生活の柄」やカチャーシー(アンコール)などを演奏。『「沖縄を返せ」を歌われたらおれはどう反応すりゃいいんだ』という不安はあったが、幸いなことにそれは杞憂に終わった(わかる人にはわかるでしょ?)。途中高田漣がボーカルをとって大瀧詠一「びんぼう」をカヴァーするわ、細野晴臣が島太鼓を叩くわで大いに盛り上がった。
大工師「細野さん、ふつう大太鼓は左、小太鼓は右に置くんだけどね」
細野師「そうなの?あ、それのほうが叩きやすいかも」
といったやり取りもあった。
野太い声でダイナミックに歌うのが大工師の持ち味だということはわかっている。「もっと丁寧に歌えば彼の歌の世界はもっと深まるのに…」といった思いも頭を掠めたが、スーパーセッションに出会えた幸せのほうがはるかに優ったことは事実で、大工師への注文などどうでもいいことにも思えた。
あっという間の2時間だったが、沖縄でこうしたイベントが開催された意義は大きい。地元紙も取材に来ていたが、記者諸氏はこのイベントをどう捉えただろうか。「沖縄の独自性」への覚醒と拘りだけでなく、それがある種の普遍性を伴って本土と沖縄を「共振」させてきたという事実を突きつめていけば、文化の独自性を政治的に強調する行為がたんなる「軽挙妄動」であることは明らかだ。細野晴臣、久保田麻琴、喜納昌吉という、沖縄と本土のポピュラー音楽の架け橋となった3人のミュージシャンの功績はきわめて大きい。が、それは「沖縄と日本」というような括りで捉えるべきものではなく、まして政治的なフィールドで利用すべきものでもない。あくまで「世界音楽の特殊性と普遍性」という文脈で捉えるべきものだ。この点はしっかり確認しておきたいが、果たして理解してもらえるかどうか。
おまけ:終演後、大工師は、星野源のバックでも知られる伊藤大地を伴って栄町「生活の柄」で祝杯を挙げ、細野師たちは久茂地の「LE GUMBO」(ル・ガンボ)で食事をしたという。 これも「なかなかいい話」じゃないですか、みなさん。
なお、翌日の本公演も聴いたが、以下に情報のみ記しておきたい。
日時 6月25日(日) 開場17:30 開演18:00
場所 桜坂セントラル
出演 細野晴臣(ボーカル・ギター),高田漣(フラットマンドリン&ギター), 伊賀航(ウッドベース), 伊藤大地(ドラムス)
チケット 一般¥7,000(税込・1ドリンク代別)